追憶

 

   追憶 3

 

 最初は何が何だか分からなかった。

「さくら?」

 砂月は、呆然と、綺麗に整えられた隣の寝台を見る。

 まるで最初から誰もいなかったかのようだ。

 次いで、我に返って、荷物を置いてある戸棚の扉を勢い良く開く。

 ふたり合わせてもそう大きくない荷物。

 それが今、砂月だけのものになっていた。

 その事実を確認すると同時に、砂月は自分の荷物を引っ張り出し、部屋を飛び出した。

 階段を駆け下り、ちょうど階下で出会った宿の者に、声を掛ける。

「え?そのお客さんなら、出て行かれましたよ。二時間ほど前でしたかねぇ…ご存じなかったんですか?」

 砂月のただならぬ様子に目を丸くしつつも、応える彼に、砂月は更に問いを重ねる。

「彼が宿を出て何処に向かったか、ご存知ですか?」

「さあ、そこまでは…」

 すまなそうに言う宿の者に礼を言って、砂月も宿を飛び出した。

 部屋の様子や、宿の者の言葉から、桜花が自分の意志で出て行ったことは分かる。

 しかし…

 

 一体、何故?

 

 焦燥に駆られ、取り乱しそうになる自分を抑えつつ、砂月は足早に歩く。

しかし、街の大通りに出たところで、立ち竦んでしまった。

 自分がこの先、何処へ行けば良いのか、何処へ行けば桜花が見付かるのか、全く見当が付かなかったからだ。

 そして、その事実に愕然とする。

 彼と共にいたのは、一年。

 決して長いとはいえない。

 しかし、その間、砂月は付かず離れず、桜花の傍にいたのである。

 それなのに、このようなとき、桜花の居場所がまるで思い付かないなど。

自覚していた以上に、自分は桜花のことを知らない。

そのことに、改めて気付かされた。

 それは、砂月にとって少なからず、衝撃だった。

 通りに立ち尽くしたまま、砂月は思わず拳を握り、唇を噛む。

「あ、すまないね」

 トンと通行人に肩をぶつけられ、そこでやっと砂月は我に返った。

 このようなところで、呆然としている場合ではない。

 衝撃に打ちひしがれるのは、いつでも出来る。

 まずは、桜花を見付け出すことが先決だ。

「すみません、ちょっと待って!」

 一言謝って通り過ぎようとするその人を呼び止める。

「人を探しているんです。青味掛かった銀の長い髪に水色の瞳の、ほっそりと華奢な…」

 立ち止まってくれたその人に、砂月は出来る限り詳しく桜花の特徴を伝える。

「とにかく綺麗なひとなんです。目立つと思うので、見掛けたら覚えてらっしゃると思うんですが…」

「綺麗な…って、あんたさんよりもかい?」

 驚いたように言う相手の様子から、答えは聞く前から分かった。

「僕とは違って、中性的な雰囲気のあるひとなんですが、ご存じない…ですよね?」

「そうだねえ…それだけ綺麗な人だったら見忘れたりしないだろうからね」

 すまなそうに言う相手に礼を言って、砂月は身を翻す。

それからも、手当たり次第に、通行人に声を掛けて、同じように桜花を見掛けなかったかと問う。

しかし。

大通りから始めて、裏道に到るまで、桜花が通りそうな辺りは全て聞き込んだというのに、

桜花を見掛けたという人は一人も見付からなかった。

 手詰まりとなった砂月は再び、立ち尽くす。

 どういうことなのか。

 宿の者が言うには、桜花が宿を出たのが、今から二時間ほど前。

 その時間には既に、宿の周囲には、ある程度人通りはあった筈だ。

 あれだけ目立つひとが、人目を避けて移動するのは難しい。

 ならば、普通ではない方法で姿を消したとしか考えられない。

 桜花には、医術師としての特殊能力の他に、水を操る能力がある。

 恐らく、他にも特殊な能力を持っているのだろう。

 桜花は医術に関わる以外で能力を用いることは殆どなかったから、断言は出来ないが、彼の持つ能力はかなり強いだろうと砂月は察していた。

 もしかしたら、離れた場所を繋ぐ空間を作り上げる高等な技も、自在に駆使できるのかもしれない。

そう、あの男がほんの片手間にやってみせたように…

そこまで考えて、砂月は苛立たしげに、秀でた額に掛かる髪を掻き上げる。

こんなときに、あの男のことなど思い出したくもないのに。

しかし、幾ら否定しようとしても、桜花とは別の意味であの男の存在は砂月の心に喰い込んでいる。

そう自覚せざるを得ないことが更に腹立たしい。

 

そのときだ。

小さな笑い声が耳を打った。

聞き覚えのあるその声音に、砂月は弾かれるように顔を上げる。

今佇んでいるのは、街の大通りからやや離れた路地だ。

元より人通りの多い場所ではないが、気付けば、不自然なほど人気がない。

景色は変わらない、しかし、何処か虚ろな空間に低い笑い声が響く。

くつくつと喉を鳴らすような声音はまさに、思い出したくもない男の、聞きたくもない声だった。

砂月がゆっくりと視線を巡らした先、空間から滲み出るように、丈高い青年が現れた。

真っ先に目に入るのは、その広い肩や背を覆う眩しいほどの黄金の髪だ。

青年の笑い声に合わせて、その髪が僅かに揺れる。

砂月はその姿を無言で睨み付けた。

やがて、笑いを収めた青年がゆっくりと伏せていた目を上げた。

燃え盛る炎を映したような紅い瞳。

その色彩は、砂月の右目と全く同じだ。

瞳の色だけではない。

睫の濃いやや切れ長の瞳の形も、通った鼻筋も、形の良い薄い唇も、砂月と良く似ている。

髪と左目の色を除けば、瓜二つだと言っても良い。

そして、正確には青年が砂月に似ているのではない。

砂月がこの青年に似ているのだ。

しかし、穏やかな、どちらかといえば甘い印象を与える砂月に比して、青年には超然として他者を圧する雰囲気が備わっている。

「何の用です?」

 今は穏やかさなど欠片もない表情と抑揚のない声で、砂月は突き放すように問うた。

 青年が再び小さく笑う。

「余裕がないな。あれが姿を消したのがそれほどの衝撃か?」

 その言葉に、砂月はますます表情を険しくした。

 青年の言う「あれ」とは、桜花のことだ。

 この青年はいつも、まるで自分の物であるかのように、桜花を扱う。

 そのことについて、桜花自身が拒否しても、一向に構わない。

 桜花が自分の物であることは、厳然たる事実であるというかのように振る舞い、他には目もくれない。

 彼のそんな態度が、砂月には許せなかった。

 この砂月と比べてそう歳が変わらないように見える青年が、母を、そして、

砂月と星砂を無情に捨てた父親であるという事実も更に許し難かった。

 こんな男が父だとは、信じられない、信じたくないというのが、砂月の正直な気持ちだ。

 しかし、自分と青年の容貌からは、それこそ、厳然たる事実として、血の繋がりを認めざるを得ない。

だが…いや、だからこそなのか、桜花に関してだけは、譲るつもりはなかった。

 それが、桜花の本意ではないのなら尚更。

 砂月は激昂したいのを抑えて、素っ気無い口調で青年に言い返す。

「嗤いたければ嗤えば良い。ただ、邪魔だけはしないで下さい。

僕には貴方の相手をする暇はない。尤も貴方が相手をして欲しいのは僕ではないでしょうが」

 相手の反応を待たずに身を翻す。

 足を踏み出しながらゆっくりと息を吸い、この空間から抜け出す為の能力を溜めようとする。

 自分では力不足かもしれないが、やる前に諦めることはしたくない。

 何より、先ほど、あの青年に言ったように、自分には他のことに構っている暇はないのだ。

 早く、一刻も早く、桜花を見付けなければ。

「あれを見付けて、どうするつもりだ?」

 投げ掛けられた問いに、砂月は足を止める。

 桜花を探し出してどうするか。

 そんなことは決まっている。

 なんとしても桜花を捕まえて問い質すのだ。

 何故、自分の前から姿を消したのか。

 先ほどまでは気が動転していて頭が働かなかったが、桜花の性格を考えれば、姿を消した理由は、砂月を思ってのことだ。

 それだけは間違いない。

 ならば、もう遠慮はしない。

 桜花が砂月の何に対して懸念を抱いているのかを聞き出し、共に乗り越える道を探すのだ。

 そう心に決めていた砂月だったが、青年の問いには、

「貴方に応える必要はない」

振り向かぬまま、冷たく言い放った。

 砂月の心を読んだかのように、青年が小さく嗤う。

「行くあてはあるのか?」

「貴方には関係ない」

「関係ならば、ある。あれに関わることならばな」

「……それでも、僕には関係ない」

 堂々巡りをしそうな会話を勝手に切り上げて、砂月は再び集中しようとする。

 しかし、その集中力は、青年の次の一言で再び途切れた。

「私は知っているぞ」

 砂月は思わず振り返る。

「あれが今、何処にいるか。それだけではない。お前が望むならば、あれの元にお前を送ってやろう」

「…何故です?」

 砂月が刺すような鋭さで問う。

「貴方は僕を桜花に纏わり付く邪魔者だと思っている筈だ」

「ああ、それは確かなだな…」

 さらりと応え、青年は愉快そうに笑った。

「理由は簡単だ。お前が絡めば、状況が更に面白くなる」

 そう言った青年の唇が酷薄な形に歪んだ。

「お前が関わることで、あれはますます揺れるだろう。それを上手く利用すれば、私はより早くあれを手に入れることが出来る」

「何ですって?」

 砂月は眉を顰めた。

「さあ、どうする?」

 青年は試すように砂月を促した。

 常ならば、決してこの青年の手を借りたりはしない。

 だが、一刻も早く桜花を見つけ出したいのは事実だ。

 そして、不遜なこの青年が、偽りを口にしないことも、察していた。

 意を決して、砂月は口を開く。

「連れて行ってください」

「ほう?」

 青年が面白そうに軽く目を瞠ってみせる。

「せっかくの申し出です。今回は利用させていただきます。ですが…」

 冷え切った声音で、そう言った砂月は、一旦言葉を切り、青年を見据える瞳に力を篭めた。

「貴方の思い通りにはならない。いや、させない。僕が桜花を守ってみせる」

 砂月の紅と翠の瞳に、炎のような光が揺らめく。

 青年が唇に浮かべていた笑みを、一瞬消す。

 そうして、再びゆっくりと微笑んだ。

「面白い。その手並みを見せてもらうぞ」

 そうして、す、と長く形の良い指を伸ばす。

「この路地を真っ直ぐ行くが良い。出た場所が目的地だ」

 砂月は踵を返し、青年、コウの指し示した方向へと歩き出す。

 と、気配を感じて立ち止まる。

 視線ほど強くはない、淡い気配。

 何処か覚えがある。

 しかし、捉える手前で、その気配は綺麗に消え失せた。

「…?」

 訝しく思いながらも、砂月は再び歩き出す。

 それを悠然と見送るコウの背後。

 高い背に隠れるように、黄金の髪の少女が佇んでいた。

 



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