永久の調べ


   永久の調べ 18

 

おかしい。

 

一人控え室で順番を待ちながら、ルイは小さな不安に胸を掴まれていた。

カトレーヌを迎えに行って来ると言って、桜花(おうか)がこの部屋を出て行ってから随分と経つ。

しかし、桜花は今だ姿を見せず、カトレーヌも来ない。

 

何かあったのか。

それとも……

 

そのとき、扉が叩かれ、ルイはヴァイオリンを手にしたまま、勢い良く顔を上げる。

「はい」

 扉の向こうでルイの出番が来たことが告げられる。

 

 来た。

 

 その瞬間、胸に広がっていた様々な感情が消え失せた。

頭の中は真っ白となる。

 控え室を出て、導かれるまま廊下を過ぎ、舞台へと上がる。

 ルイはここで、一旦現実へ引き戻される。

 

 ついに、ここまでやって来た。

 

 彼が偽りの命を求めてまで望んだコンテストの舞台。

 ルイは静かに、大きく息を吸う。

 観客席のざわめき。

 あの多くの観客席の何処かにコンテストの審査員がいる。

 いや、例え審査員という立場になくても、コンテストの演奏を聴きに来た観客全てが審査員なのだ。

 静かに高まる緊張。しかし、それはすぐに再び白く塗り潰される。

 目に見える景色、耳が捉える音、全ての感覚、感情がその色彩なき色に呑み込まれ、ルイは無心となる。

 流れるような動作で弓を構える。

 弓がゆっくりと下ろされ、彼独特の旋律が生み出されて行く。

 客席のざわめきがぴたりと止んだ。

 観客が皆惹き込まれるように、その澄んだ音色に耳を傾けた。

 ルイはそんな客席の様子に気付くことなく、ただ無心にヴァイオリンを奏で続ける。彼は夢見るようでいて、何処か冴えている不思議な感覚に捉えられていた。その心地良さに身を委ねながら、彼は今まで自分が歩んできた人生に思いを馳せる。

 

 病を得てから、ひたすら自分の不幸を嘆き、死だけを望んでいた。が、思えば自分は随分と幸せな人生を歩んで来たのではなかったか。

 彼の胸を様々な人々の面影が過ぎる。

 父、母、カトレーヌ、多くの使用人たち。

 そして……

 桜花。

 彼と過ごしたのはたったの一ヶ月。しかし、彼の存在はルイの中で、両親やカトレーヌと同じ位大きなものとなっていた。

 彼に抱く想いが両親やカトレーヌに対するものと違っていることは、既に気付いていた。

また、この感情は友人に対するものとは違う。

ルイはやっと気付いた。いや、気付いていた。ただ、ルイ自身が気付かない振りをしていただけなのだ。

桜花ほど自分の心を捉えた人物はいない。

もしかしたらこれが初めての本当の想いなのかもしれない。

しかし、このことを桜花に告げることはできない。告げてはいけない。桜花のために。いや、何よりも自分のために。

 

演奏に没頭しながら、ルイは自らの気持ちを整理し、想いに決着を付けた。ふと、割れるような拍手に我に返る。

演奏はいつの間にか終わっていたらしい。

現実感を取り戻したルイは、客席の中に桜花とカトレーヌの姿を探す。

客席の端の方に、審査員の一人である劇場の支配人がいた。笑顔で手を叩いている。

ルイは更に奥の陰になっている方を見遣る。しかし、桜花とカトレーヌを見付けることはできなかった。



前へ 目次へ 次へ