追憶

 

   追憶 5

 

 唐突に耳を打った言葉の意味を、砂月(さづき)は一瞬、捉えることが出来なかった。

 徐々に理解するにつれ、顔が強張ってくる。

「桜花(おうか)…」

 内心の動揺が如実に表れた呼び掛けに、桜花が微苦笑する。

 我に返った砂月は、動揺を振り切るように軽く首を振った。

「冗談はよしてくれ」

 険しさを滲ませる口調で返した砂月を、桜花は静かに見詰め返す。

「何故、冗談だと思う?」

 常にない抑揚のない口調。

そして、相変わらず澄んでいるのに、その心の内が読めない水色の瞳。

一瞬躊躇い、しかし、砂月はきっぱりと応える。

「僕は君との付き合いは長い方じゃない。それでも、分かることはある。

君は絶対に、どんなことがあっても、誰かを殺めたりするようなことはしない。しかも、その相手が蓮(れん)さん…君のお父さんだって?

あり得ないよ。君はあんなに蓮さんを敬愛しているじゃないか。万が一、それが事実だとしても…君が直接手を下した訳じゃない。そうだろう?」

 断固とした口調で言ったが、桜花は応えなかった。

 ただ、僅かに俯く。

 長い前髪が揺れて、その表情を隠す。

 しかし、砂月は自分の言ったことが間違いではないと確信していた。

 否定の言葉が返ってこないのが、何よりの証拠だ。

 ふと、桜花が小さく笑った。

「前から思っていたんだが…砂月は少し蓮に似てる」

「蓮さんに?」

 砂月は目を瞠る。

 そう言われると、少々複雑な気分だ。

「どんなところが?」

 髪の蔭から覗くほんのりと微笑んだ口元を見ながら、砂月が問うと、今度は応えが返ってきた。

「そうだな…例えば、その話し方とか。あとは雰囲気だな。穏やかで柔らかで落ち着いてる。まあ、蓮は砂月よりボケたところがあったけどな」

「…桜花。仮にも実の父親を「ボケた」って……」

「だって、事実だぞ」

 そう言って、桜花はくすくすと笑う。

 しかし、無邪気な笑い声は、やはり何処か寂しげだ。

 その理由を一刻も早く知りたい。

「桜花」

 そんな気持ちを込めて呼び掛けると、桜花は笑いを収め、す、と立ち上がった。

 そうしながら、腕の、殆ど手首に近い場所に引っ掛けていた着物を無造作に羽織る。

 途端目に入った鮮やかな色彩に、砂月は思わず息を呑んだ。

 小卓を挟んで座っていたのと、それまで桜花が椅子と同化する白い裏地しか見せていなかったので、気付かなかったのだ。

 濃紺の地に、目の覚めるような薄紅の花が咲き乱れている。

 身に纏う美しいひとを表す名と同じ花。

 その花々が、所々金糸銀糸を交えて縫い取られ、或いは、染付けられている華麗な振袖だ。

 それを、簡素な意匠の黒いパンツと白いシャツを纏った細身に羽織る姿が、不思議なほど絵になった。

 否応なく目を奪われて、見惚れていると、視線に気付いた桜花が苦笑混じりに言う。

「本家にいるときは、こんな格好をするのが癖になっているんだ。きっと、可笑しな格好だよな」

「そんなことはないよ、良く似合ってる。桜花だからかな」

「何だ、微妙な感想だな」

「褒めているつもりなんだけど…」

「それはどうも」

 軽く言った桜花は、身振りだけで、砂月に付いてくるように促し、亭(あずまや)から出る。

 砂月もすぐさま後を追った。

 目の前を行く華奢な後姿。

 歩みに合わせて、鮮やかな着物の裾や袖が軽やかに翻る。

 木漏れ日が、咲き誇り、舞い散る桜の上に、更に重ねるように、次々と複雑な紋様を浮かび上がらせては流れていく。

 細い背に流れる髪も、光と影を織り込んで、虹色に煌き、微風に揺らめいた。

 その光景に、幻惑されたのだろうか。

 砂月は一瞬、桜花の姿を見失う。

「…っ!」

 息を呑んだ砂月は大きく一歩を踏み出し、腕を伸ばす。

指先が滑らかな布地に触れる。

その絹の着物越し、更に綿のシャツに包まれた腕を、砂月は反射的に掴んだ。

 桜花がぱっと振り返る。

 軽い驚きに見開かれた透明な瞳に出会って、砂月は我に返った。

「…ごめん」

 腕を掴む力を緩めるが、手放すことが出来ない。

 手を離したら、また、桜花が儚く消えてしまいそうな気がして。

 捉えた腕が、切ないほどに華奢に感じられた。

「何て顔をしてる」

 よほど情けない顔をしていたのだろう、桜花が苦笑めいた笑みを浮かべた。

「……ごめん」

 再び謝る砂月の目の前に、白く細い指が伸ばされる。

 と、

「痛っ!」

その華奢な掌で唐突に、頬を叩かれた。

 思わず、「痛い」と口走ってしまったが、それほど痛い訳ではない。

 だが、軽くもない衝撃に一瞬呆然となった。

そんな砂月を見上げて、桜花がニ、と笑う。

「目が覚めたか?」

「…ああ、覚めたよ」

 殊更、悪戯っぽく響く問い掛けに、砂月もどうにか微笑んで応えた。

 そっと、掴んでいた細い腕を放す。

 すると、桜花は、すいと動いて、さり気なく砂月と肩を並べた。

「…有難う」

「礼を言われるようなことはしていないぞ、俺は」

 屈託ない桜花の応えに、彼のさり気ない優しさを見る。

 やはり、桜花は桜花だ。

 砂月は安堵すると同時に、自分の不甲斐なさを噛み締めた。

 今、精神的に不安定なのは、自分よりも桜花の方だろうのに。

 暫し無言で歩を進めて、ふと傍らを見遣ると、桜花が己の左の耳朶に触れていた。

 その細い指先が辿るのは、桜の花を象ったごくごく小さな、しかし、技巧を凝らした銀細工の耳飾りだ。

 先代総帥より贈られる、咲(さき)一族の総帥である証でもある耳飾り。

 視線に気付いた桜花が、前方を見据えたまま、ごくごく淡く苦笑した。

 再会してから、この笑みを何度見たことだろうか。

 何処か遠い眼差しをしながら、桜花はひとりごちるように言葉を紡いだ。

「…ときどき、この耳飾りを投げ捨てたいと思うことがある」

 再び耳を打った、桜花らしくない言葉に、砂月は絶句する。

 桜花が総帥位を継いだのは、今から五年前…十四歳のときだと聞いている。

 幾ら一族内では十三歳から成人扱いをされるとはいえ、若干十四歳で咲の名を背負ったのだ。

 特殊な能力を持ち、最高水準の医術を施す、医術師の一族。

 一所に留まることなく、世界中を巡るのを習いとする流浪の一族。

 そんな伝説めいた噂以外は、殆どが謎に包まれた一族でもある。

 現在、咲一族が総帥である桜花一人だけであるという事実にしても、砂月は桜花と知り合って初めて知ったくらいである。

 咲一族総帥という地位とそれに伴う責務と業。

 それを華奢な身体で一身に引き受けている桜花の負担は、計り知れない。

 その重い荷を投げ捨てたいと思うのも無理はないのだ。

 しかし、それでも。

桜花は常に、咲一族であることに誇りを持っていた。

 どんなことがあっても、自分が「咲 桜花」であることを投げ出すようなことはしなかった。

 そんな彼の口から、総帥の地位を否定する言葉が出てくるとは、思いもよらなかった。

「そんな驚いた顔をするなよ。「ときどき」だと言っただろう?」

「あ、ああ…」

 それでも、常の桜花ならば、冗談でもそのようなことは言わない筈だ。

 何とも言えない胸騒ぎを抱えつつ、緑を抜ける小徐を歩んでいく。

 不意に、深い木立が途切れる。

 引かれるように砂月が眼を上げると、緑に包まれるように、前方に尖塔を持つ石造りの小さな建物が見えた。

「礼拝堂…?」

「『廟堂』と言う方が近いかもしれない。しかし、祈りをささげるという点では、似たようなものか」

 零れた呟きに、桜花が応えて、その建物に向かって足を踏み出す。

「この『廟堂』には、代々の咲一族総帥以外、足を踏み入れてはならないことになっている」

「え?」

 桜花と並んで歩いていた砂月は、思わず立ち止まる。

 一族総帥以外、入ってはいけないという『廟堂』。

 そこに、桜花は自分を連れて行こうというのか。

 砂月よりも、一、二歩先に進んだところで、立ち止まった桜花が振り返り、肩越しに砂月を見据える。

 非の打ち所がないほど整った顔には、何の表情も浮かんでおらず、殊更人形めいて見えた。

「どうした?理由を知りたいんじゃなかったのか?」

 桜花の透明な眼差しと澄んだ声音。

それだけで、砂月の求める理由は、桜花個人だけではなく、彼が背負う一族全体に関わることなのだと、否応なく知れた。

 いや、砂月には、そのことが始めから分かっていた。

だが、ここに到って、それが自分の想像以上に大きなものであろうことに気付いたのだ。

 改めて覚悟を決め、砂月は再び足を踏み出し、桜花と肩を並べる。

「お前には、以前話したことがあるが…咲は直系に近ければ近いほど、混血が進む。俺の姿を見れば一目瞭然だろうが」

 ゆっくりと歩を運びながら言葉を紡ぐ桜花に、砂月は頷く。

 その名と、この彩和(さいわ)に、恐らく、直系一族が成人するまで過ごす為に構えられた屋敷があるということからも、

流浪の咲一族が彩和国人だということは容易に知れる。

 が、彩和国人の髪や瞳の色は、黒か茶色で、全体的に色素が濃いのに反して、

桜花の纏う色彩は、髪の青味を帯びた銀と、瞳の薄い水色、肌の透き通るような白だ。

その淡い色彩は明らかに、西方の血の齎すものだ。

「それが家訓やしきたりだという訳ではないけどな。何せ、伴侶選びは、最も総帥個人の自由意志に任せられる領域だ。

だから、勿論、彩和国人を伴侶に選んだ例もあった。だが、一族内から伴侶を選んだことは一度もない。

異民族の伴侶を選ぶことが、圧倒的に多かったのが事実だ。恐らく、仕事で世界中を渡る間に伴侶を見付けてきたんだろうな。

結果として、咲一族には世界中に存在する殆どの民族の血が受け継がれている」

「改めて聞くと、不思議だね。まあ、君から聞かされる咲一族の話は、大概不思議なことが多いけれど。

名家といえば、それが由緒あるものであればあるほど、他所の血が入るのを嫌い、血族結婚を繰り返して、血統を保とうとするものなのにね。

咲一族は敢えて、他所の血を入れようとしている」

「何故だと思う?」

「え?」

 問われて砂月は、軽く目を瞠り、考える。

 咲一族総帥の伴侶の選び方は、特殊だ。

他の名家と自負する一族の目からは、異常とすら見えるかもしれない。

折角の名門の血を穢す愚かしい悪習だとすら考える者もいるだろう。

 しかし。

 目の前に、答えを待つ虹色の輝きを宿した大きな瞳がある。

 ほんの僅かに開かれた花の唇。

 東洋的とも西洋的とも言えると同時に、そのどちらでもない神秘的な美貌。

 咲一族が代々、様々な民族の血を積極的に受け入れてきた末に、生まれてきた奇跡のようなひとがここにいる。

 そこで、砂月はこう答えた。

「一族の血をより良いものにする為、かな?」

「ああ。それもあるだろうな」

 砂月の答えに、桜花はあっさりと頷く。

「異民族の優れた血を取り入れることによって、一族の血に磨きを掛ける。更に心身を律し、清廉を保って、魂を磨く。

その魂が少しでも血に受け継がれていくように…だが、一族が外部の血を積極的に取り入れようとした一番の理由は、別にある」

「それは?」

「始祖から続く血統を保つだけでは、求める存在を得られないからさ」

「求める存在?」

 意外な言葉に砂月が目を瞠ったところで、廟堂の扉に辿り着いた。

 濃紺の袖に映える桜花のほっそりとした白い手が、扉の取っ手に掛かる。

「その存在の復活こそが、咲一族代々総帥の悲願であり、一族の存在意義なんだ。

医術師としての意義は血脈を継いでいく間に、付加されたものに過ぎない」

 淡々と言葉を紡ぐ桜花の声に紛れるように、音を立ててゆっくりと扉が開かれる。

 光が溢れる外の明るさに慣れた目には、中は暗かった。

 青を貴重とした色硝子越しに差し込む光が、白い床に波のような紋様を浮かび上がらせている。

 正面に砂月の細い影と、更に前方の高い壇に、人影のようなものがある。

 祭壇めいた壇に、神像か、聖人像を祀っているのだろう。

「咲一族の血は、謂わば魂の器。復活を願う存在の魂を、始祖の血に溶け込ませ、受け継いで来た」

堂内に桜花の声が響く。

たゆたうような淡い光の中、徐々に目が慣れてくる。

像のほっそりとした肢体は、誰かに似ている。

そう…

「だが、受け継いだ魂は半分。もう半分が得られなければ、求める存在の復活は望めない。

残り半分は石のように細かく砕かれ、世界中に散った」

そうして、次第に視界に立ち現れてきた像の姿に、砂月は目を見開いた。

 驚愕に立ち尽くす砂月へと、桜花がゆっくりと振り返る。

 綾なす光に、青銀の髪が水のように揺らめく。

「だから、咲一族総帥は世界中を巡り歩いて、異民族の血に溶け込んだ魂の欠片を探し集めずにはいられなかったんだ」

 祭壇に祀られた像と寸分違わぬ美しい貌が、無表情に言い放った。

 



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