追憶

 

   追憶 8

 

 夜風が木々の葉をざわめかせる。

 肌を撫でるそれは心地良い。

 見上げれば、木々の合間から、蜜色の光を注ぐ月。

 桜花(おうか)はひとり、中庭の亭(あずまや)でくつろいでいた。

 月が明るいと雖も、亭を覆うように繁る木々が落とす影は濃く、亭内も殆どが闇に覆われている。

 しかし、桜花はそんな闇を微塵も怖れることなく、設えられた椅子に半分寝そべるようにしながら、

風に揺れる木々の葉と月の光が綾なす陰影を飽くことなく眺めていた。

 大きく息を吸うと、仄かに甘い花の香りを孕んだ空気が肺に満ちる。

 

 伯母である菻(りん)を交えた、本家での一年振りの夕食。

 その席は和やかなものだった。

 蓮(れん)は常と変わらぬ穏やかな様子で、桜花や菻と言葉を交わしていた。

 だというのに、何処か張り詰めた緊張感が漂っているのを、桜花は感じ取っていた。

 気のせいだと済ますことが出来る程度の、一抹のものではあったが。

 菻も心なしか言葉を選んで会話をしていたような気がする。

 これは何だろうか。

 桜花は小さく溜息を吐き、目の上に振り掛かる前髪を無造作に掻き上げる。

 どうもあのような雰囲気は苦手だ。

 自分が抱く違和感を訴えようにも、その相手である蓮は、こちらに問う暇を与えない。

 今までにはなかったことだ。

 常に、蓮は、桜花が問いを投げ掛ければ、必ず答えを返し、どんな些細なものであっても、

当の桜花自身よりも聡く、心の内の蟠りを見抜き、解消する手掛かりを与えてくれた。

 そんな蓮に心身ともに守られて、桜花はこの十四年間を過ごしてきたのだ。

 故に、桜花は、初めて経験する新たな事態に戸惑っていた。

 鬱々と考え込むのは趣味ではないが…

桜花は心地良い夜風に身を委ねながら軽く腕を組み、自分なりに考えを巡らせる。

「もうすぐ成人の儀だからか…?」

 これを終えたら、自分は公私共に、一人前の扱いを受けるようになる。

 今後は自分の抱く疑問や蟠りを、他者に頼ることなく、ひとりで解決するよう努力しろと言うことか?

 …違うような気がする。

確かに、自分で考える前に答えを与えて貰おうとするのは愚かなことだ。

しかし、考えても答えが見付からず、行き詰まってしまったときに、他者から助言を得ることは悪いことではない。

それは成人した後も変わらない筈。

 そう…そもそもの問題は、本家に戻ってきてからの、蓮の態度がおかしいということなのだ。

 

 ふと、桜花は柳眉を顰めて、身を起こした。

「誰だ?」

 凛と透き通った声音が向かう先に、何時の間にか背高い人影が佇んでいる。

 その顔は重く枝垂れる枝葉に半分ほど隠されていたが、微笑む口元だけは辛うじて確認することが出来た。

「これは失礼した。どうやら迷い込んでしまったらしい」

 笑みを含んだ低い声音が悪びれない口調で答えを返す。

「ああ…この屋敷には塀がないからな…」

 納得して頷いた桜花は、ゆっくりと木立の合間から姿を現した相手の姿に、一瞬息を呑んだ。

 まず、目に入ったのは、月明かりを受けて燦然と輝く黄金の髪。

 そして、その金の髪が縁どる圧倒的な美貌。

 真紅の瞳が、その顔立ちをますます人ならざるものに見せている。

 いや、実際に人ではないのだろう。

 その場に漂う空気すら圧して従わせる気配に、桜花は悟らざるを得なかった。

 だが、無駄に畏れることはしない。

 向けられる強い視線を受け止め、真っ直ぐに見返す。

 と、冷たいとすら見えた眼差しが、僅かに和らいだ。

「…?」

 何処か懐かしむような光を孕む瞳に、桜花は首を傾げる。

「貴方と何処かでお会いしただろうか?」

 どうやら年上らしき青年に、口調を改めて問うてみる。

 無邪気な桜花の様子に釣り込まれるように、青年の端整な唇が笑みを刻む。

「そうだな…昔……が、そなたは覚えてはいまい」

「昔…俺が子供の頃だろうか?蓮…父の知り合いなのか?」

 そう問いを重ねたのは、桜花もまた、ほんの僅かではあったが、懐かしいような胸の疼きを覚えたからだ。

 しかし、人ならぬ青年はその問いには答えず、紅い瞳で桜花を見詰めた。

 やがて、端整な唇を開く。

「麗しいな…」

 淡々としていながら、感嘆の響きが篭められた言葉に、桜花は一瞬面喰う。

 ややして、己の容姿が讃えられていることに気付き、肩を竦めた。

「貴方にそう言われるほどではない」

 桜花の返答に、ゆっくりと青年の唇が笑む。

「戯言ではない。月、星、花…この世の美しいとされるもの全てを従える麗しさだ」

「ますます冗談に聞こえるんだが…」

 臆面もない賛美に、桜花は呆れたように相手を見上げる。

 が、自身が言った通り、青年の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。

 

 ふと、その真紅の瞳に捕らわれるような錯覚を覚える。

 

「月も花も…この世の全てのものは滅びゆく定め……美しいままではいられぬ。だが、お前は違う……」

「…え?」

 軽い酩酊感。

 気が付くと、いつの間にか、青年が傍近くまで来ている。

 青年の白く、長い指が伸びてくる。

「この時を、どれだけ長く待ち侘びていたか……」

 今にも、青年の指が桜花の頬に触れようとした刹那。

ふいに青年が手を引いた。

 同時に、靄が掛かっていたようになっていた桜花の頭も冴える。

 桜花は澄んだ瞳を見開き、きり、と相手を見据える。

「今、俺に何をした?あんたは…蓮の知り合いではないな。誰だ?」

 強い光を浮かべた瞳を真っ直ぐに向けて問う桜花に、青年は微笑んだ。

「恐らく、この世で最もお前に近い存在…とでも言っておこうか」

「意味が分からない!」

「やはり、分からぬか…まあ、良い。慌てずとも、いずれ分かる」

 す、と青年が遠ざかる。

「今度は邪魔が入らぬところで、ゆっくりと語り合いたいものだな…」

 木の間が作る闇に背高い姿が紛れる。

「…ッ待て!」

 桜花が立ち上がった時には、光を受けて輝く筈の黄金の髪も影に覆われ、見えなくなっていた。

 風に揺れる葉擦れの音が、再び舞い降りた静寂を更に深める。

 夜風が桜花の青銀の髪を柔らかく梳いていき……

 下草をゆっくりと踏み分ける足音に、桜花は、はっと息を呑む。

 身構えて足音が近付いてくる方角を見据えるが、やがて現れた姿に、詰めていた息を吐いた。

「蓮…」

 が、思わず安堵の息を吐いた桜花とは裏腹に、蓮の表情は強張っていた。

 

『今度は邪魔が入らぬところで…』

 

 青年の言葉が瞬時に蘇り、桜花は確信する。

「蓮は今の男を知っているんだな?」

「……」

 蓮は答えない。

「蓮!!」

 焦れた桜花が声を大きくする。

 蓮が僅かに俯き、小さな溜息を吐く。

「直接には知らないよ」

 そう応えつつ、桜花がいる亭へと入ってくる。

 小卓の上に手にしていた葡萄酒の壜と硝子の盃を置いた。

「飲むだろう?」

 そう言って視線を上げ、まだ、物言いたげに見上げてくる桜花を見る。

 青い瞳が笑みに細められた。

「良いね、その着物も。似合っているよ」

 不意の褒め言葉に桜花は瞬きを一つして、己の姿を見下ろした。

 簡素な黒いパンツと白いシャツ。

 その上に、黒地に白の大菊を散らした振袖を無造作に羽織った姿だ。

 一年前まで本家で暮らしていた頃は、身体を動かすとき以外は常にこのように装っていた。

 羽織る着物は、咲一族の直系に生まれた女性が、古くから受け継ぎ、或いは新たに仕立てて次世代に残してきたものだった。

 しかし、徐々に一族の数が減り、ついには、直系の女性は菻しか存在しなくなってしまった。

 菻が一族を離れる際に、半分ほど持って行ったのだが、それでも多くが残された。

 そこで、蓮がただ仕舞い込んでいるだけよりは、と、桜花に上着代わりに羽織らせるようになったのだ。

「成人祝いに今度新しい着物でも仕立てようか?」

 盃に酒を注ぎつつ、そんなことを言う蓮に、桜花は首を振った。

「ただでさえ溢れてるのに、これ以上増やさなくて良い」

「そうか。残念だなあ」

 蓮に促され、盃を受け取った桜花は、再び椅子に腰を下ろした。

 微かに盃の縁を触れ合わせ、酒を口に含む。

 暫しの沈黙。

 やがて、蓮の方が先に口を開いた。

「あの男に、何かされた?」

 問われて、桜花は改めて考え込む。

「…何か、呪のようなものを掛けられたように感じた。

何処かに引き擦り込まれそうな…感覚が曖昧になるような……だが、実のところ、何かされた訳ではないのかもしれない」

 桜花が味わった感覚は、あの青年に出逢ったことで、自然に自らの内から沸き起こったものかもしれない。

「…俺は、あの男を知っているんだろうか……?」

 零れ落ちた問いに、蓮は答えなかった。

 代わりに、こう言った。

「あの男について僕が知っていることはそう多くないが、君にだけは危害を加えないだろう。それだけは保証するよ」

「俺にだけは?それじゃあ、他の者…例えば蓮に対しては?」

「さあ、どうだろうね?」

 桜花の鋭い問いに、蓮は小さく笑う。

「彼の邪魔をしなければ、何をされることもないだろうけれど…」

 それ以上、蓮はこのことについて語らなかった。

 桜花も蓮の意を汲み取り、問いを重ねることは止めた。

 盃を交わしつつ、思いを巡らす。

あの青年とは恐らく近い内に再会することになるだろう。

そして、恐らく蓮は彼の妨げをするつもりなのだ。

ならば、己は間違いなく、蓮に従うだろう。

 

そう、迷いなく信じていた。

 



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