永久の調べ


永久の調べ

 桜花(おうか)はルイの居る寝室の隣の部屋を借りることになった。

カトレーヌはそこへ家から持ってきた洗面用具や毛布を持ち込んだ。

 カトレーヌはまだ足りないと更に多くの生活用具を持って来ようとしたが、桜花がそれを止めた。先程言った通り、桜花にとっては、本当に寝る場所があれば充分なのだ。

 日が暮れて、カトレーヌが家へ戻ると間もなく、夜の闇が訪れる。

 この屋敷の闇は外の闇と同じように濃い。

 明かりがあるのは、青年の部屋のみである。

 その明かりも弱々しいものだ。青年の寝室のシャンデリアに明かりが灯されることは無く、窓辺と新たにこの部屋に持ち込まれた質素な台に置かれた蝋燭の仄かな灯りだけが、広い部屋を薄暗く照らす。

「どうだい?」

 一通りの診察を終えた桜花に、ルイは尋ねる。

 夜が訪れても、桜花は隣の部屋には行かず、ずっとルイの傍にいる。その桜花はルイの問い掛けに眉を顰め、長い睫毛を伏せる。

残念だが

手遅れということか……

 ルイは静かに桜花の言わなかった言葉の続きを口にする。桜花の暗い表情に対して、ルイは唇に僅かではあるが、笑みまで浮かべて見せる。

想像通りの答えだ。

治ると期待していた訳ではない。

 しかし、桜花の澄んだ瞳を見た瞬間にその笑みも消えてしまう。

やはり、何処かで期待していたのだろうか。

そんなことはない。

ない筈だ

そんなルイの様子を見詰めていた桜花は、目の端に台の上に置かれた小さな薬壜を捉える。

「これは?」

 桜花の視線の先を追ったルイは、あぁ、と呟く。

「カトレーヌが街の医者から貰って来た痛み止めの薬だ。最初のうちは良く効いたんだが、今ではもう効かなくなってしまってねだから、今はあまり使っていない」

 その壜を取り上げた桜花は、白い掌の上に中の薬の粉を少し取り出して見る。

 その眉が微かに顰められた。

桜花?」

 ルイの呼び掛けに、桜花は顔を上げ、微笑む。

確かに、この薬はお前には効かないな。よし、俺がもっとお前に合った薬を調合してやる。この薬、預からせてくれ」

 薬を調合する時の参考にするからと、桜花はその薬壜をシャツの胸ポケットに入れた。

 ルイは蝋燭の明かりが届かない暗がりへと目を向ける。

「痛み止めか。貴方の調合した薬は効きそうだ……有難い。これで楽に死ねる

 悲観的なことを呟くルイに構わず、桜花は言葉を続ける。

あと、栄養剤のようなものも必要かもしれないな。薬として飲むより食べた方がいいだろうから、料理に混ぜられる薬草がいいか……あそこの森に薬草が生えていたな。足りない薬草は後で探しに行くとして他に気になる症状とか、希望の薬はあるか?」

尋ねられたルイは、乾いた笑いを漏らす。

希望の薬……そうだな苦しまずにすぐ死ぬことのできる薬かな?」

 桜花は穏やかな表情を消す。

俺に毒薬を調合しろということか?」

 無表情で問い掛けた桜花にルイは、

「冗談だよ。医者である貴方にそんなことを頼みはしない」

と、笑い掛ける。

 しかし、桜花は無表情のまま、口を開く。

「ルイお前は死にたいのか?」

「ああ」

 ルイも作り笑いを消して、無表情に桜花を見詰め返す。何故か、桜花の前では自分を装い続ける気をなくしてしまうのだ。同時に今までになく、饒舌になっていることにも気付く。

「僕はこの苦痛が終わることだけを望んでいる。もう疲れているんだよ、この苦痛を抱えたまま生きていることに。この状態で生き続けること自体が苦痛なんだ。助からない命ならば、ただ長らえるだけの生に何の意味がある?父も母もいない。僕はたった一人だ。この領主一族の血を残すことさえできない。そんな僕にとって生は僕を縛り付けるものでしかない。その生から僕は一刻も早く解放されたい……だから、お願いだ。ただ長引かせるだけの治療はしないでくれ」

「それはしない。約束する。だが

 全てを見透かすような瞳がルイを見詰める。

「何故、それほどまでに死を焦がれる?何故、生きることを諦められる?何もないのか?この生に諦められないもの、やり残したものはないのか?」

ない。何も……

 真っ直ぐな視線に耐えられず、ルイはそこから逃れるように、目を逸らす。

 何故、目を逸らしてしまったのか

自分が口にした言葉は何一つ偽りのない真実であるのに

 そのとき、部屋の隅に置かれたヴァイオリンケースが目に入り、ルイはそこから目を逸らすことができなくなった。

 桜花もルイの視線の先を追って振り向く。

「これはお前の?」

「ああ。演奏家を目指していたことがあってね三年に一回開かれる国立劇場主催のコンテストを目指して、ひたすら練習に明け暮れていた。でも、昔の話だよ。今はもうケースに触れてもいない。もうどうでもいいことなんだ……

 軽く応えるつもりだったのに、その口調はひどく歯切れの悪い、重いものになってしまった。

 視線を外すことができないならば、目を閉じてしまえばいい。

ルイは再びベッドの上に横たわり、目を伏せることで、そのヴァイオリンケースを視界から追い出した。

 桜花は枕元の椅子から立ち上がった。ゆっくりとヴァイオリンケースの置いてある部屋の隅の方へ向かいながら問う。

「開けてもいいか?」

……

 桜花の方を見たものの、ルイは無言のままだ。実際どう応えて良いか分からなかったのだ。そのケースに誰にも触れられたくないと思うと同時に、誰かに触れてもらいたいとも思う。

 ルイの無言の言葉を肯定と受け取ったのか、桜花はケースを持ち上げ、鍵の掛かっていない蓋を開けた。中からヴァイオリンと弓を取り出す。

 蝋燭の仄かな灯りを受けて、桜花の青銀の髪が妖しく輝く。

すると、薄闇の中に浮び上がる白い腕が、鈍く蝋燭の灯りを反射する楽器から旋律を紡ぎ出した。

その旋律は、楽器が長く調律されていなかったせいで所々歪んでいたが、その音色は澄んで美しく、聴く者の心の奥深くまで染み入るようだった。

ふいに、その音を耳にしたルイの瞳から涙が溢れる。悲しい訳ではないのに、泣きたい訳ではないのに、その涙は止めどなく流れ続ける。溢れる涙は目尻から頬を伝い、枕に染みていく。

そんなルイを、音を紡ぐ手を止めた桜花は黙って見詰める。

涙を流し続けるうちに、ルイは今まで心の奥深く、自分でも気付かないほど奥深くにしまい込まれていた思いに気付いた。

その思いが涙と共に外へと零れ出る。

何故死ななければならないのか……まだ何も成していない何も残していない……たった一つの夢さえも果たしていないのに………僕は一体……何のために………

 空しい。

空しくて堪らない。

何も残さず死んでいくのが。

夢を果たせずに死んでいくのが。

何のために生まれて来たのかもわからないまま、死んでいくのが……

空しくて辛くて堪らない……

 心の内を吐露するルイに、桜花はゆっくりと近付く。

「夢を果たしたいか?」

 その問いに止めどなく涙を溢れさせる両目を力無い掌で覆いながら、ルイは強く頷く。

生きたい。そして夢を叶えたいせめてコンテストに参加することさえできれば……

 ルイは泣きながら、叶わぬ願いを口にする。

桜花は呟く。

「コンテストか」

街の通りを歩いていたとき、劇場らしき建物の入口に国立劇場主催のコンテストの張り紙が張ってあったのを思い出す。

コンテストの開催はちょうど一ヵ月後だ。

桜花はルイに静かに、しかしはっきりと言った。

「コンテストに参加するという夢、俺が叶えさせてやる」

 その言葉にルイは目を見開いて枕元にいる桜花を見上げる。

「何を馬鹿なことを

「本当だ。確かに、今のままでは、お前は一ヵ月後のコンテストの開催を待たずに命尽きるだろう。例え、もったとしてもその身体では充分に演奏できない。だから、お前にそれができるだけの、その夢を叶えられるだけの命をやる。ただし、俺がお前にやれる命は期限付きのものだ。期限は一ヶ月。コンテストが終わると同時にお前の命も終わる。それでも夢を叶えたいと願うならば、俺がお前に一か月分の命をやろう」

 ルイは眉を顰める。

到底信じられる話ではない。

しかし、桜花の口調、表情には偽りは見出せない。

「ルイ、お前は言っただろう、何も残さず、たった一つの夢も叶えられずに死んでいくのは嫌だとそれなら、その夢を叶えろ。生まれてきた意味、その証を手に入れるんだ」

桜花はそうルイに語り掛ける。

薄暗がりの中に浮び上がる桜花の美貌を見詰めているうちに、ルイはこの馬鹿げた話が真実なのではないかと思えてきた。

目の前にいるこの少年はやはり、人ではなく、人の命を操る死神なのではないか

桜花が横たわるルイの上に屈み込む。

その拍子に癖のない髪が、蝋燭の仄かな灯りに煌めきながら、微かな音を立てて細い肩から滑り落ちる。

先程までは幼ささえ感じられた少女のような顔立ちが、今は神秘的で大人びた印象を与える。

ルイを覗き込む薄い水色の瞳が、蝋燭の炎を映して、虹のように様々にその色を変えているように見えた。

ルイはその瞳に魅入られたように頷く。

貴方が例え死神でも構わない。僕は夢を叶えたい」

 その言葉に桜花は笑う。

「俺は人間だよ。ただ少し特殊な能力(ちから)があるだけだ」

 そう言って、桜花は身を起こすと、足元に置いてある自分の荷物の中からナイフを取り出す。その白銀色の刃を自らの右手の人差し指に当てる。

その細く白い指先から赤い血が玉のように浮び上がった。

桜花は再びルイの上に屈み込む。傷付いていない左手で、ルイの額に振り掛かるやや癖のある金茶の髪を掻き揚げる。

そして、口の中で何か呪文のようなものを唱えながら、その青白い額に指先の血で何かの紋様を書き付けた。

その瞬間、額に描かれた紋様が光を発して、次の瞬間には血の跡も残さずルイの額から消える。

ルイは額が熱くなり、その熱さが全身に拡がっていくのを感じた。

「これで終わりだ。お前に一ヶ月生きられるだけの生気を与えた。一週間もすれば、ベッドから起き上がって、楽器を弾くこともできるようになる。ただしこの命が期限付きのものだということを絶対に忘れるな」

 取り出した布で傷付いた指を抑え、手早く血止めしながら桜花は言う。

 身体中に久しく感じたことのない力が満ち満ちているのを感じる。ルイは桜花を見上げる。

思い出した」

 桜花を見詰めながら、ゆっくりと呟く。

(さき)桜花。咲何処かで聞いた名だと思っていた。咲一族だ。あの流浪の医術(いじゅつ)()の一族

 医術師とは医者の行う通常の治療の他に、呪術による治療も行う者たちをいう。

咲一族はその医術師の一族として世界中にその名を馳せている。世界中を流浪し、世界のあらゆる医術の心得を会得した、最先端の治療を行う最高の医術師の一族である。

「呪術をも行う彼ら一族の中には、特殊な能力を持つ者も多かったと聞くが

「良く御存知で」

 桜花は薄紅色の唇に不敵とも見える笑みを浮かべる。

「これが咲一族の特殊能力なのか?」

 ルイの問いに桜花は肩を竦める。

「一族の全てが俺みたいな能力を持っている訳じゃない。持っている能力は様々だ。時にその能力を用いて患者を治療する訳だが勘違いするなよ。今俺がやったことは、治療の中には入らない。死すべき運命にある者に命を与えるなんてことは、本当は御法度なんだ。俺が与えることができるのは、一時だけの偽りの命でもあるしな

「では、何故僕に命をくれたんだ?」

 何故、禁止されていることを敢えてやったのか?

そう問われた桜花は長い睫毛を伏せ、ただの笑みとも苦笑ともつかぬ曖昧な笑みをその天使のような美貌に浮かべた。

「さあ何故だろう?ただ、そうした方がいいと思った……俺がやりたいからやった、それだけの話かもしれない。ただの気紛れだ。別にお前の訴えを無理に聞いた訳じゃない」

「なるほど。では僕はそのこと自体は気にしないでいいという訳だ」

 その言葉に頷き、不思議な能力を持つ美しい医術師は、澄んだ瞳で真っ直ぐにルイを見詰めた。

「お前はただ、自分の夢を叶えることだけを考えろ」



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