永久の調べ
永久の調べ 9
それから更に一週間後。
カトレーヌは街へ食料の買い出しに来ていた。
ルイにできる限り栄養のある物を食べさせてやりたい。
カトレーヌは自分の持つ少ない金で、何とか多くの食料を揃えようとする。
ルイが病に倒れてから幾度となく繰り返して来たことだが、今までのルイは食べて欲しいというカトレーヌの願いに反して、殆ど食物を口にしなかった。
もう、生きることを諦めているような、生に何の執着も見せまいとするルイの姿に、カトレーヌは心を痛めたものだ。が、同時に助からない病であると、カトレーヌも半ば諦めかけていた。
それでも、何とか頑張って欲しい。
生きることを諦めないで欲しい。
そう願いながらも、空しさに近い気持ちを抱えて街へ買い出しに来ることの多かったカトレーヌであったが、こんなに浮き立つような気分で買い出しに来ることは初めてだった。
それも奇跡を起こしてくれた桜花という医者のおかげである。
最初、彼の余りの若さに不安を覚えなかったと言えば嘘になる。
それでも、このままでは確実にルイは死んでしまう。
そう感じていたカトレーヌは、藁にも縋る思いで桜花にルイの診療を頼んだのだ。
ところが、その桜花はカトレーヌの淡い期待以上の働きを見せた。カトレーヌも助からないだろうと諦めていたルイの病を治してくれた。そればかりではなく、彼に生きる気力を取り戻させてくれた。
ルイは今、一度諦めた夢に向かって、再び一生懸命に取り組もうとしている。
そんな彼の心の支えにでもなるかのように、桜花はルイの側に付き添っている。長年の友のように。
単なる医者以上の優しさをルイに示す桜花に、カトレーヌは心酔していた。
孤独な青年の病だけではなく、その心をも癒すために天から舞い降りた天使のような……
その存在自体が奇跡のような人だ。
彼がずっとルイの側に居てくれたら…
カトレーヌはそんな願いまで密かに抱いていた。
「カトレーヌ?カトレーヌかい?」
買い出しを終えて帰ろうとしていたカトレーヌは、ふいにそう名を呼ばれ、両腕に荷物を抱えたまま、後ろを振り返る。
そこに灰色の髪の、育ちの良さを感じさせる青年が立っていた。品の良い整った顔立ちをしている。
「まあ、バーンスタイン様!」
「久し振りだね。元気かい?」
バーンスタインが髪の色と同じ灰色の瞳をやや細めて品良く微笑む。彼はルイの母方の従兄だ。
カトレーヌは笑顔になる。が、すぐにバーンスタインの後ろに弟のウルリックの姿を認め、僅かに眉を顰める。
バーンスタインよりも明るい、茶色掛かった灰色の髪。顔立ち自体は兄と似ている。
彼もまた、バーンスタインと同じく、質の良い服を身に纏っていたが、その茶色の瞳に浮かぶ軽薄そうな光が、服装とその顔立ちの持つ品の良さを覆い隠していた。
「何だよ、婆。俺に何か文句があるのか?」
たかが召使い風情が、とカトレーヌの表情の変化に気付いたウルリックが、バーンスタインの背後から侮蔑の言葉を吐きつける。
カトレーヌは顔をますます顰めたくなるのを辛うじて堪えた。
何て品のないことだろう。
桜花もウルリックと似たような言葉遣いをするが、こんなに品のない印象は与えない。
それに、桜花は自分をたかが召使い風情と侮ったりしない。
ルイももちろんそうだ。
そして、バーンスタインも……
ウルリックにはその顔立ち以外にバーンスタインとの血の繋がりを感じさせるものが何一つ見出せない。
「止めないか、ウルリック」
カトレーヌに食って掛かろうとするウルリックを、バーンスタインは静かに諌める。
兄に逆らえないウルリックは、舌打ちをしながらひとまず引き下がった。
バーンスタインはカトレーヌに穏やかに言う。
「悪かったね、カトレーヌ。どうか弟の非礼を許してくれ」
「いいえ、どうかお気遣いなく。私は気にしておりませんから」
カトレーヌの言葉にバーンスタインはもう一度詫びるように微笑むと、話題を変えた。
「リューイガルドの具合はどうだい?薬は足りている?」
その問い掛けにカトレーヌは顔を輝かせる。
「そうですわ!私、そのことでバーンスタイン様に是非お伝えしたいことがあるのです!」
バーンスタインが怪訝そうに眉を顰める。
「伝えたいこと?随分と嬉しそうだね、カトレーヌ。いい知らせかい?」
カトレーヌは勢い込んで頷く。
「もちろんです。ルイ様が…ルイ様が御病気を克服なされたのですわ!」
バーンスタインは目を見開く。
「何だって!?」
後ろから驚愕したウルリックが叫んだ。
バーンスタインは呆然としつつも、辛うじて言葉を紡ぐ。
「それは…一体…どういう……」
カトレーヌは喜びに顔を輝かせながら頷く仕種をする。
「驚かれるのも無理はありませんわ。私も恥かしながら思っておりました…ルイ様はもう助からないものと……けれど、奇跡が起きたのです。先日こちらにいらした旅のお医者様がその奇跡を起こして下さったのです!」
「…旅の医者?その医者がリューイガルドを治してくれたのかい…?」
「はい、そうですわ」
バーンスタインの問いにカトレーヌは笑顔で頷く。
「バーン…!」
慌てたように声を掛けるウルリックを目で制して、バーンスタインは上品な笑みを浮かべて見せる。
「そうか…リューイガルドが……それは何とも喜ばしいことだね。僕も嬉しいよ。御両親も勝てなかった病に、リューイガルドがやっと勝てた訳だからね」
カトレーヌは頷く。
「バーンスタイン様には今までのお礼を申し上げます。いつもルイ様のお薬を取りに遠くまで出向いて頂いて。こうしてルイ様が完治なさり、痛み止めのお薬が要らなくなったことを一刻も早くお伝えしたかったのです。是非一度、元気になったルイ様の姿を見にいらして下さい」
「もちろん、伺わせて貰うよ」
頷くバーンスタインに、カトレーヌは気付いたように言い添える。
「それに、ルイ様を治して下さったお医者様が、バーンスタイン様に会いたいと仰っていますので」
「僕に?」
「はい。おそらく痛み止めのお薬のことについてお聞きになりたいことがあるのだと思います」
そのとき、笑みを浮かべるバーンスタインの表情が一瞬硬くなったのに、カトレーヌは気付かなかった。
「そうか…うん、僕も奇跡を起こしたそのお医者様に会ってみたいな。是非伺わせて貰うよ。そうだな…良ければ明日にでも」
微笑んでそう言うバーンスタインに、カトレーヌは微笑む。
「お待ちしておりますわ」
そう言って会釈をすると、カトレーヌは通りの向こうへと去っていった。
「バーン!どういうことだよ!」
カトレーヌの姿が見えなくなると同時に、ウルリックが噛み付くような勢いで、バーンスタインに掴み掛かる。
「あの薬はもう充分に効いている筈だとお前は言ったじゃないか!リューイガルドが死ぬのは時間の問題だと。それなのに…!」
「騒ぐな」
間近で声を潜めながらも、叫ぶように囁くウルリックに、バーンスタインはうるさそうに眉を顰める。
が、その灰色の瞳には戸惑いの色がある。
「確かにあの毒は充分効いている筈だ。如何に腕の良い医者と雖も、あれだけ長期に渡って身体に染み込ませた毒を抜くことはできない」
「じゃあ、何で…!」
「まだ分からない。カトレーヌが嘘をついていることもあり得るし、リューイガルドを治したという医者が嘘をついていることもあり得る…可能性は低そうだが……とにかく、屋敷へ出向いて直接リューイガルドとその医者に会わなければ、何とも言えない」
「その医者は俺たちを疑っているんじゃないのか?」
不安そうな顔をするウルリックに、バーンスタインは冷たい瞳で微笑んで見せる。カトレーヌにいつも見せる穏やかな笑みとは全く正反対の笑みだ。
「例え、毒のことがその医者にばれていたとしても、僕たちがやったという証拠はない。第一、一介の医者如きに何ができる?邪魔になったら消せば済むことだ。目的を達するのに、多少手間取るだけのことさ」
そう言って、バーンスタインは凶悪に微笑む。
自信に溢れた兄の姿に、一抹の不安を心の奥に押し込めつつ、ウルリックも同じような笑みに唇を歪めた。
バーンスタインとウルリック、カトレーヌが血の繋がりを疑った彼らは、疑いようのない正真正銘の兄弟だった。
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