聖なる水の神の国にて〜騒春〜


夢 2

 

 流星(りゅうせい)・ティーンカイルは学院の廊下を歩いていた。

 周りを包むのは静寂。

今は講義中である。

静かなのは当たり前だ。

 流星はいつものように、気紛れに講義を放棄して、構内をふらついていた。

 廊下に響く靴音とここにも引いてある水路が奏でる僅かな水音が、静寂を一層強める。

 そんな厳粛さと華麗さを兼ね備えた学院内の様子を何となく見遣り、流星は僅かに唇の両端を吊り上げる。

 何とも自分には不似合いな場所だと思ったからだ。

こうして、一人で静まり返った学院内を歩いていると、いつもそう思う。

 

 早くここを抜け出して街へ降りていこう。

 

 流星は足を少し速める。

 懐から街で手に入れた煙草を取り出す。

 何気なく取り出したそれを眺めた流星の唇が先程よりもやや緩む。

 脳裏に浮かぶのは生真面目に煙草の害を説く少女のように綺麗な顔だ。

 学院内では流星の喫煙に対して口を出すのは、学院の、或いは神殿の体裁を整えることに重きをおく教官たちの他には彼しかいなかった。

この煙草を吸うようになったのは一年前。

 それまでは、貴族御用達の高級煙草店で買ったものを何気なく吸っていた。

 それに対して件の少年は、煙草は身体に良くないと言いながら、今のこの煙草を勧めたのである。

 娼館が建ち並ぶ色街界隈の質素な煙草屋で売られているものだ。

 そこで購入した煙草を、どうしても喫煙を止めたくないというのなら、せめて人の役に立つ不健康を貫けと妙な理屈を付けながら流星に手渡した。

 そこが口煩いだけの教官たちとは違って面白かった。

 勧められた煙草は煙草屋が日々の生活のため、店の奥にある自宅の畑で自ら植物を栽培して一つずつ手作りで仕上げたもの。

高級煙草のように洗練されてはいないが、素朴な風味が気に入った。

店主の飾り気のない人柄にも好感を持った流星は、それ以来この煙草を愛用している。

だが、吸う煙草の量は以前よりも確実に減っていた。

 

 学院に馴染めないのは今も変わらない。

 しかし、何処にも居場所を見付けられなかった頃に比べれば、ここに居るのが遥かに楽になった。

 

 …呼吸(いき)ができる。

 

 それはきっと…

「あいつのお蔭なんだろうな…」

 呟いて、流星は我知らず笑みを深くする。

 

 本人には絶対に言わないけどな。

 

 煙草に燐寸で火を付けながら、何気なく視線を上げたところで、ふと、誰もいない筈の廊下に人影を見る。

 立ち止まり、その人影が誰かを確認した流星は、目を丸くする。

 流星とは逆に、こんな講義中に学院構内をふらつくにはどう見ても不似合いな人物だったからだ。

 風矢(ふうや)である。

彼とは昨日初めて会ったばかりだが、いかにも真面目そうで、講義をサボるような学生には見えなかった。

 その風矢が廊下を滑るように歩いている。

まるで幽霊が歩いているかのように音もなく。

 不審を感じた流星は、風矢を追い掛けた。

 火の付いた煙草を使用済み燐寸と共に、廊下の水路に投げ捨てようとして、止める。

 素早く身を屈めて流れる水で火を消すと、そのまま懐へと仕舞った。

 

 やれやれ、俺も随分と良心的になったもんだ。

 

 誰かさんに感化されたかなと、冗談交じりに呟きつつ、流星は風矢の後を追う。

 風矢は廊下を通り過ぎ、上へと続く階段を昇り始める。

そのとき、流星に風矢の横顔がちらりと見えた。

その瞳は虚ろだった。

 明らかに普通ではない。

 不気味なほど静かに風矢は階段を昇る。

身を隠すこともせず追って来る流星の姿に気付いた様子もない。

最上階までやってきて、階段が途切れると、風矢は再び廊下を歩き出す。

走っている訳でもないのに、恐ろしく歩くのが速い。

小走りにならなければ追いつけないほどだ。

廊下の突き当たりにある窓の前でついに風矢は立ち止まる。

窓は開いていた。

「…っおい!!

 次いで風矢が取った行動に、流星は驚きの声を上げ、慌てて飛び出した。

 突然窓から飛び降りようとした風矢の腕を掴んで止める。

 そのとき、初めて風矢が振り向いた。

その目は爛々と輝き、昏い色に満ちていた。

凄まじい顔に流星は息を呑む。

寒気がした。

 風矢は腕を掴んだ流星の手を物凄い力で振り払おうとする。

しかし、流星は手を離さなかった。

手を離せば、風矢は飛び降りる。

学院は三階建てだが、床から天井までの空間を広く取ってあるので、三階と雖もかなりの高さがある。

落ちれば掠り傷では済まない。

悪くすれば命も落としかねない。

流星が腕に力を込めると、ふいに糸が切れたように風矢が気を失った。

流星は崩れる身体を支えながら、瞳を閉じた風矢のまだ幼さの残る顔を覗き込む。

たった今自分を睨み付けた顔とはまるで違う。

この階にも教室があり、講義中の教官や学生たちがいたが、誰も今の騒ぎに気付いていない。

誰一人廊下に出てこなかった。

流星はとりあえず安堵の息を吐く。

しかし、すぐにその表情は引き締まり、彼は目の前の空間を睨み付けるように呟いた。

「ついにおでましか」



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