聖なる水の神の国にて〜騒春〜


   夢 1

 

風矢(ふうや)、神学院に入ることに決まったのだってね」

屋敷の廊下で兄の空羽(くうう)にそう声を掛けられた。

「あぁ、うん。多分神官になれってことだと思う。僕は空羽と違ってできが悪いからね。フローベル家を盛り立てていくことはできないと、父上は判断されたみたいだ」

「父上が直接そう仰ったのかい?」

「いや、そうじゃないけど…僕は空羽みたいに頭が良くないし、きっと国政に参加する実務能力もないと思うんだ」

「そんなことはないよ」

空羽は優しく微笑みながら、こちらの両肩に手を置いてゆっくりと諭すように言う。

「いいかい、風矢。学力が必ずしも政治力に繋がるとは限らないんだ。君には先入観に捕らわれず、自分の目でものごとを公平に見ることができるという長所がある。それはこの貴族社会においてはなかなか身に付けることができないものだよ。そして実際のところ、そういった詰まらないものに心を縛られない人間こそが、実務能力に優れているんだ。父上もそのことを分かっておられる筈だよ。だから自信を持って欲しい」

頭が良くて、優しい兄。

こんな非の打ち所のない兄を持つと、弟が捻くれてしまう場合があるが、風矢はそうならなかった。

兄は弟に何かある度に、こうやって優しい気遣いを示してくれる。

それを嬉しく感じると共に、少し申し訳なくも感じていた。

 

 微笑む兄の姿がぼやけてゆき、周囲の景色と共に闇に呑まれる。

 

 何だ、これは?

あぁ、僕は夢を見ているのか。

 

 ふいに目の前の闇に一人の人物が浮かび上がる。

兄ではない。

白っぽい長い金髪の持ち主である。

物憂げに椅子に腰掛け、こちらに横顔を見せている。

流星(りゅうせい)だ。

だが、その横顔の冷たさに違和感を覚える。

灰色の制服を身に纏っていた。

 

ここにいるのは、自分の知らない流星だ。

しかし、次第にその違和感は消え去り、これこそが自分の知っている流星の姿だと感じるようになる。

 

風矢は彼に話し掛けたかった。

しかし、彼の蒼い瞳は虚ろで、風矢のみならず学院内の誰の姿をも映していない。

彼の心はここにはないのだ。

そんな彼に話し掛けることはできなかった。

 

 流星の姿は闇に呑まれる。

そして、再び浮かび上がった。

再び現れた流星は白い制服を着ていた。

その顔には先程の冷たさはない。

それに、彼は一人ではなかった。

今まで丈高い彼の背に隠れて見えなかった黒い制服を身に纏った華奢な人物の姿が顕わになる。

その眩しいほどの美しさ…華王(かおう)だ。

二人は楽しそうに笑い合っている。

そんな二人を取り巻く空気は華やかで眩しくて、自分にはとても二人の間に入り込むことなど出来ない。

 

 流星の心を何の苦もなく一瞬で開かせた華王……

何故、そんなことができるのか?

自分にはどうやってもできなかったのに……

やはり華王も特別だからか?

特別な人間には特別な人間しか近付けないのか…?

自分には近付く資格さえなかったのか?

長い黒髪、透き通った灰色の瞳、花が綻ぶような笑み、細く優美な肢体。

華王の持つもの全てが完璧で美しい。

あらゆる才能にも恵まれて、自分には何一つ敵うものがない。

そんな華王の存在が疎ましい。

 

 突如として沸き起こる憎悪にも似た感情に風矢は戸惑う。

自分が華王のことをこんな風に思うなんてことはあり得ない。

 

 この記憶や感情は誰のものだ?

これは僕のものじゃない。

いや、僕のものだ。

僕は風矢じゃない。

僕は……

僕は………



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