追憶

 

   追憶 1

 

 辺り一面に拡がる暗闇。

 しっとりと静かな熱を持った闇だ。

 その闇に抱かれるように、或いは、その闇を払うように、一組の男女の姿があった。

上下左右も定かではない空間に、ふたりは浮かび上がっている。

 ゆったりとその場で胡坐を掻く青年と、その青年の片膝に頭を預けて横たわっている少女。

 陽の光を集めたような黄金(きん)の髪を、青年は広い肩と背に流し、

少女は波打たせながら、青年の膝に散らし、零れ落ちた先を闇に揺らしている。

 完璧な美貌に近寄り難い気迫を漂わせる青年に対して、少女の美貌は繊細で可憐な印象が際立っている。

 ふたりが寄り添う姿は、夢のように美しい。

絵に描いたような恋人同士だと、言う者もいるかもしれない。

 彼らを見て、親子であると見抜ける者は、存在しないだろう。

 父親である青年は、あまりにも若々しく、美し過ぎた。

 燃え盛る炎のように紅い瞳が、その容貌を一層人ならぬものに見せている。

 青年に比べれば、少女にはまだ、人間らしい雰囲気があったが、それも青年と共にあるうちに、希薄になりつつある。

 その常ならぬ美貌の為か、このふたりには、親子らしい温かな情愛はいっそ不釣合いに見えた。

 事実、青年と少女の間には親子の情はない。

 無論、恋情もない。

 これほど近くにありながら、ふたりの心は遠く離れている。

その眼差しは、それぞれ別の存在を追い求め、ひたすらに焦がれているのだ。

 唯一、その心のありようだけが、彼らに血の繋がりを感じさせるものであるかもしれない。

 ふと、虚空を見据えていた青年が、紅い瞳を細めて小さく笑った。

 その気配に、横たわっている少女が薄い瞼を持ち上げ、翠色の瞳を覗かせる。

「…何?」

 少女が物憂げに問う。

「見るか?」

少女の無関心を気に掛けることなく、青年は無造作に片手を上げる。

 暗闇に、ぽっかりと穴が開いたように灯りが点った。

 その灯りは楕円状に広がり、やがて、別空間の光景を映し出す鏡となる。

 映し出された人物に、少女は目を見開き、身を起こす。

「砂月(さづき)…!」

 純銀の髪と、右が紅、左が翠の瞳を持つ、少女と良く似た、繊細な、

しかし、容貌に鋭さのあるすらりと背の高い少年の姿に、少女の瞳が輝く。

 幼い頃は、見分けが付かぬほど少女とそっくりだった少年の容貌は、今は、少女の傍らにいる青年に酷似している。

 彼は、少女にとって、共に生まれた、この世で最も愛しい半身だ。

 少し、髪が長くなったが、少女が見覚えている姿と殆ど変わっていない。

 しかし、愛しい者を見詰めていた少女の瞳は、その傍らを歩く人物を捉えると、瞬く間に曇った。

 美しい人物だった。

 青味を帯びた癖のない銀の髪が、華奢な肩や背を滑るように流れ、陽に透き通るように煌く。

清流にも似たその髪は、細い腰を過ぎた辺りで、その毛先から光の粉を振り撒くように揺れている。

 透明で儚げな美貌と華奢な体躯は、少女のようだが、溌剌とした仕種と薄い水色の瞳に宿る強い光は、少年のものだ。

 それが独特の雰囲気を醸し出し、この性別不詳の人物を、天使か妖精のような浮世離れした存在に見せている。

 砂月が彼に話し掛け、彼が快活な様子で応える。

そして、楽しげな様子で笑い合う。

 砂月が彼を穏やかに見詰める、その瞳に宿る想いに気付いて、少女の瞳が険しくなる。

 鏡から視線を逸らし、傍らの砂月と良く似た青年を睨み付ける。

「どういうつもり?」

 青年が技とらしく、秀麗な眉の片方を上げてみせる。

「不満か?愛しい者の姿を映し出してやったというのに」

「だって、砂月が私の傍にいる訳ではないもの。

私の手の届かない場所で、私以外に笑い掛けている砂月の姿を見たって、嬉しくもなんともないわ。不愉快なだけよ」

 撥ね付けるように言い切った後、少女は翠色の瞳で真っ直ぐに、父親とは思えない青年を見詰めた。

「でも、幾つか確認したいことがあるの。ここに映し出されているのは今の砂月の姿?」

「わざわざ幻を作り上げて見せるほど、私は酔狂ではないぞ」

「ならば、貴方は今砂月が何処にいるのか、知っているということよね?」

 青年はうっすらと唇だけで笑んで、少女の言葉を肯定した。

「何故、そこに連れて行ってくれないの?貴方ならば、砂月をここに連れてくることも造作ない筈だわ。

貴方の欲しいひともそこにいるのに…何故、見ているだけなの?」

「こちらとて、無理矢理掴み取れるものなら、そうしている。しかし、あれもなかなか手強くてな…

こうして、様子を覗き見るのが精一杯という訳だ」

 そう応える青年の口調は、さして無念そうでもない。

 寧ろ、愉しげにさえ聞こえる。

「本当に?」

 少女が疑わしげに確認するのも無理はなかった。

 少女と言葉を交わしている間も、青年の紅い瞳は、青銀の髪の少年にだけ向けられていた。

 その瞳には、燻るような激しい熱があるのに。

「分からないわ…」

 少女の不満げな呟きに、青年は笑う。

「力ずくで奪えば、取り返しのつかない傷が付くこともある。私が欲しいのは、ただの抜け殻ではないので…な…」

 呟くように言葉を途切れさせた青年は、初めて少女を一瞥した。

「暫く待て。近いうちに動きがある筈だ。そこに付け入る隙も生まれる」

 少女は小さく溜息を吐き、鏡に映る少年を切なげに見詰めた。

「もどかしいわ…」

「焦らされた分、手に入れたときの、悦びはいや増すだろう…」

 青年の言葉と共に、鏡は収縮し、闇に呑まれるように消えた。

 

 

「良い宿が見付かって良かったな」

 新しく入った街で、桜花(おうか)が晴れやかに言った。

「そうだね…」

 応える砂月の声には、いささか力がない。

 実はこの街に入る手前でひと悶着あったのだ。

 この街に入るには、山をひとつ越えなければならない。

 しかし、前の街を出るのが遅かった為に、山中で野宿する羽目になった。

 そこで山賊まがいの連中に、路銀に加えて桜花自身も狙われ、大立ち回りを演じることになった訳だ。

 桜花は一人旅をしているときから、このようなことが日常茶飯事だった。

 そして、鑑賞にも堪えうる舞に似た特殊な武術を会得してもいる。

 砂月も一通りの護身術の心得があるのて、二人でも余裕で悪漢を撃退及び捕縛出来たのだが、砂月は気疲れしていた。

 万が一にでも、あのような下卑た男たちに、桜花が弄ばれるようなことがないよう、つい必要以上に、気を張ってしまうのだ。

 無論、桜花の腕は信頼しているし、そんな状況に陥る可能性が限りなく低いことは理解している。

 しかし、理性と感情は別のものだ。

 今でも、男たちが桜花を見たときの舐めるような視線を思い出すと、不快になる。

「…!」

 不意に、その桜花に、ひょいと下から顔を覗き込まれて、砂月は軽く仰け反る。

 桜花が細い眉根を軽く寄せた。

「疲れた顔をしているな、大丈夫か?」

 砂月は思わず、苦笑する。

 自分で勝手に気を張って、勝手に気疲れしているのだから、全く世話はない。

 ふたりは捕縛した男たちをこの街の領主に引渡し、そこで謝礼代わりに手頃な値で泊まれる宿を教えてもらったのだ。

 人の良さそうな領主は、自分の館に泊まることを薦めてくれたが、それでは街を出歩くには不便だと断った。

紹介された宿は、少々古めかしいが、清潔感のある居心地の良い雰囲気だったので、

桜花と砂月はその宿をこの街での拠点にすることを決めた。

 そこで、宿泊の手配をして、部屋に荷物を置いてから、街の様子を見たいという桜花に付き合って、こうして出て来たのだが…

「身体が疲れている訳じゃないよ、大丈夫」

「精神の疲労は、身体にも影響するぞ。お前だけでも宿に戻って休むか?」

 尚、気遣わしげに問う桜花に、砂月は笑って応える。

「そうして、さくらにひとりで街を歩かせることになる方が、却って気疲れするよ」

「何故だ?」

 桜花がきょとんとするのに、再び、僅かに苦笑する。

 厄介な連中に付き纏われることもしょっちゅうだと言うのに、相変わらず、桜花には自分の容姿が目立つものであるという自覚がない。

 現に今も、傍らを通り過ぎる人の悉くが、桜花を目にする度、

その珍しい青銀の髪や、端麗な容姿に、驚いたように目を瞠っているのに、全く無頓着だ。

 そんな桜花をひとりにしたら、間違いなく厄介ごとに巻き込まれる。

 通行人が驚いているのは、桜花の美貌だけではなく、傍らにいる砂月の美貌も際立っているからなのだが、

目立つが故に騒ぎになるのなら、ふたりで巻き込まれた方がましだ。

 少なくとも、いざという時に桜花に手が届く。

「本当に大丈夫だよ」

 まだ、愁眉を解かない桜花に、砂月は微笑む。

 歩くのを促す為に、華奢な肩に触れようと手を伸ばすが、その手を逆に桜花に掴まえられた。

「何?さくら」

 桜花は黙って、目を瞠る砂月の手首をひっくり返し、そこに細い指を当てる。

「脈は…異常はないみたいだな」

 ひとりごちるように言い、顔を上げる。

その美貌に浮かぶのは、無邪気にすら見えた快活な少年のものではない。

怜悧な医師のものだ。

しかし、そんな桜花に、今度は前髪を梳くように、額に触れられて、砂月は一瞬動揺してしまう。

少し冷たいほっそりとした指の感触に、胸が騒ぐ。

「…熱もないみたいだな」

そんな砂月の動揺には一向に気付くことなく、桜花は納得した様子で手を離した。

「だが、具合が悪くなったら言えよ」

「だから、大丈夫だよってさっきから言ってるのに…」

 くるりと踵を返して、歩き始める桜花の後を付いていく形となりながら、砂月は軽い口調で言葉を交わす。

 常よりも速くなった動悸を抑えようとしながら、熱の具合を診られたのが、脈の後で良かったと、内心思う。

 

 桜花は医術師(いじゅつし)だ。

 医術師とは、通常の医師が患者に行う治療の他に、特殊な能力を用いた呪術を行う医師のことだ。

 桜花が長となって取りまとめている咲(さき)一族は、医術師のなかでも最高峰の治療を行うとされている。

 彼らにかかれば、治せぬ病は無いとまで、まことしやかに噂されているのだ。

 しかし、その咲一族が、今や当主である桜花一人しかいないという事実は、あまり知られていない。

 

 世界中を巡り歩く桜花と共に旅をするようになってから、もうすぐ一年になる。

 その間に、色々なことがあった。

 砂月自身の今まで知らなかったことを知った。

 同様に、今まで知らなかった桜花のことも知った。

それらの事実に衝撃を受けなかったと言えば嘘になるが、不思議に桜花に対する気持ちは変わらなかった。

 また、ふたりで旅をするうちに、桜花も砂月に出会った当初よりも、打ち解けてくれるようになったと思う。

 尤も、桜花は元々、快活で物怖じしない性格で、また、従兄弟同士ということもあって、

出会った当初から砂月には気安く接してくれたのだが、語らないことも多かった。

 だから、桜花が少しずつでも自分に心を開き始めていることが感じられると、砂月は嬉しかった。

 桜花は砂月にとって、自分自身に最も大きな変化を与えてくれたひとだった。

 様々なことにがんじがらめになっていた自分を解き放ち、希望を与えてくれた。

 そんな桜花は砂月にとって最も大切な存在ともなっていた。

桜花自身は、自分が砂月にどれほどの影響を与えたのか、気付いていないだろう。

 勿論、砂月の桜花に対する気持ちも。

 何の躊躇いもなく、無邪気に接してくる桜花に、正直もどかしさを覚えることもある。

 特殊な生まれの為か、恋愛という感情を実感できないという桜花に、自分の気持ちを伝えるのは酷く難しいことだとも思う。

 しかし、大事なのは、桜花が自分をどう想うか、ではなく、自分が桜花をどう想うか、だ。

 自分がどうしたいかということだ。

 自分は、許される限り、これからもずっと桜花の傍にいて、彼を見守りたい。

 例え、想いが届かなくとも。

 いつまでも、こうして彼の仕事を手伝いながら旅をして、他愛ない会話を交わしながら、笑い合っていたい。

 それはささやかな、自分次第で容易に叶う願いだと、砂月は思っていた。

 

しかし、それが間違いであったことを、砂月は間もなく知ることになる。

 



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