永久の調べ


永久の調べ 7

 

「…何をするつもりだい?」

 桜花(おうか)が来て、一夜が明けた翌日の昼頃である。

ベッドの上に身を起こしていたルイは、扉を開けて入って来た桜花の姿を見て目を丸くする。

「見れば分かるだろう?掃除だ」

 長い髪を首の後ろできっちりと結び、右手にモップ、左手に水の入った桶を持って入って来た桜花は言う。

「別に要らないよ、掃除なんて」

「何を言う。こんな埃だらけの部屋にいたら、回復が遅くなるだろうが。これは医者として俺が必要だと判断したことだ。お前は黙ってろ」

「はいはい」

 胸を張って言う桜花にルイは苦笑する。

 一旦モップと水桶を置いて、桜花は久しく開けていなかった大きい方の窓を開く。その拍子に溜まっていた埃が舞い上がり、不幸にも桜花はそれを吸い込んでしまった。

咳き込む桜花の姿に、ルイは不安になる。

「大丈夫かい?」

「…ああ…一寸…油断しただけ……大丈夫…」

 咳き込みながら応えた桜花に、ルイは無情に言い放つ。

「いや、そうじゃなくて。貴方は今までちゃんと掃除したことがあるのかい?」

 やっと咳の治まった桜花は、何だそのことかと呟く。胸を張って応える。

「ない」

「ないって、桜花…」

呆れるルイに、桜花は笑って、

「なあに、やったことはなくてもできるさ。第一ここには壊すような物はない」

と、明るく言う。

それもそうかとルイは思う。ルイも人のことを言えた義理ではないのだ。

医術(いじゅつ)()の名家に生まれた桜花と領主一族の家に生まれたルイ。現在の状況はどうであれ、桜花もルイも掃除という労働に縁のないお坊ちゃん育ちであることは疑いようがない。

「カトレーヌは…?」

 ルイは彼の乳母の名を口にする。

 彼女はたった一夜で自分の身を起こすことができるようになったルイを見て驚き、朝の食事をきちんと取ることができるまでに彼の食欲が回復したのを見て、感動して涙を流した。桜花の手を握り、奇跡だとやはり貴方は素晴らしいお医者様だと笑顔で何度も礼を言った。

そんなカトレーヌに対して、桜花もルイも心から笑い返すことができなかった。

 カトレーヌはルイのこの回復が一時期の、限られたものであることを知らない……

「家に戻って昼食の支度をしてる。それができるまでに俺はルイの部屋の掃除を終わらせる」

 ルイの問いに簡潔に応えると、桜花はモップを取り上げ、部屋の床の掃除を始めた。

 することもないので、その様子をルイは眺める。

桜花の明るい表情や話し振りに接していると、まるで昨夜のことが夢のように思えてくる。

しかし、今ルイの身体に満ちている力が昨夜のことが夢ではなく、紛れもない現実であると教えてくれている。

そこからまた、桜花がヴァイオリンで紡ぎ出した耳に残る美しい音色を思い出し、問い掛ける。

「…桜花。貴方はヴァイオリンを何処で……?」

「…ああ、父親から教えてもらった。教養程度に齧っただけなんだが」

 ルイの問いに、桜花はモップで床を擦りながら応える。床にしつこい汚れを見付けたらしく、それを落とそうとごしごしと熱心に擦っている。

「齧っただけであれほどの美しい音色を出せるのは凄いことだ。あれはきっと天性のものだよ。貴方には音楽的な才能もあるんだな」

「またまた。誉めても何も出ないぞ」

「本当だよ」

 おどけた調子の桜花の言葉に、ルイは微笑した。会話が途切れ、ルイは桜花を見詰める。

 桜花は小さな顔を俯けて、熱心に床をモップで擦っている。その頬に結べるほどの長さのない髪が振り掛かり、長めの前髪と一緒に動きに合わせて揺れる。

髪を結んでいるために、白い首筋が露わになり、その細さがますます強調されている。

窓から差し込む光に輝く青銀の髪の合間から、美しい横顔が透けて見えた。

「……綺麗だな」

「…え?」

 思わず零れ出たルイの言葉が聞き取れず、桜花が顔を上げる。

その拍子に、モップの先が水の入った桶に当たる。

水を吸ったモップはかなり重く、その衝撃を受けた木桶が引っ繰り返りそうになる。

慌てて桜花は木桶の方に手を伸ばす。

 しかし、モップを片手に持ったままだった為、却って桜花は均衡を崩してしまい、更に濡れていた床に足を滑らせる。

 見ていたルイは、思わず肩を竦めて目を瞑った。

「うわっ…!!

 大きな桜花の悲鳴に、木桶の水がぶちまけられる音とが重なる。

 ルイが瞑っていた目を開くと、床の上に頭から足の先までずぶ濡れとなって座り込んでいる桜花の姿が目に映った。足を滑らせて転んだ上に引っ繰り返った木桶の水を浴びてしまったのである。

「…あっちゃ〜」

「………」

 水浸しになった床を見て、桜花は情けない声を上げる。

 ルイは無言だ。

 掃除をするつもりが、逆に部屋の中を水浸しにしてしまった。

できると大見得を切った手前、格好が悪くて仕方がない。

無言のルイは部屋の中を水浸しにされて、怒っているのかもしれない。

桜花は室内を見渡した目をルイの方に向ける。気まずい表情で、詫びの言葉を口にする。

「いやあ、悪いことしたな…」

「…………」

 桜花が見たところ、ルイは怒っている風ではないが、依然無言のままだ。

 昼食の準備が整ったことを伝えに来たカトレーヌが、水浸しの部屋を見て目を丸くする。

「まあまあ、一体何をなさったんです、桜花様!」

「いや、一寸足を滑らして……何か拭くものはある?」

「一寸お待ち下さい!それよりも桜花様、先に着替えを…!」

 少々情けない顔で苦笑いしつつ問い掛けた桜花に応えるカトレーヌの言葉を、突然の笑い声が遮る。

ルイである。

驚いて振り返った桜花とカトレーヌの視線を浴びながらも、ルイは腹を抱えて笑い続ける。

「何だよ…っ、桜花……その…格好っ…」

 さっきまでは驚きのあまり呆然としていたのだ。

しかし、桜花の情けない表情を見ているうちにおかしくて堪らなくなった。

「とても…有能な…医者とは……思えない…」

 ルイは笑いながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

本当にこんなに美しいのに。

意外に大雑把で、間が抜けている。

 

 突然の笑い声に呆然としていた桜花だったが、ルイの明るい笑い声にだんだんと自分もおかしくなってきて、床に座り込んだまま、ルイと一緒に笑い出した。

確かに自分の今の姿は、笑い出したくなるほど格好悪いものであるに違いない。

 カトレーヌはまだ呆然としていたが、やがて微笑み、布を取りに下がった。

 やっと笑いの治まったルイは、顔を上げる。

こんなに笑ったのは久し振りだ。

笑みを唇の端に残したまま、桜花を見る。

 桜花も笑いを治めて立ち上がる。濡れた髪を掻き揚げながら、ルイの表情を見詰め、微笑む。

「表情が明るくなったな。お前、やっぱり笑顔の方がいいよ。辛気臭くなくて」

「そんなに辛気臭い顔をしていたかい?」

「うん、まあね。生きてるのに死人みたいだった」

「そうか…」

 確かにその通りだったかもしれない。

「あ」

 突然桜花が声を上げる。

「何?」

「さっき」

「え?」

「さっき俺に何か言っただろう?悪いけど聞き取れなくて。何て言ったんだ?」

「…ああ」

 ルイは桜花から目を逸らす。

「…いや、いいんだ。何でもない。ただの独り言だから…」

「そうか?ならいいが…」

 ルイは目の端に桜花の姿を捉える。

 桜花は再び水浸しの部屋を見渡して、溜息をついている。

その小さな白い横顔は誰が見ても、美しいと声を揃えて言うことだろう。

ルイの口から零れ出た言葉は、純粋な賛辞である。

しかし、ルイはその言葉を桜花に伝える気にはならなかった。男が男に対して言う言葉ではないと思ったせいもある。

もちろん、桜花は女性と見紛う程の美貌の持ち主だ。そして、その男らしいとはお世辞にも言えない容貌を、桜花本人は気にしている風でもない。綺麗だと言われたところで、賛辞を恥辱と捉えて怒ることもきっとないだろう。

それでも、ルイは何となく、桜花に対して思わず綺麗だと言った言葉を繰り返して、確かなものとしたくなかった。ほんの僅かではあるが、綺麗だと思ったことすら打ち消したいと思う。何故、自分がそこまで敏感になるのか、ルイは自分でも分からなかった。

「桜花様」

「ああ、有難う」

 布を持って来たカトレーヌが、戸口から声を掛ける。

それに応えて、桜花は自分からカトレーヌのいる戸口の方に向かう。

(わたくし)が片付けますので、桜花様は早く着替えをなさって下さい」

 桜花はカトレーヌにも自分の名は呼び捨てでいいと言ったのだが、彼女は依然として桜花を「様」付きで呼んでいる。屋敷のお客様を呼び捨てにする訳にはいかないと強く拒まれてしまったのだ。

「いいよ。俺がやるから。カトレーヌはルイに昼食を運んでやってくれ」

 廊下で布を受け取った桜花は、それで髪を拭く。

桜花が一度言ったことは変えない性格であることを、薄々感じていたカトレーヌは頷いた。

「では、せめて先に着替えをなさって下さい」

「分かった」

 桜花はそれには素直に頷いて、荷物の置いてある隣の部屋へと向かう。が、何時までも自分を見詰めているカトレーヌの視線に気付き、頭から布を被ったまま怪訝そうに振り返る。

 カトレーヌは穏やかな目で桜花を見詰めていた。

「…何?」

「…有難うございます」

 振り返った桜花の澄んだ水色の瞳を、心を込めて見詰めながら、カトレーヌは感謝の言葉を口にする。

 礼を言われた桜花は、きょとんとして首を傾げる。

「有難うって…何が?」

 カトレーヌは微笑む。

「ルイ様のあんなに朗らかな笑い声を聴いたのは久し振りです…病に倒れられてからは、あんな風にお笑いになることはありませんでした……貴方のおかげです、桜花様。病を治して頂いたばかりではなく、こんなにも親身に…友人のようにルイ様に接して下さって……」

 そう言うカトレーヌに、桜花は曖昧な笑みを返す。

 桜花はルイの病を治した訳ではなかった。が…

 

 照れているのだろう。

その笑みの本当の意味に気付かないカトレーヌは、更に笑みを深くしながら、

「ルイ様の昼食を持って参ります」

と、頭を下げた。桜花もルイの部屋で一緒に昼食を取ることを確認すると、昼食を取りに戻ろうとする。

「あ、一寸待って」

桜花に床を拭く布を渡し、背を向けたカトレーヌを桜花は呼び止める。

「何でしょうか?」

 再び桜花に向き直ったカトレーヌに、桜花は濡れたシャツのポケットを探り、小さな薬壜を取り出して見せた。例の薬である。

やはり、気になることをそのまま放っておくことはできない。

「これ。知っているだろう?」

「はい。私がルイ様にお渡しした痛み止めのお薬です」

 桜花の問いにはっきりとカトレーヌは応えた。

 カトレーヌの表情には何も後ろ暗いところは無いように見えた。

この壜の中身が毒であることを知っている風ではない。

 

果たしてこれが演技か否か。

 

桜花は何気ない風を装って、更に突っ込んでみる。

「これ、街の医者のところで貰って来た物なんだって?」

「え、ええ」

 その問いに応えるカトレーヌの声が、一瞬淀んだのを桜花は聞き逃さなかった。

「じゃあ、カトレーヌ。その街医者のところまで俺を連れて行ってくれないか?明日、いや、カトレーヌの都合が良ければ、今日にでも」

「あ…あの……」

 この薬を調合した医者に会いたいと桜花が口にすると、カトレーヌは明らかに狼狽した。

 桜花は更に畳み掛けるように言う。

「その医者の話も聴いてから、ルイにもっと合った薬を調合したいんだ」

「………」

 カトレーヌは黙り込む。真っ直ぐ見詰めてくる桜花の視線を避けるように、視線を下に落とし、しばしの間、視線を床の上で彷徨わせる。溜息をつく。それから、決心したように顔を上げた。

「桜花様には本当のことを申し上げた方が宜しいかもしれません…」

 桜花は僅かに眉を顰める。

「本当のこと?」

 カトレーヌはルイの居る寝室の方を気にするように見遣りつつ、声を潜める。

「はい…実はそのお薬は私が直接街のお医者様に頂いた物ではないのです。ルイ様のお従兄様でいらっしゃるバーンスタイン様から頂いたのです」

「従兄?従兄がいるのか?」

 ルイは領主一族の最後の一人ではなかったのか。

カトレーヌは言い添える。

「ルイ様の母方のお従兄様です。ルイ様にはバーンスタイン様とその弟様のウルリック様、お二人のお従兄弟様がいらっしゃいます。お二人は父方の御親族ではないので、領主一族の血は継いでおられません…けれど、ルイ様にとっては掛け替えのない身内であると私は思っております。特にバーンスタイン様はルイ様の御両親がお倒れになった時も大変御心配下さって、度々お見舞いに来られた方です。ルイ様が御両親と同じ病にお倒れになった今も大変心配して下さっていて…」

桜花がカトレーヌの言葉を遮る。

「同じ病?ルイの両親はルイと同じ病で亡くなったのか?」

 カトレーヌはその問いに頷いた。

「はい…治癒することの難しい不治の病であると皆思っておりました。中にはこれは領主一族に掛けられた呪いであると噂する無責任な者まで現れて……もちろん私はそんな噂を信じてはおりませんでしたけれど…きっと桜花様ほどのお医者様でなければ治すことのできない難しい病だったのは確かなのでしょう」

「……」

 カトレーヌは言葉を続ける。

「ルイ様がお倒れになられたときに、バーンスタイン様は今まで御両親が使っていた痛み止めでは効果がないだろうと、自分がお薬を調合するのに長じた医者を知っているからと仰って…」

 バーンスタインは定期的に遠い所に居るというその医者のところまでわざわざ出向いて薬を貰い、カトレーヌに渡してくれるのだという。

「何故…その従兄が直接ルイのところへ薬を持って行かないんだ?」

 桜花の問いにカトレーヌは困ったように眉根を寄せ、更に声を潜める。

「それは…ルイ様がバーンスタイン様やウルリック様がこの屋敷に来られるのを快く思っておられないからなのです。ルイ様はお二人のことを嫌っておられまして…」

「何故?」

「もし、ルイ様が病の癒えぬままお亡くなりになった場合、残った遺産…と言ってもこの屋敷と土地だけですが…それを受け継ぐのが、唯一の身内であるお従兄弟様方であるからだと思います…自分が御病気になられたことによって、領主一族の遺産を狙っているのだと仰って……」

「そう」

「…確かにウルリック様は派手好きの浪費家で、ルイ様が遺産を狙っているのではないかとお疑いになるのも分からなくはありませんわ。けれど…あれほど親切にして下さっているバーンスタイン様はそんな方ではないと私は信じております…けれどルイ様はバーンスタイン様のことも信じてはおられなくて…どうしてもルイ様に本当のことを言うことができなかったのです……」

 そう言って下を向いたカトレーヌの肩に、桜花はそっと触れて顔を上げさせる。花が開くように優しく微笑む。

「話は分かった…カトレーヌはルイのことを考えて本当のことを言わなかったんだな」

 カトレーヌは嘘をついていない。

もちろん、あの薬が毒であることも知らない。

桜花はそう判断した。

毒薬の出所は何処か。

次の手掛かりはルイの従兄弟たちだ。

或いは、彼ら自身が毒の出所か……

カトレーヌはバーンスタインという従兄に随分と入れ込んでいるようだが、桜花にはその男が一番疑わしいように感じられた。

「桜花様ですからこのことをお話したのです。ですからお願いです、桜花様。ルイ様にはこのことを仰らないで下さい、お願いします」

「分かった」

 カトレーヌの懇願に桜花は頷く。

 

もちろんだ。

ルイには余計なことを考えずに、夢に向けて打ち込んでもらいたい。

このことで彼を煩わせてはいけない……

 

「おい!僕の部屋を何時まで水浸しにしているつもりなんだ!」

 薄く開いた寝室の扉の隙間から、ルイの声が聴こえた。

「ああ!今行く!」

 大きな声で応えて、桜花はカトレーヌを見る。

「その従兄弟たちに俺も会ってみたいな。特にバーンスタインって奴と」

 カトレーヌは微笑む。

「今度、お会いした時に伝えておきます。それともうお薬は要らなくなったということも。バーンスタイン様はきっとお喜びになると思いますわ」

「そうかな」

「そうですよ」

 桜花は笑ってカトレーヌとの話を切り上げ、背を向ける。

その途端、笑みに綻んでいた唇が厳しく引き結ばれ、瞳に挑戦的な光が宿る。

 

 心から喜ぶかどうかは分からないけどな…

 

 声に出さずに、そっと呟いた。



前へ 目次へ 次へ