永久の調べ


   永久の調べ 10

 

 ヴァイオリンの弦を休めたルイは、開けてある窓から常とは違う音を聞いたような気がして耳を澄ませる。

 鳥の声、木々を揺らす風、その葉擦れの音の合間に、微かに馬車の車輪の音が聴こえる。

 窓辺に近付き、外を見下ろしたルイは、屋敷の玄関前で馬車から降り立った、望まぬ客の姿に眉を顰める。そうして、ヴァイオリンと弓を手にしたまま、部屋の出口へと向かった。

 カトレーヌによって屋敷内に迎え入れられたバーンスタインは、吹き抜けの二階の廊下に姿を現したルイを見て、驚いたように目を丸くする。

バーンスタインの後ろには弟のウルリックがいた。

「ああ、リューイガルド!カトレーヌの言ったことは本当だったんだね!元気になって本当に良かった!」

 自分も嬉しくて堪らないとでも言うように、バーンスタインは満面の笑みを浮かべる。

 しかし、ルイは二階の廊下の手摺に片手を掛けたまま、そんなバーンスタインを冷たい目で見返す。

「何の用です?」

「もちろん、君に会いに来たんだよ。元気になった姿を一目でも見たくて…」

「貴方たちには大変残念なことでしたね。この屋敷と土地を手に入れるまでにはもう少し時間が掛かりそうですよ」

 笑みを絶やさぬまま、言葉を掛けるバーンスタインの言葉をルイは表情と同じ冷たい声で遮る。

 バーンスタインは困ったような顔をして口を閉じる。

 険悪な雰囲気に居たたまれなくなったように、カトレーヌはその場から離れていった。

「随分と俺たちを悪者扱いしてくれるじゃないか」

 皮肉気な笑みに唇を歪めながら、今度はウルリックが口を開いた。

ルイがますます表情を険しくする。

「今まで何の音沙汰もなかったのに、先代領主の父が病に倒れてから突然、貴方がたは血縁者だと名乗り出た。それでは、この屋敷の不幸に付け込んで、財産を狙っているのだと疑われても仕方ないでしょう」

「相変わらず可愛げのない従弟だな」

 ルイの容赦ない言葉にウルリックは舌打ちする。

「ウルリック」

 そんな弟を軽く目で諌めて、バーンスタインは静かな表情でルイを見上げる。

「君の疑いは尤もだ。その疑いを無理に晴らそうとは思っていない。けれど、ただ僕たちは血の繋がった身内として、君や君の家族を心配してやって来ただけなんだ。それまで連絡が取れなかったのは、僕たちの両親もずっと病に苦しんでいたからで……両親が亡くなって僕たち兄弟は、たった二人になった…病に罹って死に行く者の苦しみ、残される者の苦しみ…それが分かっていたからこそ、君の父上が病にお倒れになったと聞いたとき、放っておくことができなかったんだ…それだけは分かって欲しい…」

「…お帰り下さい」

 静かに言い募るバーンスタインに、ルイは一言だけ、はっきりとそう言った。

バーンスタインは悲しそうな顔をしたが、ルイにはそれがわざとらしく見えてならなかった。

そのとき、一階の奥の廊下に続く扉が開き、桜花(おうか)が姿を現した。細い首の後ろで髪を結び、その華奢な手にモップと水の入った桶を抱えた相変わらずの姿である。

「あれ、お客さんか」

 顔を上げた桜花が、玄関の広間に見知らぬ二人の人物がいるのに気付いて微笑む。

天窓から差し込む光が、優しい花のような美貌を彩る。

 その場にいる者全てが一瞬、その美貌に目を奪われた。

「貴方…は…」

(さき)桜花」

 ぼんやりと呟いたバーンスタインに、桜花は澄んだ水色の瞳を向け、常と変わらない簡単な自己紹介をする。

その澄んだ明瞭な声に、やっと三人は現実に引き戻されたようだ。

ウルリックが軽く口笛を吹く。

「…驚いた。凄い美人だ…」

「桜花…!」

 ルイが慌てたように、階段を降りて来る。

 余裕を取り戻したバーンスタインは、穏やかな笑みを浮かべ、目の前の麗人に問う。

「失礼ながら、貴方はこの屋敷の新しい使用人か何かなのでしょうか?それとも…」

「この方は僕を治して下さったお医者様です。使用人などではありません。失礼なことを言わないで下さい」

 二人の間に割り込むように、階段を降りてきたルイが、その問いに応える。

 バーンスタインとウルリックは目を瞠る。

「では、この方がカトレーヌの言っていた奇跡を起こしたというお医者様なのかい?」

「奇跡と言うほどのものじゃない」

 そう言って、桜花は言外に医者であることを認めた。

「そうですか、貴方が…!初めまして、(わたし)はバーンスタインといいます。こちらは弟のウルリック。リューイガルドの従兄弟に当たるものです」

 感激したような口調でバーンスタインは桜花に手を差し出す。

「こんなにリューイガルドが元気になったのは、貴方のおかげなのですね。お若くていらっしゃるのに、素晴らしいお医者様だ」

 差し出された手を握り返しながら、桜花は冷静にバーンスタインを観察する。

なるほど、と思う。

 

カトレーヌが気に入る訳だ。

全体的な雰囲気がルイに似ている。

そんなことを言ったら、ルイは嫌がるだろうが。

 

その目に依然として疑いの色を湛えたウルリックが口を挟む。

「へえ、そのお医者様にリューイガルドは掃除なんてやらせてる訳だ」

「な…!」

 嫌味な口を利くウルリックに、ルイはますます表情を険しくする。

「単なる趣味だ。別に頼まれてやってる訳じゃない」

 当の桜花は何でもないことのように応える。

「止めないか、ウルリック」

 バーンスタインは弟を諌めたが、不安そうな顔をして桜花に問う。

「貴方がまだここにいらっしゃるということは、リューイガルドの病は完全には癒えていないということでしょうか?」

「そういう訳じゃない。…いや、そうとも言えるか。俺がまだここにいるのは様子見のためだ。ルイの身体だけでなく、心の方も落ち着くまでいるつもりだ」

 桜花の応えにバーンスタインは上品な笑みをその唇に浮かべる。

「患者の心の面までも責任を持って面倒を見る、という訳ですね。貴方はやはり素晴らしいお医者様だ」

「もういいでしょう。お帰り下さい」

 桜花の手を握ったままのバーンスタインに、ルイは苛々した口調で言う。

そんなルイにウルリックが嘲笑うように言った。

「そこのお医者様と俺たちが仲良くするのがそんなに気に入らないか。そりゃそうだろうなあ。こんなに綺麗なお医者様なんだもんな。誰にも()られたくないよなあ」

 ルイは向きになる。

「そんなことは言っていないでしょう!男性に向かってそんな言い方は失礼だ!」

 ウルリックはへえ、とわざとらしく驚いた声を上げる。唇に浮かべた笑みをますます大きくして、桜花を頭の先から爪先まで眺める。

「男…ねえ。これだけ綺麗なら、別に構わないじゃないか。なあ、このお医者様はお前の病だけじゃなく、身体(・・)()()()面倒(・・)も見てくれるんだろう?全く羨ましいね。俺も是非、面倒を見て貰いたいもんだ」

「失礼な…!」

「いい加減にしないか、ウルリック!!」

 激昂して怒鳴ろうとしたルイの言葉を、バーンスタインの叱責の声が遮る。

 その声にウルリックは肩を竦め、口を閉じた。

「すまなかった、リューイガルド。桜花様も…ウルリックの非礼をお許し下さい」

 心底済まなそうな顔で詫びの言葉を述べて、

「ひとまず今日はこれで失礼することにしよう。とにかく…君がすっかり元気になったことが分かって良かった…」

と、バーンスタインはルイを穏やかな瞳で見詰めた。

そんなバーンスタインからルイは苛立たしげな表情を隠さず、目を逸らした。

その様子を見て、バーンスタインは苦笑する。仕方ない、というような軽い溜息を一つ吐いた。

「それでは…」

 バーンスタインはもう一度桜花に向かって頭を下げると、ウルリックを連れて屋敷から出て行った。

 静かに扉が閉まる。

 ルイは桜花を見た。

 ウルリックに対しての腹立たしさが行き場を失い、まだ残っている。

 自分はまだいい。

 しかし、桜花に対しても屈辱的なことを言ったのは許せなかった。

「すまない…桜花…」

 苦々しげな表情のまま、ルイは謝罪の言葉を口にする。

しかし、別のことに気を取られていた桜花は一瞬、何のことについて謝られたのか分からなかった。

「…ああ、別に気にしてない」

 一拍置いてから気のない返事を返す。

「本当に…?」

 ルイは訝ったが、桜花は本当に気にしていなかった。ウルリックの言葉は殆ど耳に入っていなかったと言ってもいいくらいだ。

一人で世界中を旅する桜花である。

 そして、旅先では様々な人間と出会う。

 もっとあからさまなことを言われたこともあるし、実際に襲われることもあった。人買いに攫われ掛けたこともある。

そうした危機を自力で乗り越えてきた桜花にとっては、先程のようなことは取るに足りないことだった。

自分に投げ掛けられるこういった類の言葉の一つ一つを気にして、一々腹を立てていたら切りがないのだ。

今はそんなことよりも…

「一寸水を替えて来る」

 そう言うと、桜花は桶を持ち上げ、まだ何か言いたげにしているルイを残して外へ出て行った。

 そんな桜花の華奢な後ろ姿を見送ったルイは、そっと溜息をついた。



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