永久の調べ
永久の調べ 17
「参ったな……」
桜花は暗闇の中で呟く。
しかし、その声にはそれほど切羽詰った響きはない。
彼は床に座ったまま、もぞもぞと身体を動かした。
その両手と両足は縛られている。
桜花はカトレーヌを迎えに控え室の扉を出た。そこで、バーンスタイン兄弟に二人掛かりで抑えられたのである。逃げられないこともなかったが、彼はあえて抵抗することを止めた。彼らと話がしたかったからだ。
それに、もうすぐルイの出番だ。
桜花を会場の地下の倉庫らしき所に閉じ込めた後、兄弟は出て行ったが、ルイはもう既に舞台の袖に居ることだろう。
今、彼らがルイに手出しすることはできない。きっとすぐに戻って来る。何よりも彼らの意識は今、桜花一人に集中している。
ルイよりも先に桜花に手を出してきたのがその証拠だ。
この状況は桜花の予想通りのものである。
いや、この状況に到るよう仕向けたのは、彼自身だと言っても良い。
以前あの兄弟と話をした時点で、どんな忠告をしようと、彼らがルイを狙うことを諦めないだろうと見越してはいた。しかし、それを許す訳にはいかない。
ルイの命はコンテスト終了までだ。
それまでルイの命を守るためには、兄弟の目をルイとは別のところへ向けさせることが必要だった。
そう、例えばルイのことを後回しにしてでも、彼らにとって放っておくことのできない危険な人物が現れれば、彼らの目をルイから逸らすことができる。
桜花はその危険人物の役を買って出ることにした。だからこそ、彼はバーンスタイン兄弟に対して、あえて挑戦的な態度を取ったのだ。彼らに自分を一番の危険人物と思わせるために……
その彼の目論見は今の段階で成功していると言える。
これでルイは誰にも邪魔されず、無事に演奏をこなすことができるだろう。
しかし、桜花には一つ、気になることがあった。
コウのことだ。
ルイと出会った最初の夜、あれほど思わせ振りな発言をしておきながら、コウは今だ、桜花たちに何も仕掛けてこない。
では、あの言葉は気紛れによる単なるからかいだったのか。
しかし、そうとも思えない。昨夜、一人で水浴びをしていた際にも、コウの視線は痛いほど感じていた。
が、彼はいつものようにこちらに話し掛けることもなく、姿を見せることさえしなかった。ただ、見ていただけ。
それだけに、桜花は今まで以上にコウの考えが読めなくなっていた。
僅かな焦りが胸にこみ上げてくる。
もし、コウが何かを仕掛けてくるとすれば、今日しかない。
あまりここに長居しない方がいいだろう。
桜花が後ろ手に縛られた縄を緩めようと動かしているとき、倉庫の扉の鍵が開く音がした。
静かに重い扉が開き、閉まる。
暗闇に慣れた目が自分に近付く人物の姿を捉えた。バーンスタインとウルリックだ。
ウルリックが手にした小さな灯りが、室内を淡く照らす。
彼らは桜花の予想通り、桜花をあまり待たせることなく、すぐに戻って来た。
桜花は彼らを見据えながら、彼らに悟られぬよう手を動かし続ける。それと一緒に口も開く。
「どうやら俺の忠告は受け入れてもらえなかったようだな」
こんな状況になっても、余裕を失うことのない桜花の口調に、バーンスタインは眉を顰める。
「僕たちは随分と待った。貴方一人のためにそれを止めることはできないのだよ。悪いが、貴方にはここで消えてもらう」
「そうまでして領主一族の財産が欲しいのか?」
「そうだ」
「既に落ちぶれている一族の僅かな財産を?」
桜花の鋭い問いにバーンスタインは口を噤む。
桜花はそれに構わず畳み掛けるように言葉を投げ掛ける。
「なあ、あんたたちが本当に欲しいものは一体何だ?富か?権力か?違うだろう」
そのどちらも現在の領主一族は持っていない筈。
その問い掛けにバーンスタインは笑う。片手で乱暴に桜花の細い顎を掴み、僅かな灯りのみの薄闇の中でも映える美しい顔を仰のかせる。覗き込んだ彼の澄んだ瞳に、端正な顔に何処か歪んだ笑みを浮かべた自分の姿が映る。その醜さに彼はますますその唇を歪めた。
「そうだな。その通りだ…全く大した医者だよ。こちらの考えまでお見通しだとはね」
「バーン……」
くっくっと咽喉を鳴らして笑う兄を不安げにウルリックが見遣る。
どうにか笑いを治めたバーンスタインが瞳を開く。
その灰色の瞳には昏い光が宿る。
「最期の手土産に貴方にだけは教えてあげよう。僕たちが…僕が欲しいのは富でも権力でもない。これは復讐だよ。領主一族…いや、愛すべき従弟、リューイガルドに対する…ね…」
どういうことだ。
そう返そうとしてもできない。
桜花の顎を掴むバーンスタインの手が更に強くなったからだ。
桜花は代わりに目だけで問うた。
「貴方は美しいな……おそらく、容姿だけではなく、その心まで。そして、リューイガルドに近い人種だ。真の意味で僕たちの心を知ることはできない………その所為もあったのかな、貴方をどうしても殺したくなったのは…」
桜花の瞳を見返すバーンスタインの瞳が次第に虚ろになってゆく。
「僕たちの母は欲深かった。地元の名士であった父と結婚し、贅沢の限りを尽くした生活をした。それでも足りずに、その美貌であらゆる富裕な男と関係を持ち、その金を湯水の如く使った。母の美貌の虜となっていた父は、そんな事実を知りもせず、母に尽くし、家の財産を食い潰した……そんな両親が僕たちを省みることなどある筈もなかった………家の金が底を尽きた後も母は贅沢な暮らしが忘れられず、僕たちを外へ働きに出した。父はそんな母に寄り添うだけ……両親がいる限り、僕たちに自由は…明日はなかった。だから……」
「殺したのか」
バーンスタインの手が緩まり、桜花はようやく口を開くことができた。
バーンスタインは頷く。
「飛鳥草の毒を使って…周りには病死と見せ掛けた。しかし、自由になったところで僕たちの苦しい生活は変わらなかった。そんなときだ。天涯孤独だと思っていた母に、妹がいたことを知ったのは。しかも、領主一族に嫁いだのだという。僕たちはこっそりその叔母に会いに行った。叔母は優しかった……僕たちを引き取っても良いとまで言ってくれた。しかし……彼らの生活は僕たちとは違い過ぎた。裕福で、互いに愛し愛され、幸せに暮らす家族……両親に慈しまれ、未来に希望を持って生きる従弟の姿は、僕たちを惨めにさせるだけだった……」
だから、優しい手を差し伸べる叔母から逃げた。しかし、その後も彼らの幸せそうな光景が瞼に焼き付いて離れない。次第に彼ら、特に従弟に対する妬みが生まれて来る。
血を分けた従兄弟同士であるのに、何故こうも違うのか。
しかも、彼は自分たちの存在さえ知らずに、幸せそうに微笑んでいるのだ。
バーンスタインたちは今、貧困に喘いでいる訳ではない。しかし、それまでに様々な苦労を強いられてきた。自ら汚いことに手を染めもした。
苦しい生活を強いられる中で、妬みは憎しみへと変わる。
バーンスタインは乾いた笑いを漏らす。
「考えてみれば可笑しな話さ。リューイガルドは何も知らない。本当なら彼には何の罪も無い。だが、それが、それこそが僕には何よりも許せないことだった。彼の周りにあるもの、これから手に入れようとするもの、その全てを奪ってしまいたかった。僕たちが味わった以上の苦しみを与えたかった……」
唐突に桜花の顎を掴む手が離れる。
「今日で、僕の願いは叶えられる。この憎しみは終わる。憎しみの元凶がこの世から消えるからな。その前に…貴方にも消えてもらう」
桜花は目の前の男を睨み上げる。
「ルイを殺しても、あんたの憎しみは消えない。強まるだけだ」
「何だと」
「何故ならあんたの憎しみの元凶はルイではないからだ。それはあんた自身の…」
言い掛けたところで頬を強く打たれる。
赤く染まった頬に、青銀の髪が煌めきながら振り掛かる。
「黙れ」
しかし、桜花は黙らなかった。頬に乱れ掛かる髪もそのままにきっぱりと言い放つ。
「あんたの憎しみの元凶はあんた自身の心の中にある。それをどうにかしなければ、ルイを消しても、あんたは救われない」
「黙れと言っている」
バーンスタインは桜花の胸倉を掴んで引き摺り上げる。
「僕は別に救われようなどとは思っていない。ただ、邪魔な存在が消えればいいだけだ。だから、貴方にも消えてもらう。そうだ……」
瞳に昏い光を宿したまま、バーンスタインは微笑む。
目を見開いたままのその微笑みは何処か狂気めいて見える。
「リューイガルドは貴方に惹かれているようだったね。それならば、一緒に殺してあげよう。愛しい人を道連れにできるならば、彼も寂しくないだろう……」
バーンスタインは投げ捨てるように桜花の身体を離す。そうして、常と同じ穏やかな表情をその面に貼り付けると、背後で兄の気迫に呑まれるように沈黙していたウルリックを見遣る。
「そろそろリューイガルドの演奏が終わる頃だろう。僕はこれから彼のところへ行く。お前は……この男を片付けろ。どんな方法でもいい。殺す前に何をしても、お前の自由だ。だが、確実に殺せ。失敗は許されない」
「分かった」
弟の返事を聞いたバーンスタインは、最後に床に横たわったままの桜花を見る。
桜花は強い目で見返した。
「一緒に殺してやろう。ただし、別々の場所でね」
一緒に殺してやろう。
ただし、別々の場所で。
ルイは桜花も道連れであるとは知らぬまま、殺されることになる。
それはつまり、ルイから桜花を奪うことでもある。
バーンスタインの言葉に桜花が僅かに目を瞠る。
それを見たバーンスタインは、穏やかな、しかし何処か狂気を秘めた笑みを浮かべて、扉から出て行った。
不味い。
バーンスタインは本気だ。
最早彼を止めることはできない。
ルイのところへ戻らなければ。
桜花は自分がルイにとってバーンスタインが言ったような大きな存在であるとは思えなかった。ただ、ルイの命が強制的に断ち切られることのみを案じた。
桜花は焦る。
両手を縛られた縄はもう解けている。
両足の縄も、あと少しで解ける筈だ。
そのことをウルリックに悟られぬよう、桜花は難儀さを装って、自らの身体を起こす。
そんな桜花にウルリックがゆっくり近付いて来る。
「悪いな。あんたに罪は無いが……俺にはもうバーンを止めることはできない」
ウルリックが桜花へと腕を伸ばす。
もう少しだ、もう少し……
桜花はもどかしさを堪えるように、唇を噛む。
「俺はバーンほど、リューイガルドを憎んじゃいない。バーンのように今までの人生にこだわって生き続けるのは御免だ。俺は愉しく生きられればそれでいいのさ。領主一族の財産が手に入れば、今より更に楽な生活ができる。そのためにあんたが邪魔だという点ではバーンと考えが一致しているが…な」
ウルリックの手が桜花のまだ赤味の引かぬ滑らかな頬に触れる。
桜花は無言で相手を睨み付ける。
「さて、どうするか。このまま首を締めて殺した方がいいか…しかし、すぐに殺してしまうには勿体無い……」
薄闇の中でも相手が自分の全身を舐めるように眺めているのが分かる。
ウルリックの茶色の瞳に好色そうな影が過ぎる。
その余裕振りから察するに、ウルリックは桜花の両手が自由になっていることに気付いていないようだ。
「殺す前にどうするかは俺の自由だとバーンは言っていたしな。すぐに殺してしまうのはあまりに無粋だもんな…」
そう呟きながら、ウルリックはすぐに殺してしまうことよりも無粋なことを仕掛けようと、桜花の頬に触れていた手を細い首筋へと移動させる。
「…綺麗だな。お前、本当に男か?…確かめてみるか」
その手がシャツの襟へと辿り着き、そこを手荒に掴む。
シャツを引き裂こうとその手に力が篭る。同時に、ウルリックの顔が近付いて来た。
今か……!
桜花が動き出そうと身構えたとき、突然倉庫の扉を叩くような重い音が響いた。
「何だ…?」
手を止めて、ウルリックが扉の方を見遣る。
この地下の倉庫は殆ど使われておらず、扉の前を行き来する者も少ない。
しかも、今はコンテストの真っ最中だ。
こんな時にここに用がある者はいない筈だ。
或いは兄が戻って来たのか。
ウルリックは立ち上がる。扉へと近付き、鍵を開け、注意深くその扉を細く開く。
「誰も…いない…?」
そう呟き、ウルリックはちらりと中の桜花を見遣り、彼が動かないのを確認すると、扉の外へと出た。その次の瞬間……
目を見開く。
「……!!」
一言も発することは叶わなかった。
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