永久の調べ


永久の調べ 21

 

 炎の中、桜花(おうか)は走り続ける。

「ルイ!!」

 叫びながら炎の中心に向かって進む。凄まじい熱さに肌が灼けるような痛みを訴える。煙が目に染みる。それでも、桜花は進むことを止めなかった。

 ルイの傍を一時でも離れてしまったことが、ひたすらに悔やまれた。

 全てが炎の赤と立ち昇る煤と煙の黒とに染められている。

 桜花のすぐ横で劇場の壁が屋根と共に崩れ落ちる。

 そこから露わになった空もまた、劇場内と同じ色彩に染められていた。

その鮮やかな赤はすぐに湧き上がる黒い煙によって覆われる。

 

炎の渦を突っ切るように駆け抜ける桜花の目の端に、炎や煙のものとは別の色彩が過ぎる。

息を呑んで立ち止まった桜花の足元に、鈍い色を放つヴァイオリンが置かれていた。

 

これは…ルイのヴァイオリンだ。

 

全てが炎に包まれている中、真っ先に灰になっていてもおかしくない木製のヴァイオリン。それが何故、燃えずに残っているのか。

 

「決まっている」

 桜花はヴァイオリンを手に取り、低く呟く。

 

 このヴァイオリンにはルイの思いが詰まっているからだ。

 そして…

 この炎がルイの起こしたものであるのなら…

 その炎の中、このヴァイオリンが燃やされずにいたということなら……

 

「…まだ、間に合う」

 桜花は再び走り出す。

 

 そして……

 桜花はついに炎の色に染められた金茶色の髪を熱風に煽らせながら佇む青年の後ろ姿が見える場所まで辿り着いた。

「ルイ!!」

 彼を振り向かせようと、桜花は精一杯の大声でその名を呼ぶ。燃え盛る炎を避けながら彼のところへ向かう。

 その声に反応したのか、ルイがゆっくりと頭を動かし、桜花へと振り向いた。

「ルイ!」

 もう一度呼び掛け、足を速めた桜花は、一旦立ち止まる。

 振り向いたルイの瞳は、桜花を映していなかった。いや、映してはいる。

しかし、それが桜花であると認識できていない。

 そして、ルイの前に投げ出された黒い物体。真っ先にルイの起こした炎の犠牲になったであろうそれは、辛うじて人の形を残していた。

最早、誰とも分からぬ様であったが、桜花にはそれが誰なのか、一目見ただけで分かった。桜花の顔が痛ましさに歪む。

しかし、それも一瞬のこと。すぐに感情を押し殺し、凛とした表情を浮かべて、桜花はルイへと向かって今度はゆっくりと歩を進めた。

近付いて来る桜花に向き直り、ルイは右手を前に差し出す。

しかし、それは桜花を迎え入れようと差し伸べられたものではない。

ルイが腕を上げたその瞬間に、炎が二人の間を隔てた。

「くっ……」

 桜花は腕を上げ、炎を躱す。炎の向こうに見えるルイの虚ろな瞳を真っ直ぐに見詰める。その瞳の奥に確かな光を見たような気がして、桜花は息を呑む。

 

 もしもこの状況が本当にルイの望んだものであるなら…?

 ルイが自分を本当に殺したいと思っていたなら…?

 

 そんな思いが胸を掠める。

 桜花は首を振る。

 例えそうだとしても、このままではルイは自分を失ってしまう。コウの言う通り、永遠の命を手に入れられても、自分を失ってしまっては何の意味もない。

しかし…

 

 どうすればいい…?

 

 桜花は強く唇を噛む。

 ルイが差し出したままの右掌を広げる。

 炎の勢いが増した。

 

 このままではルイはルイでなくなってしまう。

 そんなのは嫌だ。

 

 この状況に至っても、己の感情を大事にする自分に桜花は苦笑する。手にしたルイのヴァイオリンを見下ろした。

 

 時間はない。

 いちかばちかだ。

 

 桜花はルイのヴァイオリンを構える。炎が周りを取り囲んでも頓着しない。

 そうして、旋律を紡ぎ出す。初めて会った夜、桜花が弾いた旋律。ルイの秘められた願いを引き出した音色が響き渡る。

 

 気付いてくれ…!

 

 思いを込めて桜花は奏で続ける。

 と、周りの炎の焦がされそうな熱さが弱まったような気がした。

 ルイの瞳に窺える微かな感情の色。

「ルイ!」

 それを逃すまいと、桜花ははっきりと呼び掛けた。

 

 その瞬間、桜花を取り囲んでいた炎が消える。

 二人を隔てるものはなくなった。

俄かに空が掻き曇り、二人の頭上に影を落とす。

そして、静かな、細かい雨が降り出した。

「……桜花…?」

 ルイが怯えたような、信じられないような口調で呼び掛ける。

 その声音がルイへ近付こうとする桜花の足を止めさせた。桜花は辛そうに長い睫毛を伏せる。

「…そうだな。俺なんかに近付いて欲しい訳が無いな。自分一人の都合でお前を必要以上に苦しめた。怒るのは当たり前だし、俺を消したいと思うのも分かる」

「……」

 ルイはどう応えて良いか分からなかった。

 怒っている訳ではない。桜花に近付かれたくないという訳でもない。そんなことを思う筈が無い。

 

 ルイは桜花の紡ぎ出した音によって自分を取り戻した。

 しかし、彼は桜花に炎の刃を向けたことを憶えていた。心の何処かで彼を壊したいと思っていたのも事実だ。そうすれば、彼は誰のものになることもない。己のものだけにすることができる。

 そんな自分の中の昏い望みに気付いていたからこそ、ルイは桜花の言葉を否定できなかった。

しかし、もし自分が昏い望みと能力(ちから)の暴走するままに、桜花をこの手に掛けていたら、と思うとぞっとする。

そうなれば、ルイは制御できない能力に飲み込まれ、己を失ってしまったことだろう。

そして何よりも今、雨に打たれる花のように沈んだ桜花の姿を見ているのは辛かった。

 

 勝手に昏い望みを抱いたのは自分だ。

 桜花には何の責任もない。

 それに、桜花はこんな炎の海の中、自分を助けようとやって来た。

そう、出会ったときから、いつも彼は自分のためにでき得る限りのことをしてくれた。

 

「…有難う」

 思いがけないルイの言葉に桜花は驚いて顔を上げる。

「何故……?」

 桜花の大きな瞳の澄んだ水色が潤むように揺れる。

 

そんな目で見ないで欲しい。

今だってどうしようもないほど惹かれているのに。

 

ルイは苦笑する。

「桜花は僕の願いを叶えてくれたじゃないか。コンテストまで僕の命を延ばしてくれた」

「しかし…!」

 結果を待たずして、コンテスト会場はこのような混乱に巻き込まれてしまった。

 ルイはこの応えが桜花を納得させるものではないことに気付く。

 

 どう言えば良いのだろう。

 

 目の前にはどんな罵倒も叱責も受け止めるとの強い覚悟の色を浮かべた桜花の瞳がある。

 しばし、途方に暮れていたルイであったが、その生真面目な瞳を見ているうちに可笑しくなった。悪戯っぽい気持ちで口を開く。

「一つ頼みたいことがあるのだけど…」

「…ああ、何だ」

 唐突な言葉に少々驚きつつ、桜花は問い返す。

「貴方を…抱き締めてもいいかな」

 桜花の大きな瞳が更に大きく見開かれる。

 返事を待たずに、ルイは腕を伸ばし、目の前の細い身体を引き寄せた。

 

細かい雨に濡れた所為か、桜花の身体は少し冷たかった。

しかし、どんなものより胸を熱くする。

同時に、腕の中で今にも消えてしまいそうな儚い温もりに内心驚く。

 

これではまるで逆のようだ。

 

消えるのは自分ではなく、桜花であるような…そんな錯覚さえ覚える。そんな彼を繋ぎ止めるかのように、しっかりと抱き締める。

そのときふと、胸に抱えていた想いの一片が唇から零れ出る。

「貴方は劇場の支配人に自分を僕の「友人」だと言ってくれたね。僕はその言葉が嬉しかった…例え嘘でも」

「…嘘じゃない!」

 くぐもった声ではあるが、強くはっきりとした桜花の応えに、ルイは微笑む。

 

 きっとこう応えるだろうと思っていた。

 

 予想通りの応えは嬉しく、また同時に切ないものだった。

 自然に次の問いが紡がれる。

「貴方の故郷にはきっと貴方の大切な人が待っているのだろうね。それは耳飾りをくれた人なのかな?」

「何故、そんなことを訊く?」

「大した理由じゃないよ。でも、僕の友人が幸せであるかどうか、気にしたっていいだろう?」

 冗談めかして問うたルイの言葉に、桜花は彼の腕の中で俯いたまま応えた。何処までも静かな声音で。

 

「…故郷には誰もいない」

「え?」

「死んだんだ。大分前に」

 

 言い様のない衝撃だった。

ルイはここで初めて桜花の孤独を知った。

世界中を放浪する旅人である桜花。

桜花は出会った人々に対していつも精一杯の優しさで接してきたのだろう。

そして、出会った人の数だけ別れを積み重ね、旅を続ける。

それなのに、そんな彼には還る場所がない。彼を理解し、受け止めてくれるだろう人はもう、何処にもいないのだ。

それでも、桜花は出会う人々に無償の優しさだけを注ぎ、見返りを求めない。自分のことは何一つ語ろうとしない。

だから、ルイは桜花のことを何も知らなかった。このときまで知ろうともしていなかった。

 

桜花の抱えている孤独。

それに気付いたとき、ルイはでき得るなら自分こそが彼を理解できる人物になりたかったと思った。

新たな願いを切なく胸の奥で噛み締める。

偽りの命では、ルイはルイのままでいることは出来ない。

ひとときの夢から目覚め、自然の摂理のまま還るしかない。

 

自分は去る人間だから。

彼の傍には居られないから。

 

だから、桜花の小さな頭を胸に抱え込み、我儘な言葉の代わりにその耳元でもう一度囁く。

「……有難う」

 抱き締めていた華奢な身体がはっきりと震える。

 顔を上げようとする桜花を封じるように、ルイは抱き締める腕に力を込めた。

 

もし今、桜花の瞳を見てしまったら、この腕を解くことができなくなる。

しっかりと心に定めた筈の決意が、揺らいでしまう。

 

「僕の夢は…叶えられた。まだ、結果は出ていないけれど…僕にはこれで充分だ。いや、今まで桜花が僕にしてくれたことを考えれば、充分過ぎるぐらいだ」

 

 絶望に終わるだけだったルイの人生に思いがけず訪れた一ヶ月。桜花と出会ってからの一ヶ月。

 今まで生きてきた道筋を振り返っても、この短い一ヶ月ほど、生きていると実感できた日々はなかった。

 それは桜花という輝かしい存在と出会えたからこそ。

 もし、桜花に出会うことがなければ、自分は生きながら死んでいた。命が尽きる前から死の淵だけを見詰め続け、まだ拡がりを見せていた生を振り返ることさえしなかった。

 

 桜花が自分に与えてくれた全てに感謝の言葉を捧げる。

 

 しかし、秘めた想いだけはけして桜花に伝えることはしない。

 納得しているかどうかは分からないが、桜花はルイの腕の中で大人しくしている。

その壊れそうな細い身体。指に絡む絹糸のような髪。この命が尽きて、今確かにこの人に触れ、抱き締めている自分の腕が、身体が失われてしまっても、この感触だけは失わずに持っていきたいと願う。

 

 霧のように細かかった雨が、次第に本降りになってくる。その雨は勢いを失った炎を消していく。ルイたちの周りを除いて。

 ルイは自分に訪れている変化を明白に感じていた。

「僕は貴方がくれた一ヶ月の人生に何の悔いもない」

 そう言って抱き締めていた腕を解く。

「…本当に?」

 ルイは桜花を抱き締めていた腕を解くことができたこと、真っ直ぐに自分を見詰めてくるその瞳と向き合うことができたことに安堵する。穏やかな笑みを口元に浮かべる。

「今更嘘を言っても、何の意味もないだろう?本当に僕は満足している」

「…そうか」

 この言葉を聴いて、桜花はやっとその美しい顔に邪気のない笑みを浮かべる。そして、手にしていたルイのヴァイオリンを差し出す。

 ルイはそれに穏やかに微笑み返した。

 

 大丈夫だ。

 いつも通りの自分でいられる。

 桜花の花のような笑みに微かに胸が痛んだけれど。

 この甘い痛みも持っていこう。

 できうるなら、自分が触れることのできた咲桜花という存在全ての記憶も。

 

 …随分と欲張りだな。

 

「ルイ?」

 知らず、苦笑めいた笑みを浮かべたルイに、桜花は怪訝そうに問い掛ける。

 それにただ微笑むだけで応え、ルイは礼を言いながら、差し出されたヴァイオリンを受け取る。

「貴方に今までのお礼がしたいな。といっても、大したことはできないけれど」

「いいよ。礼なんか」

「お礼もさせてくれないなんて意地悪だぞ」

 わざと拗ねたような口調で言ったルイに、桜花は笑う。

「分かったよ。何をくれる?」

 ルイは返事の代わりに手にしたヴァイオリンを構える。

 桜花がその意図を悟り、微笑む。

「何がいい?」

「そうだな。ルイが好きな曲を」

「それじゃあ、僕がコンテストで弾いた曲でいいかい?桜花は聴いていないんだろう?」

「…悪い」

「謝らなくていいよ」

 ルイは微笑みながら、ヴァイオリンの調律をし直す。雨に濡れて、いい音が出せるかどうか不安だったが、何とかなりそうだ。

「桜花」

「何?」

「最後にもう一つ、頼みごとをしてもいいかな」

 目を伏せて、視線をヴァイオリンの弦に向けたまま、ルイが尋ねる。

「ああ、何?」

 桜花は迷いなく応える。

「カトレーヌに伝えて欲しい。有難う、と。今まで済まなかった、と。それから、その礼には足りないけれど、僕たちの屋敷と土地とをカトレーヌに残したい……本当に彼女には世話になったから、死んだ両親もきっと反対しないだろうと思うんだ」

 その旨は既に書き記して、寝室のベッドの枕下に忍ばせてある。それを彼女に渡して欲しい。

 そう、ルイは言った。

「…分かった。必ず渡す。お前の言葉も忘れず伝える」

「…有難う」

 心強い返事に、ルイはほっと息を吐き、調律し終えたヴァイオリンを構えた。

「今までのお礼に」

 一言の前置きの後、ルイは弓を弦の上に滑らせた。たった一人の、しかし、どんなに多くの観客よりも大事な人のために、手にした楽器を奏でる。

 音色は澄み渡り、雨音よりも深く、空に、森に、そして桜花の心に染み入る。

 ふいに、ルイのヴァイオリンの弦に火が付く。その火は降りしきる雨に勢いを衰えさせることなく、たちまちヴァイオリン全体を包み込んだ。

 しかし、燃え盛るヴァイオリンは変わらず、美しい音色を紡ぐ。

 炎はルイの腕にもその舌を伸ばし始める。

 それでもルイは弾くことを止めない。まるで熱さを感じていないかのように、穏やかな表情で炎に包まれていく腕を動かす。

 音は紡がれ続ける。

 その様を見ていながら、桜花は一歩も動かなかった。ただ、燃えていくルイの姿を見ないように、目を閉じた。

 弓を動かしながら、ルイは笑みを深くする。

 

 綺麗な桜花。

優しい桜花。

 

 僕は貴方の中に少しでも残ることができるだろうか?

 

 雨が激しくなる。

 しかし、ルイを包む炎は消えない。

 ルイの紡ぎ出す音も途切れることはなかった。

 やがて、雨が劇場を燃やしていた炎をことごとく消して、徐々に去っていく。

 それと共に、ヴァイオリンの音色も空気に溶けるように消えていった。

 

 桜花が閉じていた目を開けると、そこには黒く焼け焦げた跡を残す劇場の残骸の他には何もなかった。

 ルイも。ルイのヴァイオリンも。

 桜花は雲の合間から星が煌めき始めた空を見上げ、耳を澄ますように再び目を閉じる。

 濡れた髪や身体もそのままに、桜花は長い間その場に立ち尽くしていた。



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