永久の調べ


永久の調べ 8

 

桜花(おうか)の言葉通り、一週間もすると、ルイはベッドから起き上がることができるほど回復した。

痩せ細った腕に力が戻り、青白かった顔も血の色を取り戻す。

痩せこけた頬にも張りが戻り、病に倒れる前の姿をルイはほぼ取り戻した。

まさに奇跡と言えるほどの回復振りだ。

「へえ、結構いい男じゃないか」

 そんなルイを見た桜花は、モップの柄の先に置いた手の上に細い顎を乗せ、モップに寄り掛かるようにしながら、からかうように言った。そんな桜花と言えば、ルイの部屋を掃除して以来、掃除に目覚めてしまい、屋敷中を掃除するという意気込みで、この一週間熱心に掃除に取り組んでいる。しかし、この屋敷が広過ぎることに加えて、彼自身の手際の悪さも手伝って、桜花は今だ、その目的を達してはいない。

掃除が終わったのは、ルイの寝室を入れて三部屋位である。

明らかに掃除向きの人間ではない桜花であるが、本人は楽しんでやっているようだ。特に、何も置いていない広い部屋の床を、水に濡らしたモップで走りながら拭くことがお気に入りである。

モップと水の入った桶は今や桜花にとって必需品となっている。

モップを手にした桜花の姿は、その美貌のせいで何処か間が抜けているようにも見え、笑みを誘うものがある。

尤もそれは嘲笑ではなく、幼く可愛らしい子供を見るような微笑ましさに近い。

 ルイはそのような笑みに唇を歪めつつ、ベッドから降りる。久し振りに人の手を借りずに着替えをし、桜花に向き直った。

ルイは自分でも信じられなかった。桜花を信じていなかった訳ではないが、こんなに早く動けるようになれるとは。

まるで、病気であったことが嘘のようだ。

これなら充分にヴァイオリンが弾ける。

 

夢が…叶えられる……

 

 モップを壁に立て掛けた桜花が、長い闘病生活で、肩に届くほど伸びてしまったルイの金茶の髪に手を伸ばす。

「髪はどうする?切るか?」

 ルイは少し考える。

「いや、このままでいい」

 少し邪魔だが、結んでしまえば問題はない。

それに…この髪は彼の闘病生活の証だ。切ってしまえば、健康なときの彼の姿と全く同じになる。

信じられないほどの自分の回復振りに、彼は自分が死すべき人間であることを忘れてしまうのではないかと恐れた。

 

この命が期限付きであることを忘れてはいけない…

病気であったときのことが夢であると勘違いしてはいけない……

 

彼は何度も自分に言い聞かせる。

それから、彼はヴァイオリンをケースから取り出した。弦を取り替え、調律をしてから、ゆっくりと弓を弦の上に滑らせる。

一音。

また、一音。

黙ってその音に耳を傾けていたルイは、呼吸を整えるように息を吸うと、再び弓を構え、今度は旋律を紡ぎ出した。

 流れるような、窓外に見える森を吹き抜ける風のような旋律。

ルイは夢中になってヴァイオリンを奏でる。奏でながら、改めて確認する。

 自分はこんなにもヴァイオリンが弾きたかったのだと。

こんなにもこの音色を愛していたのだと。

 長い間降り積もっていた思いをぶつけるように、ルイは目を瞑り、しばらくの間ヴァイオリンを奏で続ける。

一通り気の済むまで弾いてから弦を休めると、伏せていた目を上げた。

 目を瞑りながら、ルイが奏でる音に聴き入っていた桜花も目を開き、ルイの黒い瞳と視線を合わせる。

「技術的なことは良く分からないが、いいんじゃないか?綺麗な音色だった」

 桜花の飾りのない純粋な賛辞の言葉に、ルイは微笑む。

「有難う。思ったより、腕はなまっていないみたいだ。二、三週間もあれば、足りない分も充分に取り戻せると思う」

「頑張れよ」

 桜花は腕を上げ、まるで幼子にするようにルイの金茶の髪を軽く掻き回す。

 ルイはそれに苦笑しつつも、微笑んで頷く。やや首を傾げるようにしながら間近でルイを見上げる桜花を、ルイは見返す。

 こうして間近で見ると、桜花のその美しさは一際だ。

全く非の打ち所がない。

 

 ルイはこの一週間、殆ど桜花と一緒に過ごしていた訳だが、その間に一つ気付いたことがある。

 桜花の美しさは外見だけから生まれたものではない。

 桜花の余りにも整い過ぎた容姿と、余りにも人間らしい豊かな表情。

最初のうちはその外見と中身の落差に不釣合いなものを感じていたルイであったが、やがてその落差こそが桜花を桜花らしく見せているものだと気付いた。

 下手をすれば、冷たくさえ見える美貌が、良く変わる表情によって和らげられ、豊かな表情が身体の内側から輝くように、桜花をより美しく、魅力的に見せている。

 

 ルイはふと、こちらを見上げる桜花の左耳に、何か小さく光るものがあるのを見付けた。

 窓から差し込む淡い光を受けて輝く青銀の髪の合間から、それはやや色合いの違う輝きを零す。

こうして間近に居なければ、気付くことのできないほど小さな輝きだ。

「桜花。左耳に何か…」

「ああ。耳飾りだよ」

 桜花は左手を左耳へとやる。ルイに見え易いように、耳に掛かる髪をどけて、耳朶にある小さな銀の飾りを見せた。

 ルイは屈むようにして、それを覗き込む。

 本当に小さな耳飾りだ。小指の先ほどの大きさで、桜花の白い耳朶にぴったりと吸い付くように付いている。

ただ丸い形をしているのかと思ったが、違う。

「…花?」

 呟くようなルイの言葉に、桜花の笑みを含んだ声が応える。

「桜の花だよ。俺の名前と同じ花だ…」

 よく見ると、本物の花をそのまま銀色の耳飾りにしたかのように、細かい細工がなされている。

小さいが、高価なものであることは間違いなさそうだ。

 ルイは屈み込んだ姿勢のまま、桜花を見る。

「誰かから貰った…?」

「うん、まあね」

 その耳飾りをくれた誰かに思いを馳せているのだろう、桜花の澄んだ瞳に懐かしげな光が宿る。

それは誰だと問いたくなるのを、ルイは辛うじて堪えた。

関係ないと言われたら、それで終わりである。

 桜花は医者で、自分はその患者だ。

そんな自分が必要以上に桜花の私的なことに首を突っ込む資格はない。

それでも何となく胸が騒ぐのを、ルイは止められなかった。

何処か遠い所を見ている桜花の視線を取り戻したくて、ルイは空いている方の右手を誘われるように桜花の耳飾りへと伸ばす。

その手が桜花の頬に触れる。

 桜花がそれに気付いて、ルイを見遣る。

その瞳の透明さに捕らわれた気がした。

同時に微かに触れた桜花の頬の滑らかな感触を強く意識したルイは火傷したかのように、伸ばした手を引っ込めてしまった。

「どうした?」

 桜花はきょとんとした顔をする。澄んだ大きな瞳でルイを見上げた。

 何故か鼓動の早くなる胸を、ルイは何とか抑えようとする。

桜花の頬に触れた指先が熱い。その熱が自分の頬にまで登ってくるような気がした。

 ルイは桜花の真っ直ぐな視線に内心の動揺を悟られまいと、穏やかさを装って微笑む。

「随分大事な物みたいだね。婚約者からの贈り物とか?」

 口にしてから、しまったと思う。

 誤魔化すためとはいえ、随分と立ち入った質問をしてしまった。同時に、

 

 婚約者…そうか。

 

 耳飾りの送り主について、それならあり得ることだと考える。

婚約指輪の代わりということもあるかもしれない。

そう思うルイに、桜花は笑いながら明るい声で応える。

「まさか。婚約者なんて居ないよ」

 その応えにルイは少し安堵する。

 ただ、自分の動揺に気付かない桜花の態度に対して安堵したのか、その言葉の内容に対して安堵したのか、自分でも分からなかった。

「本当に?桜花なら居てもおかしくないと思ったんだけどな」

 なるべく不自然にならないようにそう言ったルイに、本当だよと桜花は笑う。

「じゃあ、誰?」

「秘密」

 更に突っ込んだルイに、桜花は悪戯っぽく舌を出して見せた。

この話はこれで終わり、と言うと、彼は気合を入れるように、その細い腰に両手を当てた。

「さて、と。俺はそろそろ掃除に戻るか。ルイは練習、頑張れよ」

 耳飾りの送り主を訊き出せなかったことを何となく残念に思いながらも、ルイは相手にそれを悟られないよう、笑って頷く。

「桜花の掃除よりは、はかどりそうだよ」

「何だとぉ」

 わざと冗談っぽく言ったルイの言葉に、桜花は怒った振りをしてルイの首に飛び付き、軽く締め上げる。

「くっ、苦しいよ、桜花!」

 ルイは笑いながら、文句を言う。

「無礼な口を利いた罰だ!」

 桜花も笑いながら、言い返す。

 一通り、ふざけ合った後、桜花はその手に再びモップを持って、ルイの部屋を出て行った。



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