追憶
追憶 4
路地を出た途端、砂月は緑の気配に包まれた。 思い掛けないことに面喰らって、辺りを見渡す。 「森…?」 木々の合間を縫って差し込む陽射しに、目を細めながら呟く。 知らない場所だ。 しかし、繁る木々の様子と陽射しの感覚に覚えがある。 とにかく、何時までも立ち止まっている訳には行かない。 ここが何処なのかは、また後で考えればいい。 まずは、桜花を見付け出すことだ。 砂月は足を踏み出す。 途中で下草が踏み固められて出来たような小径を見付け、それに沿って歩む。 やがて、連なる木々が途切れて、開けた場所へ出た。 目前に広がるのは、整えられた庭園だ。 剪定された低木に囲まれ、優美な形の橋が掛けられた池の向こう側に、それほど大きくはないが、瀟洒な造りの館が見えた。 どうやら、今抜けてきた森は、敷地の一部だったらしい。 そして、砂月は現れた庭と館の様子に、目を瞠っていた。 「ここは…もしかして彩和(さいわ)か?!」 自分と星砂が養父母に引き取られ、育った国。 そして、桜花が生まれ育った国でもある筈だ。 砂月は館を見詰め、やがて、ゆっくりと館へ向かって歩き出す。 森を含めれば、この敷地はかなりの広さだろう。 だというのに、館に近付いていっても、人の気配が全くと言って良いほど、感じられない。 桜花は本当にここにいるのだろうか。 誰にも見咎められることなく、玄関に辿り着いた砂月は、両開きの扉の脇に設置された古風な呼び鈴を躊躇いながら鳴らしてみる。 扉越しに鈴の音が響き渡る。 応えはない。 何度か繰り返してみたが、館の内は静まり返ったままだ。 砂月は小さく溜め息を吐いた。 玄関を離れて、改めて館全体を見渡すと、左手に繁る木々の合間に小さな小径が作られていて、 館の裏側に回りこめるようになっているようだ。 今度はそちらに足を向けようとしたとき、背後から庭に敷き詰められた玉砂利を踏む足音が耳に入った。 振り向くと、一人の女性がこちらに向かって歩いてくる。 青を基調とした落ち着いた色合いの着物を纏い、漆黒の髪を肩に付かない辺りで切り揃えている。 若く見えるが、物腰からして三十代半ば頃だろう。 品のある美しい顔立ちをしている。 僅かに茶を帯びた黒い瞳に宿る光が、おとなしげな外見を裏切る気の強さを窺わせた。 間違っても邸の使用人という風情ではない。 「どなた?」 怪訝そうな顔をしながら問うてきたその人に、砂月は問い返す。 「すみませんが、ここはどちらのお邸でしょうか?」 我ながら、間の抜けた質問だとは思ったが、これを確かめない訳にはいかない。 女性は驚いたように目を丸くしたが、すぐに納得したように頷いた。 「ああ、後ろの森に迷い込んだのね。ここの敷地は広いけれど、柵や塀で区切っている訳ではないから。ここは、咲一族の土地よ」 「…咲一族」 やはり。 砂月の呟きに確信めいたものを聞き取ったのか、女性は首を傾げる。 「貴方?」 呼び掛けに砂月は我に返り、慌てて会釈をした。 「名乗りもせずにすみません。僕は貴城砂月と言います。僕は…」 言い掛けて、砂月は少し躊躇う。 この女性に、桜花と自分の関係を告げて良いものだろうか。 すると、砂月を見詰めていた女性が小さく笑った。 「もしかして、貴方、桜花に会いに来たのかしら?きっと、あの子の母親…真珠(しんじゅ)さん側のご親族ね?」 「お分かりになりますか?」 「ええ。何処となく面差しが桜花に似ているもの」 砂月は思わず苦笑した。 正直、似ていると言われるのは、本意ではなかったが、今だけは説明が省けて有難い。 桜花を「あの子」と呼ぶからには、この女性は咲一族の関係者なのだろう。 そこで、砂月はあっさりと己の素性を口にする。 「僕は彼の従弟なんです。それで、彼はこのお邸に?」 「ええ、その筈よ。呼び鈴を鳴らしてみた?」 「はい、何度か鳴らしてみたんですが、応えがなくて」 「そう…」 女性は少し首を傾げ、考えるような仕種をする。 「…邸内にいないのなら、中庭かもしれないわね。こっちよ」 言って、砂月を邸左手の小径へと導く。 「貴方は桜花とはどのようなご関係ですか?」 「…ああ、ごめんなさい。貴方には誰か訊ねておきながら、私自身は名乗ってもいなかったわね」 後を付いていきながら、砂月が尋ねると、女性は今気付いたように振り向き、小さく笑った。 「私は響(ひびき)菻(りん)。旧姓は咲よ。咲菻」 「え?」 桜花と出逢って間もない頃、母方の実家で祖父から聞かされた咲一族の話を思い出す。 現在咲一族は総帥である桜花一人。 ただ、血縁としては、他家に嫁いだ伯母がいると。 このひとがそうなのか。 思わず目を瞠った砂月に、彼女は再び笑った。 「弟が先代総帥だったの。あの子…桜花にとっては伯母に当たるわね」 砂月の予想通りの言葉を、明るい口調で言いながら、菻は視線を前方へと戻す。 しかし、そのとき一瞬閃いた笑みが僅かに苦い。 「今では唯一の肉親ということになるでしょうね。…あの子にとってはどうでも良いことなのかもしれないけれど」 最後は呟くように言って、菻は再び歩き出した。
径の両脇に植えられた木々の葉が作る自然のアーチを潜り抜けると、中庭へと出た。 こちらにも中心に池があった。 しかし、池を囲むのは背の高い花木が多い。 淡い色の花房や、繁る緑の葉先が、水面近くまで垂れ下がっている。 そして、その水面を覆い尽すように、蓮の葉と花が浮かんでいた。 表の庭よりも濃厚に緑の気配が漂う。 吹き抜ける微風は、微かに甘い花の香りを孕んでいる。 と、池の向こう側、背の高い木々に隠れるように、白い小さな亭(あずまや)が見えた。 そこで、前を行く菻が立ち止まり、砂月へと振り向く。 「桜花はあの亭にいるわ。それじゃあ、私はこれで」 「貴方も桜花に用があったのではないんですか?」 「私はただ、あの子の様子を見に来ただけだから」 「え?だったら尚更…」 「生きていることが分かれば、私はそれでいいの。それじゃ」 そう言うと、引き止める間もなく、菻は砂月の傍らを通り過ぎ、元来た径を去っていく。 彼女の残した桜花に対する意味深な言葉が気になった。 しかし、それ以上に、今、手の届く場所にいる桜花の様子を確かめたかった。 逢いたかった。 そこで、砂月は白い亭に向かって足を踏み出す。 間もなく、亭の四角く切り取られた窓に、青銀色の小さな頭が見えた。 絹糸のような艶やかな髪に、木漏れ日を反射して煌く様は、清流を思わせる。 特に足音を忍ばせることなく、近付いていくと、その光を纏った髪がさらりと揺れた。 「…砂月」 振り向いた桜花が、澄んだ水色の瞳を僅かに瞠った。 しかし、予想は付いていたのだろう、それほど驚いた様子ではない。 黙ったまま、砂月がやって来るのをじっと待つ。 石造りの亭の入り口を潜ると、窓の下に壁から張り出すようにぐるりと細かな浮き彫りが施された椅子が設えられていた。 中心に、椅子と同じ意匠の小さな石卓がある。 砂月はちょうど桜花と向かい合う位置に腰を下ろした。 「…桜花」 砂月がやや硬い声で呼び掛けると、桜花は僅かに顔を俯け、小さく溜め息を吐く。 「やっぱり探させたか?」 「当たり前だろう。一言もなしに、黙っていなくなられたら、探さずにはいられない」 責めるように言うと、桜花は細い肩を竦め、顔を上げる。 「すまなかったな」 真っ直ぐな眼差しは、相変わらず潔い。 しかし、その奥から僅かに滲む翳りに気付き、砂月は整った眉を顰めた。 桜花は砂月の様子には構わず、苦笑混じりに、言葉を継ぐ。 「流石に、俺も動揺し過ぎたらしい。離れるにしても、もっと別の方法もあったのにな。 とにかく、一刻も早くお前から離れることしか考えてなかったんだよ」 「桜花!」 その言葉に驚いて、砂月は思わず声を荒げた。 「だが、その所為でお前に余計な心配を掛けることになった訳だ。本当にすまなかった。殴っても良いぞ」 「そんなこと出来る筈ないだろう…」 しかし、淡々と続く桜花の言葉に、思わず深く溜息を吐いてしまう。 「謝って欲しい訳でもない。それよりも、理由を教えてくれないか。 君のことだから、自分の為じゃない、僕のことを考えての行動だったんだろう? だったら、尚更僕はその理由を知りたい。僕だけが何も知らずに、振り回されるのは我慢ならないんだ」 勿論、理由を知ったからと言って、桜花の意向に従って別れる気は毛頭なかったが。 桜花はふっと視線を動かして、砂月の肩越しに、四角く切り取られた窓外の緑を見る。 緑と花の香りを纏った風が通り過ぎる。 梳き流したままの青銀の髪がふわりと舞い、細い肩に留まる絹糸が、幾筋か白いシャツを纏った胸元に散っていく。 薄い水色の瞳に、揺れる葉影が映り込み、泡立つように煌く。 しかし、その瞳は、今目の前にある景色ではなく、違うものを映しているのだろう。 物思いに耽るような桜花の様子に半ば見惚れながら、砂月は彼の返事を待った。 ふたりの間を柔らかに通り過ぎる風は、砂月の純銀の髪も僅かに乱す。 長くなった前髪が目の上に振り掛かるのを、砂月は何気なく掻き上げた。 ちょうどそのとき、桜花が花弁を思わせる薄紅色の唇を開く。 「お前をここに連れて来たのはコウか?」 思わぬ問い掛けに意表を突かれた砂月は、しかし、コウの名前に、眉を顰めた。 その表情だけで、答えを察したらしい、桜花が小さく笑う。 「良く力を借りたな」 「君が黙って行方知れずになんてなるからだよ。そうじゃなきゃ、断じて力なんか借りなかった」 「それは悪かったな」 むっつりと砂月が言うと、桜花はくすくすと笑った。 「あの男も一体何を考えているんだか…」 呟くように言うと、すっと笑みを消し、黙り込んだ。 その様子は全く常の桜花らしくない。 下りる沈黙に砂月が息苦しさを感じそうになったところで、桜花が再び口を開いた。 「今、菻が来ていただろう?」 「…ああ、うん。玄関の呼び鈴を鳴らしても、応答がなくて困っていたら、ここまで案内してくれたんだ」 桜花の美しい唇から零れるのは、砂月が求めている言葉とは違うものばかりだ。 しかし、ここで焦っては、却って桜花は話をはぐらかし、口を噤んでしまうだろう。 そう、何とはなしに砂月は気付いていた。 今度の問い掛けは、不快なものではなかったので、砂月は素直に頷き、言葉を継ぐ。 「でも、君がここにいると教えてくれた後、すぐに帰ってしまったんだ。 君が生きていることが分かればいい、なんて、不思議なことを言っていたよ」 桜花が微苦笑する。 「ああ、恐らく俺の顔を見たくないんだろう」 「どうしてだい?」 思わず目を丸くする砂月に、桜花はゆっくりと視線を巡らせる。 相変わらず澄んだ、しかし何処か謎めいた瞳で砂月を見詰め、桜花はさらりと信じ難い言葉を口にした。
「俺が蓮(れん)…俺の父親であり、彼女の弟でもある先代総帥を殺したからさ」
|
前へ 目次へ 次へ