永久の調べ
永久の調べ 3
青年はぼんやりと天井を見詰めていた。
時間の感覚はもう無くなっている。
父も母も原因不明の死の病で、既にこの世を去った。
そして、彼から両親を奪った病は、今、彼自身の命をも奪い去ろうとしている。
奪うのならば、早く奪うがいい。
まだ、死の神は訪れないのか。
時に襲って来る激痛に耐えながら、青年はひたすら死に焦がれる。
早く、この苦痛から僕を解放してくれ……
この世から解放してくれ…
もう、誰もいない。
この世に残して惜しいものなど何ひとつ無い。
何の心残りも…有りはしない。
本当に…?
心の何処かから声が聴こえて、青年は、知らず息を呑む。重い頭をゆっくりと動かし、部屋の隅を見遣った。
そこには、一つのヴァイオリンケースが置かれている。
まだ、両親が生きていた頃、青年はプロの演奏家になることを夢見ていた。その夢を叶えるため、三年に一回開かれる国立劇場主催のコンテストへの参加を目指し、ひたすら練習に打ち込んでいたのだ。
しかし、それは最早叶えられない夢だ……
青年はゆっくりとヴァイオリンケースから視線を逸らす。
両親の死をきっかけとして、代々この地方の領主であったこの家は、急速に見る影も無く落ちぶれた。
青年はその領主一族の最後の一人だった。しかし、父の後を継いだ彼も、さほど時を待たずして病に倒れた。
それは原因不明の死の病だ。
まだ十九歳の彼には妻も子もいない。
領主一族の血が絶えることは必至だ。
その衰退のあまりの速さに、人々は領主一族に、滅びの呪いでも掛けられているのではないかと噂した。
それが事実であろうとなかろうと、今の青年にとっては、どうでもいいことであったが。
死の病に倒れた青年は屋敷の使用人全てに暇を出した。
そして、この屋敷にある殆どの高価な家具類を彼らに与えた。今までの奉仕に対する謝礼として……
もうすぐ主人がいなくなる屋敷に、高価な家具など必要ないだろう。
自分が死ねば新たな領主が任命され、中央から派遣されるであろうが、彼らは別に屋敷を構える筈だ。
そうなれば、自分が死んだ後、この屋敷はおそらく、あいつらの物になる。
この屋敷にある物全てをあいつらに渡したくはない。
今、青年の心を占めているのは、このことだけだ。いや、もしかしたら、このことさえどうでもいいことなのかもしれなかった。
どんな願い、望みを抱いたところで何の意味もない。
自分には死という道しか残されていないのだから……
死こそが彼の今の望み、たった一つの願い。
他の望みなど…ありはしない……
再び激痛が襲ってきた。
彼は力ない腕で痛みを訴える胸の辺りの服を掴み、その苦痛に耐える。
そのとき、部屋の扉が開く音が聞こえたような気がした。
カトレーヌが来たのであろうか。
彼女は青年の乳母だった人で、暇を出した今も、彼の世話をしに、頻繁にやって来る。
もう、来ないでいいと言った筈なのに…
痛みでぼんやりした頭で、青年は扉の方を見遣る。
開いた扉から、光が差し込んで来る。
青年の霞んだ目が、部屋に入って来る人物の姿を捉えた。
その人物は光を纏っていた。
青年はぼんやりした頭の片隅で思う。
あぁ、ついに迎えが来たのか。
しかし、迎えに来たのは彼の想像していた死神ではなく、天使のようである。
こんな美しい天使に連れて行かれるのならば悪くない。
そう思う青年の枕元に、天使はやって来て、輝くほど白い腕をこちらに差し出す。
その手が青年の頬に触れ、銀の髪に縁取られた白い美貌が、青年の顔を覗き込む。
その瞳…
何処までも澄んでいて、一点の曇りもない。
これから自分の行く世界も、この天使の瞳のように美しい世界だろうか……
胸の痛みに苛まれながらも、青年の心は今までになく、穏やかな光に満たされていた。
ゆっくりと意識が遠のき、自分を見詰める天使の姿も薄れていく。
まだ、この美しい天使の姿を見ていたい……
心の片隅でそんなことを願いながら、青年の意識は白い闇に呑まれた。
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