永久の調べ


永久の調べ 6

 

 月が中天高く輝いている。

その仄かな明かりが草花を、大地を、点在する家々の屋根を、地上にあるもの全てを青白く照らし出している。

 しかし、秋を迎えても葉を落とすことのない木々に覆われたこの森は別だ。密集し、重なり合う葉に遮られて、この森の奥深くまでは月の光で清めることができない。

森はその住人以外の全ての侵入を拒む。

そんな夜の動物たちだけが活動する森の奥深くで、下草を踏み締める人の足音がする。

このような真夜中、月明りも届かない森の中を歩き回る非常識な人間がいる。何時森の獣に襲われてもおかしくない。迷い人であろうか。

しかし、それにしては足運びが落ち着いている。行き先を定められず彷徨っている風ではない。

森の木々が作る濃い闇に、その人物は馴染んでいるようであった。桜花(おうか)である。

右肩に負った荷物には、この森で見付けた薬草がたくさん詰まっている。

しかし、用を終えた筈の桜花の足は、森の出口とは逆の更に奥深くへと向かう。

梟の鳴き声が聴こえる。

その羽ばたきが森の木々を揺らし、夜の闇の静寂を一層強める。

桜花はその音に顔を上げただけで、さして驚きもせず、ひたすら進む。

やがて、木々が切れて、その白い顔を青白い月明かりが照らした。

青銀の髪が輝く。

桜花は昼間来た泉へとやって来ていた。下草を踏み締めながら、泉の辺までやって来ると、桜花は目を細めて、空の高い位置で輝く月を見上げる。それから、その場に背負ってきた荷物を置き、シャツのボタンに手を掛ける。全てのボタンを外すと、肩から滑り落とすようにシャツを脱ぎ捨てた。

仄かな月明かりを受けて、眩しいほど白く輝く華奢な肩が露わになる。

シャツを脱ぎ落としたとき、硬い音がして、桜花は視線を落とす。

シャツのポケットから小さな薬壜が出ていた。

それを目にした桜花の表情が険しくなる。

ルイから預かって来た薬だ。

桜花はその壜を再びシャツのポケットに入れ直すと、残りの着衣を全て脱ぎ捨て、泉の中へと入った。意外に深さのある泉の底まで一気に潜る。水の精霊が全身を撫でていくかのような冷たい感触を心地良く感じながら、しばらく水の中を泳いだ後、水面へと顔を出す。そして、今度は水面に浮かびながら、ぼんやりと天上の月を見上げた。

 

さっきは…顔に出なくて良かった…

 

桜花はあの薬を見たときの衝撃をルイに悟られまいと必死に平静を装ったのだ。

薬を調合する時の参考にしたいからと預かって来たが、本当ならそんなものがなくても充分に薬は調合できる。

ただ、あんなものを病人の傍に置いておく訳にはいかない。

第一、あれは痛み止めなどではない。

桜花には一目で分かった。

通常痛み止めとして調合される薬の色と似てはいたが、あれは……

 

あれは…毒だ。

 

それも即効性ではなく、時間を掛けてゆっくりと身体を蝕んでいくもの。

確かにルイは病に掛かっていた。

しかし、それは死の病ではない。

彼を死へと導いたのは、間違いなく薬と称されたあの毒……

再び桜花の細い眉が険しく顰められる。

あれはカトレーヌが街の医者から貰って来た物だとルイは言っていた。

しかし、医者が毒薬を調合して渡すとは考えられない。

これは一度カトレーヌに問い質してみる必要があるかもしれない。

 

…しかし、そうしたからといってどうなるというのだ。

 

向こう側の浅瀬に辿り着いた桜花は身を起こし、腰までの深さとなった水の上で揺らめく月を凝視する。

 

もう、既にルイは手遅れだ。

毒薬の出所が分かったからといって、彼が助かる訳ではない。

もしルイが、自分が病ではなく、毒薬のせいで死ぬのだということを知ったら、彼は今よりもずっと苦しむのではないか。

そして…自分に毒を盛った人物を恨みながら死んでいくことになるのではないか……

それはあまりにも不幸な死だ。

それを避けたいがために、自分はルイにこの事実を伏せたのではないのか。

 

…せめて俺がもう少し早くここに来ていれば、ルイは手遅れにならずに助かったのかもしれない……

 

そんな自分を責める言葉が、ふと胸に浮かぶ。

桜花は軽く頭を振る。

 

今更どうしようもないことで悩んでも何も始まらない。

今の自分にできることをするしかないだろう。

 

暗い気分になり掛けた桜花は、それを振り払おうと再び水に潜ろうとする。そのとき、ふと自分を見詰める視線に気付く。桜花は静かに目を細めると、その視線に背を向けたまま口を開く。

「覗き見とはいい趣味だな。そこにいるのは分かっている。さっさと出て来たらどうだ」

 忍び笑いが微かに近くの枝葉を揺らす。若い男の声だ。

「存外に気付くのが遅いな。森に入ったときからずっと見ていたのだが。余程気を取られていたことがあったらしい」

 笑みを含んだ声と共に、桜花の背後の森が作る闇から染み出すように、一人の青年の姿が現れる。

月明かりに照らされた端正な顔を縁取る長い髪が、桜花の青銀の髪とは違う輝きを放つ。黄金(きん)の髪だ。

 桜花は濡れて顔や身体に張り付いた髪もそのままに、ゆっくりと青年の方を振り返る。

「あんたは余程暇なんだな。俺なんかの水浴を眺めるよりも他にすることはないのか?」

 顔を顰めている桜花を見て、青年は赤い瞳を細めて笑う。

(わたし)にとっては有意義な時間だよ。他のどんな美しい女の水浴を眺めるよりも余程愉しい。それに…ここですることはある。お前を連れて行くことだ」

 桜花はしかめっ面のまま溜息をつく。

「その話なら何度も断っているだろう。俺はあんたと一緒には行かない。あんたを人生の伴侶にする気はないんでね」

「相変わらずつれないことだ…」

「つれなくて結構。分かったらさっさと消えてくれ。俺は忙しいんだ」

「…あの青年の夢に付き合うのか。随分と入れ込んでいるようだな。死に行く者に期限付きとは言え、命を与えるなど…」

 桜花はますます美しい顔を顰める。

「そんなことまで覗き見ていたのか……別に入れ込んでいる訳じゃない」

「では、何も成しえないまま死んでいく者に対するただの同情か」

「違う」

 きっぱりと言った桜花は、片手で濡れた髪を掻き揚げながら長い睫毛を伏せる。

「ただ…許せないだけだ、理不尽な死を」

「死というのは得てして理不尽なものだろう、特に若い者にとっては」

「それは分かっている。だが…ルイのような死だけはどうしても納得できない」

「あの青年は毒を盛られていたようだな。お前の言う理不尽な死とはこのことだろう。治療が早ければ、あの青年は死ぬようなことはなかった……お前自身が間に合わなかったことに対する罪滅ぼしという理由もあるのではないか?」

「………違う。ルイに命を与えたのは、俺が勝手に納得できないと思ったからだ。罪滅ぼしのつもりはない」

「しかし、それは自然の摂理に反することだぞ」

「分かっている。そのことに関しては俺が責任を持つ。俺が勝手にやったことだから。だから…ルイは関係ない」

そう言って、黙り込んだ桜花の様子を眺め、青年は再び微笑む。

しかし、その笑みはいささか皮肉気だ。

「お前は相変わらず人間には優しいな。その優しさを私にも少しは振り分けて欲しいものだ」

その言葉に桜花は顔を上げ、相手を睨む。

「優しくされるようなことをあんたはしてきてないだろう。することといったら、俺の邪魔ばかりだ。それに、人が人に優しくするのは当たり前だ」

「まだ、お前はそんなことを言っているのか?自分が人間だと」

「そんなことも何も俺は正真正銘の人間だ。あんたの求めている奴じゃない」

「セイ」

「俺は桜花だ」

強硬な態度に青年は苦笑する。

「お前が人であること、(さき)桜花であることにあくまでもこだわるならばそれでも良い。しかし、お前は人の中にあっては何処までも異質な存在でしかない。今は良くても…いずれ苦しくなるぞ」

「…あんたには関係ない」

相手を突き放す言葉で会話を打ち切ると、桜花は泉から出ようと青年のいる辺へと泳ぎながら近付く。

そこに桜花の服が脱ぎ捨ててあるのだ。

その傍らに立つ青年には目もくれずに、泳いでいく。そうして水から上がると、濡れた髪も拭わずに服へと手を伸ばす。と、突然その濡れた細い腕を横から掴まれ、強く引き寄せられる。

「……!」

桜花は均衡を崩して、青年の胸の中へと倒れ込んだ。

そんな彼を強い光を宿す赤い瞳で見下ろしながら、青年は囁く。

「お前はこれであのルイという青年の望みを一つ、叶えた訳だな」

 桜花は怪訝そうに細い眉を顰めて、青年を見上げる。

「俺はルイの望みを叶えるための手伝いをしただけだ。望みを叶えるのはルイ自身だろう。それにルイの望みはまだ叶えられていない」

 ルイが参加を望んだコンテストは一ヵ月後だ。

「いいや、叶えられたのさ。お前は気付いていないかもしれないがな」

「…どういうことだ?」

 青年は笑みを含んだ声で桜花の耳元で囁く。

「いずれ分かる。人間というのは欲張りなものだぞ。一つの望みが叶えば、また新たな望みが生まれる。それは止まることを知らない……果たして、あの青年はどうかな……?お前の優しさが裏目に出ることがなければいいな…」

「…?」

 桜花は訳が分からず、ますます眉根を寄せる。

それを間近で見詰める青年が、唇に浮かべた笑みを大きくする。

その笑みを見て、桜花が息を呑むのと、青年の姿が急速に消え失せていくのとが同時だった。

「…待て!一体何をするつもりだ?…コウ!」

 腕に掴まれていた感触だけを残して、桜花がコウと呼んだ青年の姿は消える。

 一人取り残された桜花は、掴まれていた腕に触れる。

「………」

 その美しい顔に浮かぶ表情は厳しかった。



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