追憶
追憶 7
本家の敷地内に入った車は、そのまま通りに沿って、邸の玄関まで走る。 徐々に邸が見えてきた辺りで、桜花(おうか)が軽く目を瞠った。 「ん?あの人影は…」 玄関口に紺色の着物を纏った女性が一人佇んでいる。 会うのは一年振りだが、見忘れよう筈がない。 蓮(れん)にとっては姉、桜花にとっては伯母に当たる菻(りん)である。 既に他家に嫁いでいる彼女は、正確には咲(さき)一族ではない。 しかし、実質一族としては二人だけになってしまった蓮と桜花の身を案じて、本家に頻繁に顔を出し、何くれとなく世話を焼いてくれていた。 桜花とほぼ同時にその姿を認めた蓮が、急にそわそわし出す。 「桜花。君が先に車を降りて、菻の気を逸らせてくれないかな?その間に僕は反対側からこっそり降りるから」 言いながら、外から姿が見えないよう身を縮める。 「…無駄じゃないか?」 桜花が呆れ気味に呟く間にも、車は玄関前に到着し、緩やかに止まる。 姿勢を低くしながら、蓮が手振りだけで、桜花に降りるよう促した。 桜花は軽く肩を竦め、素直に車を降りる。 待ち受けていた菻が、笑顔で迎えてくれる。 「お帰りなさい、桜花。一年の長旅ご苦労様」 「菻も邸の管理を有難う。でも、一年じゃ長旅とは言えないよ。成人の儀を終えたら、一年どころか、旅が日常になるだろうし」 「それもそうね」 桜花の言葉に笑った菻は、その笑顔のまま、視線を車の向こう側へと動かした。 「見苦しいわよ、蓮。おとなしく出てきなさい」 降りた車から、見付からぬようそっと離れようとしていた蓮は、見咎められて首を竦める。 「…良く分かったね、菻」 「分からない訳ないでしょう」 何処か気迫のある笑顔を保ったまま、言葉を返す菻の隣で、桜花は肩を竦める。 「だから、無駄だと言っただろう」 桜花にまで淡白に言われ、蓮は肩を落とす。 しぶしぶといった様子で、車を周り、桜花と菻の元へ向かう。 その間に、桜花は手早く運転手に料金を支払い、礼を言って去る車を見送った。 菻は近付いてきた弟の腕をがっしりと掴む。 「やっと捕まえたわよ、蓮。さあ、この一年間積もりに積もった話をじっくり聞いてもらうわ。 一年前にお預けになった話も含めてね。逃げるのは許さないわよ」 菻の笑顔に少々怖気付きつつも、蓮は微笑む。 「お手柔らかに頼むよ…」 「それは貴方次第ね」 あっさりと言い、菻は桜花へと振り向く。 「私がこの当主を解放しない限りは、成人の儀が始まることはないわ。それまで、部屋でゆっくりお休みなさいな」 先ほどまでとは打って変わった優しげな笑みを浮かべて、そう促す。 桜花は素直に頷いた。 「でも、あんまり締め上げ過ぎて、使い物にならなくなったら困るな。程々にするよう俺からも頼むよ」 「酷い言われようだ…」 蓮がポツリと呟くが、その言葉は無視される。 菻が華やかに笑った。 「貴方も言うわね。心配しないで。それくらいは心得ているわ。さ、行きましょ、蓮」 「じゃあ、桜花。また、食事のときにね」 半ば引き摺られるように屋敷内へと連れて行かれながら、蓮は暢気に手を振る。 既に常の調子に戻っている蓮に軽く手を振り返しながら、桜花は内心感嘆してしまう。 「如何なるときにも自分を見失わない、という点は見習うべきか?」 いや、この場合はどうだろうか。 そんなことを、ひとりごちていた桜花だったが。 不意に、ぱっと振り返る。 その勢いに、青銀の髪が空に舞い散るように拡がった。 乱れて目の上に降り掛かる髪もそのままに、桜花はじっと、背後の森を見据える。 視線を感じたのだ。 見据える先に、僅かな気配がある。 風が緑の梢を揺らして、通り過ぎる。 桜花は、ふっと青銀色の長い睫を微かに揺らしながら、瞬きをする。 気配が消えた。 気の所為だとも思える淡い気配。 が、一瞬の視線の強さが、気の所為ではないことを確信させる。 「誰だ…?」 桜花は訝しげに呟く。 しかし、その言葉に応える声はない。 僅かに柳眉を顰め、無駄とは知りつつ、暫しの間、桜花は森の奥に気配を探る。 やはり、去った気配は捉えられず、桜花は小さく溜息を吐く。 細い指で目の上に降り掛かる髪を掻き上げながら、踵を返した。 華奢な背中が扉の内に消えた後。
くすり、と。
低い笑み声が風に紛れた。
桜花が視線に振り返ったのと時を同じくして、先に邸に入った蓮もまた、気配に気付き、窓外へと目をやる。 緊張した様子で、森に向かって佇む桜花の華奢な後姿が見える。 「どうしたの?」 「いや…」 怪訝そうに問う菻に、何でもないと首を振ってみせる。 菻は軽く柳眉を顰めて、弟を見詰める。 が、それ以上問い詰めることはなく、玄関を入ってすぐ脇にある応接間へと、入るように促す。 素直に従った蓮が部屋に入ると、菻も続き、後ろ手に扉を閉めた。 蓮はゆっくりと部屋の中央に置いてある長椅子へと歩を進め、腰を掛ける。 「さ、心の準備は万端。聞くよ。どんな話だい?」 穏やかな眼差しで姉を仰ぐ。 菻は扉を閉めた体勢のまま、立ち尽くしている。 「座らないのかい?」 不思議そうに問い掛ける蓮の言葉に、菻は顰めていた眉を更に寄せた。 そうして、鋭い眼差しで蓮を見る。 「どういうつもり?」 「どういうつもりって?」 きょとんとする蓮に、腹立たしげな溜息を吐いて、菻は足音高く扉から離れ、蓮と向かいの長椅子へと腰を下ろす。 「全てよ。今回の成人の儀…いえ、桜花に関わる全てのことに対して。 貴方の行動は、長年受け継がれてきた咲一族の慣習に反することが多過ぎるわ。貴方は咲一族をどうするつもりなの?」 感情の迸るまま言葉を発した菻は、目前の蓮の表情を見て、はっと息を呑む。 蓮は穏やかな表情のまま、菻を見詰めていた。 だが、青い瞳に宿る光が違う。 「君がそれを僕に訊くのかい?」 端整な顔に浮かぶ表情と同じ穏やかな問い。 しかし、菻は蓮から目を逸らし、俯いた。 「ごめんなさい…私は今は咲一族ですらない人間なのに。出過ぎたことを言ってしまったわ… 咲一族には、総帥になる者にしか受け継がれないものがある…総帥ではない人間が、あれこれ言う資格はないわよね。でも…」 そこまで言って、もどかしげに唇を噛む。 そんな菻を見詰め、蓮が微笑んだ。 「菻が咲一族の行く末と、僕等のことを心配をしてくれているのは、ちゃんと分かっているよ。有難う」 穏やかな声音。 柔らかな言葉。 引かれるように顔を上げた菻を見詰める瞳には、先程の冷えた光はない。 「大丈夫だよ。僕は咲一族総帥としての務めを放棄することはない」 今、その瞳に宿るのは、決意の光だ。 それは揺るぎないのに、浮かぶ微笑も穏やかなのに、却って心許無さを覚えさせられる。 菻は何処か不安げに問うた。 「それは…あの子の為にもなることなの?」 蓮が再び小さく笑う。 「どうかな…?僕はそのつもりでいるけれど…」 「それなら良いわ…」 その他の言葉を飲み込むように、菻が言う。 蓮の微笑みに僅かな苦味が混じる。 「…ごめん」 それは、異論を封じることに対する謝罪なのか。 それとも、別の… 自ら問いを封じて、菻は立ち上がる。 「全くだわ。貴方たちは私に手間と心配を掛けさせるばかりなんだから」 「そのことに関しては、本当に申し訳ないと思っているよ」 「まあ、私自身も好きでやっていることだから、責めるつもりはないけれど」 続いて立ち上がる蓮に、菻もまた微苦笑を向ける。 「何も知らない身も辛いものよ。目の前に何もかもを背負い込んでいるひとがいると、特にね。だから、たまには愚痴ぐらい言わせて」 「勿論、構わないよ」 頷く蓮に微笑み掛け、菻は部屋を出て行った。 それを笑顔で見送った蓮は、ふと、笑みを消す。 す、と視線を窓へと向け、近付く。 硝子越しに、外を窺う。 緑の木々を揺らす風。 その合間に、気配を探る。 青い瞳が細められた。 「…来たか」 誰にともなく、呟く。 「だが、そちらの好きにはさせない。咲一族代々総帥の願いと、その魂に掛けて…」 挑むように誓う。 不意に、微かで低い嘲笑が耳に触れた気がして、蓮は整った眉を顰め、窓から顔を背けた。
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