永久の調べ
永久の調べ 20
今だ…!
ウルリックが外の様子を確かめようと扉を開け、完全に背を向けたのを見計らって、桜花は手足に絡み付く縄を振り捨てるように立ち上がる。そのまま乱闘になるのは覚悟の上で、拳を握り、閉じ込められていた倉庫から飛び出す。
「……!」
しかし、扉を出たところで桜花は立ち止まらざるを得なかった。
足元にウルリックが倒れている。
その身体の下からゆっくりと赤い染みが拡がり出していた。
顔を上げた先には血に染まったナイフを手にしたカトレーヌの姿があった。
桜花は言葉を失う。
ナイフを持ったカトレーヌの手が小刻みに震えている。
その顔色は自分が刺されたかのように血の気が引いて真っ青だ。
その足元に籠と幾つかの丸い果物が転がっている。
「カトレーヌ……」
桜花がやっと声を絞り出し、震えるカトレーヌの手に触れる。
その声の悲痛な響きと手に触れた暖かな感触に、カトレーヌは一度大きく震え、血に染まった果物ナイフを取り落とした。
「桜花様……」
彼の悲しげな眼差しに、彼女は自分のしてしまったことの大きさに気付かされる。
「申し訳…申し訳ございません…!!」
「カトレーヌ」
激しく取り乱すカトレーヌを抑えようと桜花はその肩を支える。
そんな彼に縋り付くようにしながら、カトレーヌは訴える。
「でも…でも……!どうしても許すことができなかったのです!!この方々はルイ様とその御家族のみならず、桜花様までをもその手に掛けようとなさった……!!最初はあまりの衝撃に呆然としていました……けれど次第に怒りがこみ上げてきて…我を忘れて…気が付いたら……!」
カトレーヌはささやかな土産物を持ってルイの控え室へと向かう途中、桜花がバーンスタイン兄弟に攫われるところを見てしまった。そうして、彼らの後を付いていき、倉庫の扉の外で彼らの話の全てを聞いてしまったのだ。
それでも、我を忘れたカトレーヌが手を掛けたのが、バーンスタインではなくウルリックであったのは、今までバーンスタインを信じていたが故に、彼を害することへの迷いが彼女の無意識のうちにあったからだろう。
「…ああ、私はなんて罪深いことを…!けれど、止められなかった……!!」
「…カトレーヌは俺を助けようとしたんだろう…?誰も…カトレーヌを責めることはできない……誰も……責められないんだ……」
取り乱すカトレーヌに桜花は呟くように言葉を紡ぐ。
その声音はやや虚ろな響きを持っていた。
「桜花様……」
カトレーヌが涙に濡れた瞳で桜花を見上げる。
一人物思いに沈んでいるように見える桜花の頬はいつもより一層白く、作り物めいて見えた。
誰も…責めることはできない。
カトレーヌも、ウルリックも…あのバーンスタインでさえも……
そのように考えてしまう自分は、やはり甘過ぎるだろうか。
そのとき。
地を揺るがすほど大きな重い衝撃音が響き渡った。
桜花は現実へと引き戻される。この衝撃に地下の廊下も大きく揺れ、彼はよろめいたカトレーヌを慌てて支えた。
「何だ……?」
暗雲が立ち込めるように不安が胸の中に拡がっていく。
「様子を見て来る。カトレーヌはここにいてくれ」
同じく不安そうな表情を見せるカトレーヌの肩を力付けるように軽く叩くと、桜花は駆け出した。
階段を駆け上がり、廊下へと出る。そこで、こちらへ駆けて来る人とぶつかった。
「一体何があった!あの大きな音は?」
「火事です!大きな音がしたと思ったら、控え室の方から凄まじい火が出てきて…もう何が何やら……とにかく貴方も逃げた方がいい。恐ろしく火の回りが速い……!」
問われた男はそれだけ言うと、慌てて出口の方へ駆けて行った。
控え室の方から火が…?
まさか……!
一瞬の間を置いて桜花は控え室へ向かって走り出した。
こちらへ逃げて来る人がだんだん増えてくる。
殺到する人々に阻まれて思うように進めない。それでも桜花は何とか人を掻き分けつつ進む。
火元に近付くに連れて、人の数は次第にまばらとなり、ついに桜花の目に控え室の並ぶ廊下の入口が見えた。
そこは……
もう既に火の海だった。
黒い煙が噴き出し、火の粉と共に炎の舌がちろちろと見えている。
桜花はその様に唇を噛み締めると、すぐに身を翻し、地下に待たせていたカトレーヌを劇場の外へと避難させた。
「桜花様!ルイ様が…!」
桜花に連れられて、無事に劇場の外へ逃れることのできたカトレーヌが悲痛に叫ぶ。
桜花は頷く。
劇場から逃れた人々の中にルイの姿がない。
「桜花様、何をなさるのです!桜花様!!」
「止めるんだ!劇場内はもう火の海だぞ!!」
呼び止める声に構わず、桜花は再び燃え盛る劇場内へと飛び込んだ。襲い掛かる熱風に思わず顔の前に腕を上げる。しかし、桜花は立ち止まらない。更に炎の激しいところへ向かって進む。
今や劇場全体が火に包まれていた。
この火の回りの速さは尋常ではない。
これは普通の火ではない。
おそらくただの水では消すことはできないだろう。
この炎は誰が起こしたものか。
桜花には思い当たる人物が一人いた。
「コウ!!」
降り掛かる火の粉を振り払うように、桜花は険しい声でその名を叫ぶ。
「それ程大きな声を出さずとも聞こえている」
自分のすぐ後ろで囁かれる笑みを含んだ声に、桜花は弾かれたように振り向き、一歩下がりながら相手へと向き直る。
突如として現れた金髪の青年は、そんな桜花の様子を唇に笑みを浮かべて眺める。
「そんなに怖い顔をするな。怒った顔も悪くはないが」
「余計な戯言はいい。応えろ。この火はあんたが起こしたものか?」
押し殺した声音で問う桜花に、コウは笑みを大きくする。
「そう思うか?」
「あんた以外の誰がいる?この火は明らかに能力の宿った火だ。ただの水では消せない。こんな火を起こせるのは、あんたとあんたの能力を何らかの形で得た者にしか……」
そこまで言った桜花は、鋭く息を呑み、言葉を途切れさせる。
「お前の読みは外れだな。この炎は私の起こしたものではない」
コウは目を伏せ、ゆったりとした動作で腕を組む。
言葉にして確認をせずとも、桜花には目の前の男がルイに何をしたのか、はっきりと分かった。
「ルイは何処だ」
桜花の声に宿る険しさが増す。
「さあ、おそらくこの劇場内の何処かに。しかし、例え見付けられたとしても、お前の呼び掛けに応えることはあるまい」
桜花は言い返そうと唇を開くが、言葉を発する前に口を噤む。唇を噛み、コウを睨んだ。次いで、これ以上話をしても時間の無駄だというように、青年に背を向けた。
「この状況はあの青年が望んだことだぞ」
しかし、コウの言葉が再び走り出そうとする桜花の足を止めさせた。
桜花は振り向いて、金髪の青年を睨む。
「そんな筈はない」
「そんな筈はない?何故、そう言い切れる?」
問い掛けるコウに、桜花は苛立たしげに応える。
「ルイの望みはコンテストに出ることだ。コンテストはまだ終わっていない。まだ結果が出ていないのに、この一ヶ月の努力が無駄になるようなこんな状況をルイが望む筈がない!」
向きになる桜花の様子を、コウは嘲るような、それでいて慈しむかのような笑みで眺める。
「あの青年の今の望みが本当にコンテストにでることのみだと思うか?」
「どういうことだ」
「あの夜に私は言っただろう、お前は既にあの青年の望みを一つ叶えたと。また、一つの望みが叶えば、新たな望みが生まれて来るとも。お前にはまだそれが分からないか?」
「……」
応えられずにいる桜花をコウは、今度は哀れむような笑みで見遣る。
「あの青年に命を与えた時点で、既にお前は夢を叶えたいという望みの根底にある、生きたいという青年の望みを叶えた。叶わない筈の望みが叶えられた。そして、病であったことが嘘のような生活を経験する。そうなれば自然、新たな望みが生まれて来る。もっと生きたい、再び新たな夢を抱き、叶えることができるよう、期限付きではない命が欲しい、と」
「…!!」
桜花は目を見開く。
「お前は叶わない筈の望みを叶えることによって、抱く筈のない余計な望みをあの青年に抱かせた訳だ」
コウの言葉を聞きながら、桜花は呆然とする。
そうだ。コウの言っていることは間違いではない。
少しでもルイの立場になって考えれば、容易に想像が付くことだ。
しかし、自分はそれに気付こうとしなかった。
…これが自分の勝手な思いでやったことに対する付けか。
コウは目の前の空間を凝視して黙り込む桜花に優しげな口調で語り掛ける。
「だから、お前は人の世界には馴染まないと言ったのだ。人の世界で生きるにはお前は純粋過ぎる。人が常に抱く負の感情、様々な欲望を真の意味で理解することができない。だからそれらに気付くのが遅過ぎるのだ」
桜花が目を上げる。目の前の空間から金髪の青年へと焦点を合わせる。
コウは桜花の澄んだ瞳の奥を見詰めながら、諭すように言葉を紡ぐ。
「しかし、お前は精一杯あの青年のために尽力して来た筈だ。むしろ、裏切ったのはあの青年の方。あの青年の従兄弟たちも…結局は負の感情や欲望に縛られた愚かな者たちに過ぎない。人間とはそういうものだぞ。お前がどんなに尽くしても、裏切らないという保証はない。いや、裏切ることの方が多いだろう。そんな人間たちにお前が力を尽くす程の価値があると思うか?」
桜花の薄い水色の瞳が揺らぐ。
そんな桜花にコウは手を差し伸べる。
「私と共に行こう。私ならばお前を決して裏切らない。私のところに来れば、お前はもう傷付くことはない。永遠に二人だけの時を過ごそう」
コウが手を伸ばす。
「おいで」
コウの手が桜花の白い手に触れた。
しかし、桜花はその手を振り払った。コウを真っ直ぐに見詰め返し、きっぱりと言い放つ。
「裏切るとか、裏切らないとかいう問題じゃない。俺はやりたいようにやっただけだ。この状況は俺が作り出したものでもある。だから…最後まで責任を持つ。決して諦めない」
手を振り払われたコウは、その美しい顔に初めて笑み以外の表情を浮かべた。不快そうに眉を顰めて桜花に問い質す。
「何故、私を拒否する?まだ人間に期待しているという訳か?ますます傷付くだけだというのに」
桜花はそれに応えず、今度こそコウに背を向け、走り出した。
走り出す寸前、
「…済まない」
微かに聞こえた詫びの言葉に、コウは僅かに目を瞠る。遠ざかっていく艶やかな銀の髪と細い背中を見詰めながら、コウは一人呟く。
「お前は甘過ぎる…」
人間に対しても、そして常は疎んでいる素振りを見せる自分に対しても。
そのくせ彼自身に対しては厳し過ぎるのだ。
そして…最後まであの青年の秘めた想いに気付くことはないのだろう。
「お前は変わらないな…昔も…今も……」
呟くコウの声には、いとおしむような甘さと正反対の苦さとが同居している。その声と同じ複雑な表情でコウは失われた名を呟いた。
…セイ……
その一瞬後には、空恐ろしいほどの美貌を持つ青年の姿は、その場から消え失せていた。
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