追憶
追憶 2
明くる朝。 砂月が身支度を整えていると、 「お先」 先に身支度を終えた桜花が一言断って、目の前をするりと通り過ぎた。 ほぼ同じ時刻に目覚めているというのに、桜花はいつも驚くほど身支度が早い。 身だしなみというものにさほど気を遣わない性質だからなのかもしれない。 今日も、簡素な白いシャツに、細身の黒いパンツといったいでたちで、 美しい青銀の髪も動きやすいよう、細い首の後ろでひとつに括っているだけだ。 これだけの麗姿を持って生まれながら、自分を飾ることに一切興味を持たない。 それを、砂月は時折勿体無いと思う。 「さくら、ちょっと待って」 自然に桜花を目で追っていた砂月だったが、ふと気付いて呼び止めた。 「何だ?」 怪訝そうに振り向く桜花を手招きする。 「後ろ向いて」 「?」 近付いてきた桜花の華奢な肩を捕まえ、くるりと背中を向けさせる。 「髪がほつれてるよ」 言いながら、窓から差し込む陽に透ける髪へと指を伸ばした。 「いいよ、少しくらい」 「何言ってるんだい。朝くらいきちんとしないと駄目だよ。僕が直すから、ほら」 面倒そうな桜花を軽く嗜めながら、砂月はさっさと結い紐を解いてしまう。 細い髪が煌きながらさらさらと、桜花の華奢な背や肩に振り掛かる。 桜花は仕方ないというように肩を竦めると、砂月の手に任した。 絹糸のように細いのに、桜花の髪は手で梳くだけで、絡まることなく流れる。 それでも一応、砂月は櫛を取り出して、桜花の髪を梳き、綺麗に結っていく。 「楽しそうだな」 そんな砂月の様子を肩越しにちらりと眺め、桜花が言った。 桜花の髪を纏めながら、砂月は微笑んで頷く。 「うん、楽しいよ。さくらの髪は綺麗だからね。澄んだ水みたいに透き通って、触り心地も良くて好きなんだ」 好きなのは、桜花の髪だけではないが。 「そうか。砂月がそう言うなら、俺ももう少しこの髪を大事にしないとな」 他愛もなくそう返す桜花に、砂月は密かに苦笑を噛む。 「そうだね、是非そうしてくれ。ほら、終わったよ」 言ってぽんと軽く肩を叩いてやる。 元通りひとつに括るだけでは素っ気無いと、三つに分けて手早く編んでやった。 その三つ編みの先を己の鼻先に持って行き、桜花が感心したように言う。 「器用だな」 「そんなに難しいことじゃないよ」 「男でこういうことが出来るのは少ないと思うが」 「ああ、まあね…でも、僕の場合は星砂がいたから。時折こうやって…」 何気なく口にした言葉の途中で、砂月は息を呑んだ。
星砂。
忘れた訳ではない。 忘れられる筈がない。 しかし、その名の舌触りに、どれだけその名を口にしていなかったのか、改めて気付く。 思わず、黙り込んだ砂月を、桜花がじっと見詰める。 「何?」 視線に気付いた砂月が問うと、桜花は改まった様子で口を開く。 「お前、家に戻らないで良いのか?」 「桜花、その話は…」 「勿論、俺にはお前に家に帰れと言う権利はない。お前が俺に付き合ってくれるお陰で、大分助かっているのも確かだ。 俺としては有難いと思ってる。だが、もう一年だろう? 幾ら、手紙で事情を知らせたとしても、星砂はきっとお前のことを心配している。顔を見ていないのなら、尚更だ」 一度、家へ戻った方が良いのではないか? そう問う桜花に、砂月は曖昧に微笑む。 「そうだね…考えてみるよ」 どうにかそう応えながら、まだ、自分にはその覚悟が出来ていないことを痛感する。 まだ、星砂と正面から向き合うことが出来ない。 あの真摯な眼差しと想いに応えることも、拒むことも今の自分にはまだ、出来ないのだ。 僅かに目を伏せる砂月を、桜花が気遣わしげに見る。 次いで、力付けるように、にこりと、笑った。 「そんなに深刻に考えるなよ。俺が今言ったのは、事情を知らない手前勝手な意見なんだ。 決めるのはお前だ。俺の意見を無理に聞く必要はない」 「…そうだね、有難う」 「ほら、朝からそんな辛気臭い顔をするな」 軽く頭を叩かれて、砂月はようやく笑った。 「その言い方は酷いな」 桜花もまた、屈託なく笑ってみせる。 「それじゃ、俺は先に下に降りてるから、お前も早く支度して来い」 「うん、分かった」 くるりと翻る華奢な身体を追うように、青銀色の三つ編みが扉の向こうに消える。 砂月は知らず溜め息を吐いた。 何も言わなくとも、桜花は砂月と星砂の微妙な関係を察している。 その上で、あのように気を遣ってくれるのだ。 「情けないな…」 本当なら、自分こそが桜花を気遣い、支える存在でありたいのに。 そう思い続けて、一年が経とうとしているのに、上手く行かない。 星砂のことも… 「そろそろ向き合うべきなんだろうな…」 この問題に何らかの形で決着を付けるまでは、望む自分にはきっとなれない。 そう考えながら、身支度を整え、部屋の壁に設えてある鏡で、確認する。 「…髪が伸びたな」 ふと気付いて呟く。 桜花と旅を始めた当初は肩に付かない長さだった髪が、何時の間にか、肩を過ぎる長さになっている。 もう少し伸びたら、結わないと邪魔になるだろう。 それとも、今のうちに切ってしまうか。 考えるともなく、考えているうちに、今度は別のことに気付いた。 桜花と旅をするようになってから一年。 その間自分は一度も髪を切っていない。 それで、この長さというのは、いささか伸びるのが遅過ぎはしないか。 不審に思ったとき、部屋の扉が開いて、桜花の白い顔が覗いた。 「おい、砂月。まだなのか?」 「ああ、ごめん!今行くよ」 慌てて応えて、砂月は思考を中断する。 「なかなか降りてこないから、何かあったのかと思ったぞ」 「ごめん。ちょっとした考え事をしてたんだ。大したことじゃないよ」 迎えに来た桜花と共に、階段を下りながら、砂月は応える。 大したことではない。 そう口にすると、本当に大したことではないような気がしてきた。 ふと、傍らを見ると、桜花が僅かに柳眉を顰めて、気遣わしげに見詰めている。 そんな彼に、安心させるように、砂月は微笑んだ。
階段を降りてすぐの場所にある食堂で、朝食にする。 流石に街の領主が薦めてくれただけあって、宿の食事は贅沢ではないものの、美味しかった。 だからなのだろう、他にも泊り客が多く、小さな食堂は賑わっている。 「今日の予定は?」 「そうだな…もう少し街の様子を見てみたい。それから、医者も訪ねて、この街の医療事情を把握したい」 「出来れば、街の人にも話を聞いてみたほうが良いかもしれないね」 「ああ、勿論だ」 そんなことを話している間にも、他の泊り客の視線を感じる。 なるべく目立たないよう、隅のテーブルに座っているにも関わらずこれだ。 大陸でも西域に当たるこの街では、砂月や桜花のような色素の薄い人間は珍しくはない。 それでも、こうして注目されてしまうのは、ふたりの色彩ではなく、容貌が際立っているからだ。 特に、桜花の性別不詳の容貌は、人ならぬ妖精か、天使のように神秘的で、見る者の目を奪う。 しかし、そんな妖精か、天使のようなひとが、このような質素な宿の食堂のテーブルで、至って人間らしく、食事をしているのである。 その事実に、思わず砂月は小さく笑みを零す。 注目されるのも無理はない。 「どうした?」 砂月の様子に気付いた桜花が、目を丸くしつつ、口にした食べ物をしっかりと噛んで飲み込んでから、訊ねる。 その様子が何となく微笑ましくて、砂月は更に笑ってしまう。 「いや、何でも…」 言い掛けて、ふと、気付く。 そう言えば、出逢ってから一年、桜花の容姿も変わっていない。 元々、腰を過ぎる辺りまで流れる長さがある為、あまり意識していなかったが、髪も殆ど伸びていないのではないだろうか。 気のせいかもしれないが… 朝気付いた自分のことも思い出して、砂月はその疑問を何気なく口にした。 「さくらは、あまり髪の手入れとかしないよね?」 「失礼な。洗ったり、櫛を通したりはしているぞ」 少々大袈裟に、細い眉を顰めてみせる桜花に、砂月は笑って首を振る。 「そうじゃなくて。毛先を揃えたり、前髪を整えたりとかだよ」 「それは特にしていないが。…した方が良いか?」 「いや、そんなことはないよ。余計な手入れをしなくとも、充分、さくらの髪は綺麗だからね」 「?どういうことだ?」 話の意図が変わらず、桜花はきょとんとして、首を傾げた。 「さくらが出逢った頃から変わっていないように見えるからさ。髪も伸びていないように見えるし」 「……」 桜花の表情が僅かに動いたが、砂月は気付かず、軽く肩を竦める。 「多分、気のせいだね。僕自身もここ一年髪が伸びなくなったような気がしてるし…」 突然、大きな音を立てて、桜花が立ち上がった。 周囲がざわめく中、驚いて桜花を見上げた砂月は、彼の表情を見て更に驚く。 砂月が初めて見る桜花の表情だった。 激しい衝撃に打たれたような顔。 青銀色の長い睫に縁取られた澄んだ水色の瞳は大きく瞠られ、真珠の光沢を持つ白い頬は、凍り付いた月のように蒼褪めている。 「桜花?一体どうしたんだい?」 その華奢な身体が今にも崩折れそうに見えて、砂月は慌ててテーブルを回り、細い肩を支えるように抱いた。 最早人目など気にしていられない。 「桜花?」 労るように小さな顔を覗き込み、声を掛ける。 ふっと、桜花が瞬きをした。 今初めて気付いたように、傍らの砂月を見る。 「どうしたって、何が?」 「何がって…訊きたいのは僕の方だよ。急に真っ青になって…」 「ああ、すまない。忘れていたことを思い出したんだ」 桜花が小さく笑う。 そして、テーブルに両手を突いて、屈んでいた背をすっと伸ばした。 「それにしては、尋常じゃない様子だったけど…大丈夫かい?」 「ああ、大丈夫だ」 まだ気になりつつも、砂月は桜花の身体を支えていた手を離す。 「お客さん、どうしましたか?」 「何でもない。騒がせてすまなかった」 そう、様子を伺いにやって来た宿の者に応えて、桜花は再び椅子に腰を下ろす。 再び食器を手にして、傍らに佇んだままの砂月を大きな瞳で見上げる。 「もう食事は終わりか?」 「…食べるよ」 何処か釈然としない思いを抱えながらも、砂月は向かいの席へ戻る。 桜花は何もなかったかのように、食事を再開した。 先ほどのことがまるで嘘のように思える。 しかし、気のせいだと思うには、あまりにも劇的な変貌だった。 かといって、しつこく理由を問うのも何となく憚られる。 結局、何一つ聞けぬまま、食事を終えて、外出をする。 それからの桜花は、全く常と変わりなかった。 そんな桜花の様子に、砂月は少し安堵した。 完全に疑問と不安を拭い去ることは出来なかったが、また、折を見て、桜花に訊いてみようと考えた。 しかし。
次の朝。 桜花の姿は宿から消えていた。
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