永久の調べ


   永久の調べ 16

 

 劇場へと到着し、コンテスト参加者ごとに割り振られた控え室で、ルイがヴァイオリンの調律をしていると、扉をノックする音が響いた。

 扉を開いて現れたのは、このコンテストの審査員の一人でもある劇場の支配人であった。彼はルイの幼い時からの顔見知りでもある。支配人はルイに握手を求めながら、

「御領主殿自らがコンテストに参加なさるとは驚きでした。噂では御病気だとも聞いていたので。お元気になられたようで良かった。頑張って下さい」

と、にこやかに話し掛ける。

 ルイは差し出された手を取らなかった。

「このコンテストに参加することは僕の長年の夢でした。僕は自分の実力を試したいのです。どうか僕がこの町の領主だからといって特別扱いはなさらないで下さい。このような事前の挨拶も不要です。僕は領主としてではなく、リューイガルドという一人の人間として参加したのですから。審査もそのようになさって下さい」

穏やかではあるがきっぱりとした態度で言葉を返す。

 ルイの言葉に支配人は慌てて手を引っ込める。

「それは失礼致しました。そうですな、それはコンテストに参加する者にとっては尤もなこと」

 感じのいい笑顔を崩さず、支配人は続ける。

「では…お言葉通り、一人のヴァイオリニストとして、厳しく審査させて頂きます、リューイガルド殿」

「よろしくお願いします」

 そこで再び差し出された手をルイは初めて握った。

「失礼ながら、そちらのお方は…?」

 さっきから気になっていたのだろう、支配人はルイの後ろにいる桜花(おうか)へと目を向ける。

「ああ、こちらは…」

 ルイは一瞬どう説明したものかと迷う。

 と、桜花が自ら進み出て、自己紹介した。

「リューイガルドの友人の(さき)桜花と言います」

 桜花がこんな丁寧な言葉遣いをするのを聞いたのは初めてだ。

 しかし、そのことよりも彼の言葉に気を取られる。

 

友人……

 確かに、この場ではそう言っておいた方が一番無難だろう。

 しかし、桜花は本当に自分を友人だと思ってくれているのだろうか?

 

 こんな桜花の何気ない言葉一つが、ルイに淡い期待と、そんな訳はないという落胆、またそれらとは別の切なさを抱かせる。

 支配人が去った後、ルイに背を向けたまま、桜花が突然口を開いた。

「なあ、コンテストが終わるまで、俺は控え室から出ていた方がいいか?」

「え?」

 その言葉にルイは目を瞬く。

「ついここまで付いて来てしまったんだが、俺がここにいない方が、お前はコンテストに集中できるんじゃないのか?」

「桜花、一体何を言っているんだ」

 今にも出て行きそうな桜花の様子に驚いて、ルイは思わず彼の細い肩を掴む。

「さっき、騒がしいと言ったことを気にしているのかい?あれは冗談で……」

 そう言い掛けたルイは、途中で桜花が突然こんなことを言い出した理由に思い至り、口を噤む。

 桜花が気にしているのは、別のことだ。

 このコンテストが終われば、結果はどうであれ、ルイには死が訪れる。

 これは最初からの決まりごとであり、ルイ自身それを充分承知している。

 しかし、そのことを自分の勝手でしたことだと口では言いながら、桜花が一番気にしている。

 ルイの命を奪ってしまうことに罪悪感に近いものを抱いている……

 

 ああ、まただ。

 

 このような様子を見せるから自分は期待してしまうのだ。

 僅かな苛立ちが胸を波立たせる。

「桜花」

 桜花の両肩を掴んだまま、ルイは口を開く。

「貴方の申し出は僕には無責任な言いように思える。貴方は言っただろう?僕に命を与えたのは自分の勝手でやったことだと。自分の勝手を通すためにはある程度の責任が伴う筈だ。貴方には僕の命が終わるまで、最期まで見届ける責任がある。貴方の今の言葉はその責任を放棄する言葉にしか聞こえない。それとも、僕の命は貴方にとって責任を持つ必要のないほど軽いものなのかい?」

 胸に小さく喰い込む苛立ちに、つい言葉がきつくなり、桜花の肩を掴む手にも力がこもる。

 それを桜花はどう受け取ったのか、

「悪かった」

ただ静かに謝罪の言葉を口にした。

 その言葉にルイも我に返り、慌てて桜花の肩から手を引っ込める。そのまま、何となく気まずくなって黙り込んでしまう。

 

 扉の向こうから微かなざわめきが聞こえる。

 ついにコンテストが始まったようだ。

 ルイの出番は最後である。

ルイは重い気持ちを振り払うように最後の練習に没頭する。

 その様子を桜花は常と変わらない透明な眼差しで見詰める。

 

 ルイは桜花を無責任だと言って責めたが、果たして本当にそうなのか。

 桜花がルイの前で、真実、自分勝手で無責任な言動をしたことはない。

 本当に無責任なのは己の方なのではないか。

 彼から夢を果たせるほどの命を貰い、その夢に付き合わせ、最期の瞬間まで付き合わせようとしている。

彼と少しでも長く一緒に居たいというそれだけの理由で。

 

「もうカトレーヌが来てもいい頃じゃないか?」

自分の心の内に捕らわれていたルイは桜花の声で我に返る。絶えず動かしていた弓を持つ手を休めた。壁に掛けてある時計をちらりと見る。

知らぬ間に随分と時が経っていたようだ。

出番が近付いている。

「ああ、そうかもしれない」

「カトレーヌはお前の居る控え室を知らないだろう?俺が一寸劇場の入口まで行って見て来る。カトレーヌが居たら、ここまで連れて来るから」

 そう言って、桜花は控え室の扉へと向かう。扉を開いて、出て行こうとする前に振り向き、苦笑する。

「そんな顔するなよ。大丈夫。お前の演奏が始まる前までには戻って来る。逃げ出すなんて無責任なことはしないからさ」

 そう言葉を残し、桜花は控え室を出て行った。



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