永久の調べ


永久の調べ 13

 

 時は瞬く間に過ぎて行く。

 蝋燭の灯りを落とした真夜中の寝室で、ルイは眠れずに何度もベッドの上で寝返りを打った。

 夜が明ければ、遂に彼の待ち焦がれていたコンテスト当日となる。

 そこで、ひたすら練習に没頭していたルイの一ヶ月は終わる。そして彼自身の命も……

 命が惜しい訳ではない。

本当なら彼は一ヶ月も前に死んでいた筈なのだから。

それが一ヶ月も、彼の待ち望んでいたコンテストまで命を延ばして貰えた。それで充分だ。

 

そうである筈なのに……

 

ルイは理由の分からぬもどかしさを感じていた。

コンテストを控えて緊張している所為で、こんな不安を覚えるのだろう。

明日のために少しでも眠っておかなければならない。

そう自分に言い聞かせても、なかなか寝付くことができなかった。

青白い月の光を投げ掛ける窓の外へと目を向ける。

全てを優しい色に染め上げる月。

その美しさにルイはある人の面影を重ねていた。

 

静まり返った屋敷内で、微かに玄関の扉が開閉する音が聞こえた。

 

誰だ…?

 

ルイはベッドから降り、廊下へと出て行く。玄関へと続く螺旋階段の途中でルイは問題の人物と出くわした。

「…桜花(おうか)……」

 たった今まで自分の心を占めていた人物の姿を目にして、ルイは必要以上に動揺する。

 相手にもその動揺が伝わったのか、桜花は苦笑した。謝罪の言葉を口にする。

「起こしたか?悪い。明日は大事なコンテストなのにな」

「いや…僕もずっと眠れなかったから…」

 そう言って笑みを作ったルイに微笑み返し、桜花は戻ろうと彼を促す。

 自分の背を軽く押す桜花の手が、布地越しにも少し冷たいように感じられて、ルイは階段を引き返しながら尋ねる。

「桜花、こんな真夜中に何処へ?」

「ああ、一寸水浴びをしに行って来た」

「水浴び?」

 確かに桜花の銀の髪はしっとりと濡れてその背や肩を覆い、彼の細い身体の線を常よりもはっきりと浮き上がらせている。

 水浴びをするには遅い季節ではないかとルイは思ったが、それ以上は突っ込んで訊かないことにする。

「多分緊張しているんだろうな。だが、少しでも寝た方がいい。睡眠不足で失敗、なんて格好悪いからな」

 眠れないというルイにそんな風に応えながら、桜花は彼を寝室へと連れ戻し、ベッドに横たわらせ、上掛けまで掛けてやる。

 まるで、子供にするようなやり方に苦笑しつつも、ルイは大人しく従った。その代わりに、冗談めいた言葉を口にする。

「僕が失敗したら貴方の努力も無駄になってしまうしね」

 しかし、相手はその冗談に真面目に応えた。

「その通り。だから、妙な失敗はして欲しくないんだ。全力を出し切るよう頑張ってくれ」

「もちろんだ。僕だって無様な失敗は御免だからね」

 冗談のつもりで仕掛けた言葉に対する応えに、つい本気で応えてしまい、ルイは気まずげに口を噤む。

 その様子に桜花は柔らかく笑うと、枕元の椅子に腰を下ろした。

 すぐに部屋を出て行くものと思っていたルイは、目を丸くする。

「どうしたんだい?」

 思わず尋ねると、桜花は笑って応える。

「お前が眠るまで、ここにいる。不安なときは誰かが傍にいた方が眠り易いだろう?」

「僕は別に不安なんて…」

「いいから寝ろ」

 やや向きになったルイを宥めるように、ルイの胸を上掛けの上から軽く二三回叩き、桜花は暫く動かないことを示すように長い足を組み、更に腕も組む。

 その様子にルイは溜息をつく。

「全く…人を子供扱いして……」

 そう文句を呟きつつ、上掛けを引っ張り上げる。

これが最後の夜でなかったのなら、ルイは素直に桜花の優しさに包まれながら眠ることができただろう。しかし……

 

 どうしてそう優しいのだ。

 単なる患者の一人に過ぎない自分に。

 明日には死んでしまう自分に。

 もう二度と会えなくなる自分に……

 

 ルイは先程の理由の分からぬもどかしさが再びこみ上げてくるのを感じた。顔を上げて目の前に座る人物を見上げる。

 桜花はルイの邪魔にならないよう、腕を組んだまま、瞳を閉じていた。

ルイの視線に気付く様子はない。

しかし、ルイが声を掛ければすぐにその瞳は開かれて、彼の顔を覗き込むのだ。気遣わしげに、けれど押し付けがましくなく。

 髪と同じ青銀色の長い睫毛が、月の淡い光を反射して、微かに震えているように見えた。

 その様は胸が痛くなるほど美しい。

 

 明日でもう会えなくなる…

 

 月の光に輝き、陽の光に透ける青銀の髪、白い肌。清らかな泉の水よりも透き通った薄い水色の瞳。森に咲く可憐な花を思わせる繊細な美貌、華奢な肢体。

 その儚げな容貌とは裏腹な生き生きとした豊かな表情。それは年端も行かぬ子供のようで。しかし、その歳以上に大人びて見えるときもある。

花が開くような笑顔。陽の光を浴びて誇らしげに咲くように眩しく、時に月の光に照らされ仄かに輝くように優しく。爽やかな青空のように少年らしい悪戯っぽさを湛えた笑みを見せることもあった。

 微かにだけ触れることのできた頬の滑らかな感触。桜花の方から触れてきた細い手の心地良さ……

 今までルイ自身の目で、身体で感じることのできた桜花の全てが、明日、永遠に失われる。

 その痛み、喪失感。

ルイはここに到ってやっと彼の心を蝕むもどかしさを形作っているものの一部を見付けたような気がした。

 

自分は桜花と別れるのが寂しいのだ。

 

何時の間にか彼はルイにとって失いたくない人となっていたのだ。

それは、友人として…だろうか。いや、彼に対する自分の思いは友人に対するそれよりも強い気がする。

それでは何なのか?

……分からない。

分からないが、桜花と別れるのは身を切られるほど辛い。

 ルイは知らず唇を噛む。

 

 何故、こんなにも彼に惹かれてしまったのか。

いや、何故こんな出会い方しかできなかったのか。

 医者とその患者という立場でしかない出会い。予め終わりの定められた出会い。

どんなに桜花を想っても、自分には先がない。

医者と患者という立場も変わらない。自分は患者として、医者である桜花から期限付きの命を貰ったからだ。

それなのに、桜花はこんな優しさをくれる。無防備とも取れる無邪気さを見せる。おそらく桜花は誰に対してもそう接するのだろう。今まで出会ってきた、そしてこれから出会うであろう他の多くの患者に対しても……

自分だけが特別な訳ではない。

しかし、そう自分に言い聞かせても、こんな風に優しくされれば、期待してしまう。

もしかしたら、自分は桜花にとって少しは特別な存在なのではないかと……

そんな筈はないのに。

こんな自分に優しくしないで欲しかった。

 

しかし、ルイは桜花に部屋へ帰れと突き放すことができなかった。今まで感じたことのない胸の痛みに心を縛られながら、彼から視線を外すこともできない。彼の姿を瞳の奥に灼き付けるかのように、ただ見詰め続ける。

 

やがて桜花が目を開く。ルイが慌てて目を瞑ると、ルイの様子を見るように、身を屈めた。静かに寝息を立てているルイに、桜花は微笑むと、静かに立ち上がり、部屋を出て行った。

ルイは桜花の出て行った扉を凝視し、もどかしさと痛みが入り混じった想いを抱えたまま、コンテスト当日の朝を迎えることとなった。



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