追憶
追憶 6
大きな音を立てて、飛行機が飛び立っていく。 「桜花(おうか)」 窓からその様子を見るともなく眺めていた桜花は、呼び掛けに振り返った。 細い背の半ばまでを覆う青味を帯びた銀色の髪が、さらりと揺れる。 視線の先には、穏やかな笑顔の青年の姿がある。 「蓮(れん)」 「車の手配が済んだよ」 蓮と呼ばれた青年は、その笑顔に相応しい優しい声音で言葉を紡ぎながら、桜花へと近付く。 窓越しの陽射しに、その黒髪が青く透ける。 桜花を見詰める青い瞳が、緩やかに細められ、端整な口元が柔らかに撓んだ。 その笑顔に、常とは違う嬉しげな様子を感じ取り、桜花は軽く華奢な首を傾げる。 無言の問いに、蓮は笑みを深めて応えた。 「さっき受付でね、嬉しい誤解を受けたんだ」 「嬉しい誤解?」 何だそれは、と桜花は怪訝そうに瞬きを繰り返す。 「同行者についての確認でね、受付から見える位置にいた君を指し示したら、『ごきょうだいですか?』って」 「へえ」 相槌を打ちながらも、桜花は首を傾げたままだ。 そのような誤解なら、良くあることだ。 さほど嬉しがることでもないのではないだろうか。 そう思う桜花を他所に、蓮は尚、愉しそうに、くすくすと笑い、言葉を継ぐ。 「『違いますよ』って応えたら、受付の人、次は何て言ったと思う?」 「さあ」 「『それじゃあ、恋人ですか?』って。『お若くて可愛らしい恋人ですね』って、羨ましがられたよ」 蓮の言葉に、桜花は首を傾げたまま、奇妙な表情になった。 「…で、それにどう応えたんだ?」 「うん、嬉しかったから、否定せずに戻って来た」 悪びれることなく言い放ち、蓮は桜花の傍らに置いてある鞄を持ち、行こうと促す。 桜花は溜息を吐いて、自分の荷物を持ち、歩き出した。 「何処の世界に、自分の子供を恋人に間違えられて、喜ぶ父親がいる?」 「少なくともここに一人」 己を指差しながらにっこりと笑う蓮を、桜花はいよいよ呆れ顔で見る。 その視線に、一向構うことなく、蓮はしみじみと言葉を紡ぐ。 「いやいや、僕もまだ、充分若いな、と思ってね」 その言葉に、不意に桜花は真顔になる。 「それは事実だろう」 澄んだ水色の瞳で、傍らの父親を見詰めた。 端整で穏やかな顔立ち。 それほど背が高い訳ではないが、姿勢が良くすらりとした肢体。 蓮が父親になったのは、十五のときだ。 桜花が十四歳となった今も、三十にすらなっていないのだから、充分に若い。 この歳の子供を持つ父親としては、若過ぎると言っても良いくらいだろう。 「嬉しいことを言ってくれるね」 桜花の言葉に、蓮は屈託なく笑う。 「褒めても、何も出ないよ?と言いたいところだけど、桜花のおねだりだったら聴いてみても良いかな。言ってごらん」 桜花も思わず、声を上げて笑う。 「何だよ、おねだりって。俺は事実を言っただけ」 そんなことを言うから、間違えられるんじゃないのか?と、桜花が付け加えたところで、目的の車へと辿り着いた。 待ち構えていた運転手よりも先に、蓮が車の扉を開き、桜花に向かって、笑顔で乗るように促す。 「有難う」 そこまでしなくて良いのに、と華奢な肩を軽く竦めてから、桜花はさして多くもない荷物と共に、車の後部座席に乗り込んだ。 続いて蓮が乗り込むと、車は静かに走り出す。 桜花は何とはなしに、窓外へと目を向けた。
一年振りの故郷だ。 しかし、街の様子はさほど変わっていないように見える。
「桜花」 不意の呼び掛けに、桜花は隣へと振り向いた。 蓮もまた、つい先ほどの桜花と同じように窓外へと目を向けていた。 そうしながら、ぽつりと言葉を零す。 『まだ、旅を続けたかった?』 呟くような問いは、彼らが帰りついたこの彩和国語ではなく、遥か北方の小国の言葉で発せられた。 同じ車内にいる運転手には、恐らくその言葉は分かるまい。 勿論、幼少時からあらゆる国々の言葉に触れてきた桜花には分かる。 その桜花の澄んだ大きな瞳が丸くなった。 次いで、その名の通り、桜の花弁のような唇を綻ばせる。 蓮が口にした同じ国の言葉で返す。 『何言ってるんだよ。これから本家で成人の儀を終えたら、嫌でも旅の生活に戻るんだ。久々に彩和に帰れたんだから、嬉しいよ』 『そうか…それなら良いんだ』 『どうしたんだよ、突然』 『いや、さっき、空港で君が窓から発着場の様子を見ていたからさ。まだ、本家に帰りたくないのかと思ったんだ』 『ただ、何となく眺めていただけだよ。深い意味はない』 『そうか…』 蓮がやっと振り向いて桜花を見る。 唇には淡い苦笑があった。 その笑みを見て、桜花はふと、旅を続けたかったのは、蓮の方なのではないかと思った。 しかし、咲(さき)一族の成人の儀がある。 仮にも咲一族総帥である身で、代々受け継がれていた儀式を取止めることは出来ないだろう。
十三の歳を迎えてから、この一年、桜花は蓮と共に、医術師として、世界中を巡った。 様々な国を訪れ、様々な人々の求めに応じて、医術を施す。 時には、特殊な能力を用いて。 そうしながら一年間、医術師としての修行を積むのが、咲一族直系の成人の儀なのである。 咲一族直系は、成人として認められる十三歳になるまで、彩和にある本家で育てられる。 その間、邸から離れることは殆どなく、医術師としての知識、技術のみならず、 語学、芸術様々な分野の学問を、徹底的に教え込まされる。 桜花もまた、父であり、一族総帥である蓮に師事し、医術師として、何より次期一族総帥として、相応しい教育を受けてきた。 教え込まされる質や量は、半端なものではなく、十三年間邸から離れられなくなるのは必然とも言えた。 が、桜花はその生活をさして窮屈に感じてはいなかった。 世界中で見聞を広めた蓮の話には、興味が尽きることはなかった。 また、邸内の図書室にも、医学、薬学を始めとして、他にも様々な分野の書物が世界中から集められ揃えられていた。 国立図書館に匹敵するほどの蔵書量を誇るその図書室は、桜花の知識欲を目覚めさせ、飽きさせることがなかった。 また、広大な敷地内の森の近くには、馬場や弓道場などの設備があり、勉学の合間を縫って、充分な運動も出来た。 何より、蓮から、知識だけではなく、深い愛情を注がれていたことが大きい。
とはいえ、一族のしきたりに盲目的に従ってきた訳ではない。 何気なく、今までの十四年間を振り返っていた桜花は、不意に笑みを零した。 『どうしたんだい?』 蓮が不思議そうに問う。 桜花は踵を軽く座席の端に掛けて、片膝を引き寄せ、両腕で抱え込むようにしながら、傍らの蓮を見た。 『蓮は俺を甘やかし過ぎだよな』 『そうかな?』 『そうだよ。大体、この一年の旅だって、本当なら俺一人で行くのが、慣例だった筈だ。 それが、突然自分も行くことにしたって、空港まで追い掛けて来て…掟破りも良いところじゃないか』 あの時は桜花も、流石に呆気に取られた。 それでも、同行を拒もうとしたが、蓮は有無を言わせなかった。 彼にしては珍しい強引さで、自分の意思を貫き通した。 その常にない強引さに引っ掛かりを覚えなかった訳ではない。 が、正直桜花自身も一族のしきたり全てに拘る気はなかったので、結局は同行を許したのだった。 『う〜ん…そう…かな?』 桜花に悪戯っぽい眼差しで見詰められ、蓮は決まりが悪そうに人差し指で頬を掻く。 『でも、元々成人の儀の旅に、同行不可だという家訓はないんだよ』 『そうなのか?』 蓮の言葉に、桜花は意表を突かれたように、大きな瞳を瞬かせる。 『そうだよ。だから僕は掟破りはしてない』 その様子に勢いを得て、蓮は開き直って主張した。 まじまじと蓮を見ていた桜花は、次いで小さく吹き出す。 『威張って言うことか。それに甘やかしだって言う事実は変わらないじゃないか』 『…うん、まあ…そうかもね』 蓮は再び決まり悪げに、苦笑いする。 『俺の旅に同行することは言わないで出てきたんだろ』 『当たり前じゃないか。言ったら、引き止められるよ』 『だから、威張るなよ…しかし、流石に今はもうばれてるだろうな』 『…だろうね』 『菻(りん)が怒ってるだろうなあ…』 引き寄せた片膝の上で軽く頬杖を突き、少し遠い目をしながら桜花が呟くと、蓮は不意に肩を落とす。 『……うん…』 応える声が、あまりにも意気消沈していて、桜花は再び吹き出しそうになる。 が、慌てて堪えた。 相手は仮にも父親だ。 あまり、笑っては、親としての沽券を傷付けるだろう。 『あんまり、菻の怒りが治まらないようだったら、俺も取り成すよ』 『有難う、助かるよ』 「…気を遣う必要はなかったかな」 心底ほっとしたように、笑顔を浮かべる蓮を見て、桜花は思わず、彩和国語で呟く。 「何が?」 『いや、何でも』 不思議そうに訊き返されたが、桜花は元の言葉に戻した上でさらりと躱した。 この様子だと、蓮は親としての沽券になど拘ってはいまい。 そう確信する子の心の内に気付くことなく、蓮はのんびりと言葉を継ぐ。 『菻は少しきついからね。それだけ心配してくれているのは分かるんだけど』 『そうだな』 相槌を打ちつつ、桜花は首を傾げる。 『やっぱり、腑に落ちないな。今更だけど、蓮は何だってそんなにまでして、俺の旅に同行したがったんだ? そんなに俺が危なっかしく見えたとか?』 『そんなことはないよ。理由は一年前に応えたとおりだ。桜花と一緒に旅をしたかった。それだけさ』 それだけとは思えなかった。 しかし、こうして改めて訊ねても、応えが同じなら、蓮は決して真の理由を打ち明けたりはしないだろう。 穏やかで柔らかそうに見えても、蓮は頑固だ。 その頑固さは勿論、桜花にも受け継がれているのだが。 桜花は追及を諦め、首を傾げたまま、次の疑問点を口にする。 『でも、一般的に考えて、成人の儀の一環である旅に、親が同行したら、意味がないよな?』 『う〜ん…まあ、良いじゃないか。今更だよ』 『咲一族総帥がそんな適当で良いのか…?』 他愛ない会話を交わしているうちに、車は本家へと到着した。
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