永久の調べ


   永久の調べ 19

 

演奏中は忘れていた不安が甦り、徐々に大きくなっていくのを感じながら、ルイは一人、自分にあてがわれた控え室の扉を開く。

 

「おかえり」

 

 初めて聞く低い男性の声。

 驚いて中を見ると、見たこともない青年が控え室にある椅子に座っていた。

 ルイは眉を顰める。

「…貴方は誰です?」

「なかなか良い演奏だった。お前にとっても悔いが残らぬ演奏だったのではないか?」

 青年は問いに応えず、豪奢な黄金(きん)の髪をゆったりと揺らしながら立ち上がる。

 背が高い。

こちらにゆっくりと近付いて来るにつれ、青年の周りを圧倒するような美貌が明らかとなる。桜花(おうか)の何処か儚さが漂う性別不詳の容貌とはまた別の美しさ。

しかし、その完璧さは何処かしら桜花の印象と重なる。

 

桜花の…知り合いか?

 

「桜花はもう帰って来ないぞ」

ふと、胸に浮かんだ疑問に応えるかのように、青年が唇の両端を笑みの形に僅かに吊り上げ、桜花の名を口にした。

ルイは青年が誰なのかということよりも、その口にした内容の方に打ちのめされる。

「そんな…そんな訳が……」

 動揺するルイの様子に、青年は瞳を細めて笑みを大きくする。人外を思わせる真紅の瞳。

「そんな約束を破るようなことをあれがする筈はないと?確かに常ならばそうだろう。しかし、忘れてはいないか?お前の命は今日、この時まで」

 青年はルイと桜花との間に交わされた約束、その事情まで知っているようであった。

 

 桜花が自分の最期を見届けることを拒否して、そのまま去ってしまうのではないか。

 

 青年の言葉はルイの抱いていた不安を鋭く刺し貫いた。

「桜花は去り、お前は一人残る。お前はここで死に、あれはこれからも生き続ける。あれは別にお前だから親身になり、懸命に接していた訳ではない。誰に対してもそうなのだ。あれはこれからも様々な人間と関わり続けるだろう。そして、その度に相手に親身になり、懸命に接することだろう。そういう奴だからな」

 

 その通りだ。

 そんなことは痛いほど分かっている。

 

 青年の言葉に頭が重く痛み始める。

 青年は更に言葉を続ける。

「あれがこれから生き続ける中で、誰かを愛するようになることもあるかもしれない。だがそれは…」

 青年は一旦言葉を切り、ルイの耳元で静かに、しかしはっきりと囁く。

「お前では、ない」

 突き付けられた言葉にルイは目を見開く。

 耳飾りに手をやりながら、懐かしげに瞳を細めていた桜花。婚約者ではないと桜花は笑ったが、彼にはあんな柔らかな表情をさせるほど大切な誰かがいる。

 例え、その誰かが桜花の想い人ではなかったとしても、いつか彼があのとき見た柔らかな表情で…いや、ルイが一度も見たことのない表情で誰かを想うときが来るのかもしれない……

 そんなことを考えるだけで胸が灼けそうになる。

 …そこにルイはいない。

 桜花の想う相手はルイではない。

 

 頭が重い。どうしようもなく。

 

 決着を付けた筈の想いが揺らぎ始める。

 そんな彼に青年は更に衝撃的な言葉を投げ掛ける。

 青年の声音は優雅で優しげでさえあるのに、それが紡ぐ言葉は何処までも残酷だった。

「お前は知っているか?桜花は偽りではなく、本物の命を与えることもできたということを……あれが何故、お前にそれを与えなかったか分かるか?」

一旦言葉を切った青年は、整った唇に浮かべた笑みもそのままに、静かに、しかしはっきりと次の言葉を発した。

「あれにとってお前はそれだけの価値がない存在だからだ」

 ルイは言葉を失う。

桜花の知り合いらしき青年の言葉を否定したくても、それだけの根拠がない。

頭の痛みが増す。

 そのとき、扉が叩かれる音がし、ゆっくりと開かれた。

 ルイはぼんやりと扉の方を見遣る。

「バーンスタイン…?」

 青年の言葉に捕らわれていたルイは、部屋の内へと入って来たバーンスタインの様子が常とは違うことに気付かなかった。

「やあ、リューイガルド。素晴らしい演奏だったようだね。いや、実は残念ながら君の演奏を聞き逃してしまってね。でも、素晴らしい演奏だったと確信しているよ」

「何の用です?」

 ルイには彼の存在がいつも以上に煩わしかった。

「大した用ではないんだ。すぐに終わるよ」

 バーンスタインは穏やかな笑みを浮かべ、近付いてくる。何故か、ルイの傍らにいる金髪の青年の方には見向きもしない。まるで、その姿が目に見えていないかのようだ。

 近付いて来るバーンスタインの笑みを浮かべた顔の中で、二つの瞳が異様にぎらついている。

 

 やっと気付いた直後、鈍い音がした。

 音がした方へと視線を落とす。

 まず目に見えたのは、鈍く光る刃の煌めき。

 それが鮮やかな赤に汚されていく。

 その赤は己のものだ。バーンスタインによって刺された腹部から、それは流れ出ていた。

 ゆっくりと痛みが拡がっていく。

 それは耐え切れないほどの痛みである筈なのに、麻痺したかのように、頭はその痛みを正しく理解することができない。

 力が抜ける。

 刺された腹を抑えたまま、ルイは知らず床に膝を折る。ぼんやりとしたまま、目の前の人物を見上げる。

 

 これは…誰だ……?

 

 歪んだ笑みを浮かべた顔。何処か狂気を秘めた瞳。

 

自分の望みを叶えるためになら、どんなことでもする。

どんな犠牲をも厭わない。

例え胸に抱く望みがどんなに狂ったものであろうとも。

 

ルイはその瞳が語る思いを読み取る。

 

 バーンスタイン…なのか……?

 

 …いや、違う。

 これは自分だ。

 コンテストに出たいがために偽りの命を望んだ自分。

 桜花に惹かれたが故に、もっと生き続けたいと願った自分。

 自分に振り向くことなく、去ってしまおうとする彼を………いっそ壊してしまいたいと思う自分……

 

 自分の昏い部分を突き付けられ、呆然とするルイの耳元で、金髪の青年が囁く。

「私にもお前に命を与えることができる。それもたった一時の命ではない永遠の命を……欲しいか?欲しいだろう、お前が今抱く望みを叶えるためには」

 囁き掛ける青年の言葉に意識が呑まれていく……

「私がお前に望みを叶えるための命と…能力(ちから)をやろう……」

しかし、ルイはぼんやりした頭で青年の言葉にはっきりと頷いていた。

目の前が赤く染まる。

 

 

 赤く…赤く…………

 

 

 何かが……内で弾けた。

 

 ルイを見下ろすバーンスタインの笑みを浮かべた顔が驚きに歪む。

 

 金髪の青年は一人、美しい唇に薄い笑みを浮かべた。



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