聖なる水の神の国にて〜騒春〜


対決 2

 

 背後に今までにないほどの強烈な霊気を感じ、華王(かおう)ははっとする。

咄嗟に振り向くと同時に風矢(ふうや)に襲い掛かられ、首に手を掛けられた。

眼鏡が弾け飛ぶ。

風矢の様子を見て、華王はすぐ事情を悟る。

風矢の目は明らかに正気ではなく、霊の気配が風矢自身から感じられる。

覆い被さる風矢の身体を何とか引き剥がそうとするが、相手はびくともせず、尋常ではない力で華王の細い首を締め上げてくる。

派手に音を起てて、祭壇に置かれた祭具が倒れ、床に落ちた。

 やはり寮を出るのに手間取って、今やっと神殿の入口に辿り着いた流星(りゅうせい)が、その音を聞きつけた。

その音にただならぬものを感じ、流星は急いで神殿の中へと踏み込む。

神殿の中央で繰り広げられる異様な光景を見て、流星もすぐ事情を察する。

「っ…のやろう!」

右手に気を集中させる。

周りの空気が渦を巻きながら凝るように気が集まり、光を発する玉となる。

流星はそれを風矢に向かって投げ付けた。

投げ付けられた気の塊によって風矢の身体は弾き飛ばされ、壁に突き当たって止まる。

やっと風矢の腕から解放されて、華王は咳き込みながら肺に空気を送り込む。

「大丈夫か!」

「……あぁ…何とか」

駆け寄ってこちらの背をさする流星に息を整えながら応える。

そうして顔を上げた華王の表情が、瞬く間に険しくなる。

華王の視線の先を追った流星は、壁際でゆっくりと立ち上がる風矢の姿を見た。

「くそっ…」

再び右手に気を溜めようとする流星を突然、華王が腕を掴んで止める。

「待て!」

「っ…何を!」

流星が抗議する間にも、風矢はこちらに襲い掛かってくる。

華王はすかさず、床に落ちた祭具の中から銀製の壜を取り上げ、まだ中に残っていた聖水を相手にぶちまける。

顔に聖水を浴びた風矢は凄まじい悲鳴を上げ、顔を押さえて後退った。

 

風矢はふと我に返った。

顔が水に濡れている。

顔を押さえていた腕が下ろされ視界が開けると、目の前で華王と流星が初めて見る険しい表情で自分を見据えていた。

 

これはどうしたことだろう。

記憶が途切れている。

 

すると険しい表情のまま、華王が口を開いた。

「どうやら俺はまた読み違いをしていたらしい。あんたの標的についてだ」

風矢は口を開こうとした。

しかし、風矢の意志に反して唇は動こうともせず、一言も、呻き声さえ発することができなかった。

まるで自分の身体ではないようだ。

華王の言葉は続く。

「俺はあんたが狙っているのは風矢一人だけなのかと思っていた。だが、違ったんだな。あんたの標的は風矢だけじゃない、俺と流星とを含めた三人だった訳だ。そして、今になってもう一つ分かったことがある。どうしてあんたが今までこんなに上手く気配を隠し続けることができたのか…その理由だ。それはおそらく風矢の特殊能力に関係がある。風矢は霊や念をその身に呼び込み易い霊媒体質だったんだ。霊媒体質者の身体は場合によっては霊にとって最高の隠れ蓑になり得る。風矢のように修養を積んでいない者の身体なら尚更だ。身体の中に隠れてしまえば、その本体の気に紛れて気配を隠すことができる。そうだろう!」

 最初は訳のわからなかった風矢にも、ようやく話が見えてきた。

自分の身体が思い通りにならないのは、霊が自分の身体を支配しているからだ。

そして、華王の掛けた聖水が霊の支配力を弱め、風矢の意識を目覚めさせたのだ。

 

 …と、華王の厳しい追及に風矢の身体を乗っ取った霊が、くっくっ、と肩を揺らしながら笑い出す。

「…そう、その通り。いささか気付くのが遅過ぎたけどね」

風矢の口から発せられた声は風矢自身のものではなく、霊のものだ。

その声は少ししわがれていたが、風矢には聞き覚えがあった。

この声の持ち主に思い至った風矢は、心の中で目を見開く。

「まだ手遅れではないさ。とにかく話がしたい。その様子だと、あんたはおそらく生霊だろう。あんたが一体誰なのか、俺たちの一体何があんたの本体を苦しめたのか。俺たちを殺すつもりでも、それくらい教えてくれたっていいだろう」

華王の言葉に霊はわざとらしく目を丸くする。

「へぇ、君は意外にお人好しなんだね、問答無用に取り除くべき霊にそんなことを訊くなんて」

そう言った次の瞬間に霊は表情をがらりと変える。

火を噴きそうなほど激しい目で華王たちを睨み、押し殺した声で言い放つ。

「いいよ、教えてやろう。僕は空羽(くうう)・フローベル。風矢の兄さ。君たちは知らないだろうがね」

「何?」

流星が眉をひそめる。

 

 あぁ、やはり…!

 

風矢は激しい衝撃に見舞われる。

 

優しく穏やかな尊敬すべき兄が、自分たちを殺したいほど憎んでいたというのか…!

 

 霊は言い募る。

「何が僕を苦しめたか、だって?笑わせる。そうやってお前たちは気付きもしない。選ばれない人間を知らずに踏み付けていることにね。その痛みはお前たちには決して分からない。そう、僕を苦しめているのは「特別」であるお前たちの存在そのものだ…!」

「お前の弟は自分ではなく、お前のことを「特別」だと思っているぞ。優秀で素晴らしい兄だと言っていた!」

流星がそう言い返すと、空羽の霊は自嘲するかのように笑った。

「僕は「特別」な人間じゃない。学年首席の座も優しさも…風矢が褒め称える僕の全ては、努力して得たものだ。……僕はそれでもいいと思っていた。努力して得たものをこれから「本物」にすればいい。だが、僕は結局周りの評価を気にして、周りの期待に沿うよう上辺を取り繕っただけだった。周りには「特別」に見えたとしても、「本物」じゃない。僕が苦労して手に入れたもの、手に入れられなかったものさえも本当に特別な人間は、何の苦もなくその身に備えているんだ。風矢が持つ公平さもそうだ。妬ましかったよ……その特別さを見せつけられる度に、そして風矢が僕を純粋に慕えば慕うほどに、偽りの特別さを持つ自分が惨めになる…だが、惹かれてもいた。真に特別な人間と一緒に居れば、いつかは自分も本物になれるかもしれない…そう期待していた……」

そこまで言って、空羽は流星を睨む。

「その期待を打ち砕いたのがお前だよ、流星。お前は知らないだろうけど、一年前まで僕はずっとお前に話し掛けようとしていたんだよ……けれどお前は周りの人間を拒否した。どんな人間もお前の心の中に入ることはできなかった。特別な人間には近付けない……僕はお前に話し掛けることを諦めざるを得なかった。それでもお前がずっと周りの人間を拒否し続けるのなら、僕は諦めるだけで済んだかもしれない。だが……」

空羽の鋭い目が華王に向けられる。

「そこにお前が現れた。僕がいくら努力してもできなかったことを一瞬のうちに成し遂げて、その特別さを見せつけた。同時に特別な人間の傍に居られるのは、特別な人間だけであると僕に思い知らせた。その時だよ、僕の特別な人間に対する諦めが、憎悪へと変わったのは……そうさせたお前が一番憎らしいよ、華王……」

 華王は無言だった。

 

あぁ、あの夢はやはり兄の記憶であったのか…!

 

風矢の心を再び衝撃が襲う。

空羽はそんな風矢の身体を操って、華王たちに攻撃を加えようとする。

彼が右腕を上げると、床に落ちていた祭具が宙に浮かび、上げた腕が振り下ろされると同時に、様々な祭具が凶器となって凄まじい勢いで華王たちを襲う。

 どうにかその攻撃をかわしつつ、反撃しようとする流星を再び華王が止めた。

「駄目だ、攻撃するな!」

流星は目を剥いて怒鳴る。

「何でだよ!このままじゃこっちがやられちまう!」

「風矢と霊とが同化した今の状態で攻撃を加えれば、霊ではなく風矢の精神が傷つく恐れがある。だから今は駄目だ。もう少し待ってくれ。その時になったら合図する」

そう言った華王の肩に再び襲ってきた祭具がぶち当たる。

「風矢の心配をする前に自分の心配をした方がいいんじゃないのかい?」

笑う空羽の言葉を無視し、肩の痛みに細い眉をしかめながらも、華王は毅然として言った。

「聴こえるか、風矢!聴こえるなら俺の言葉をよく聞いてくれ。いいか、霊に惑わされるな!霊の語ったことが空羽の気持ちの全てではないんだ!」

絶望して霊の意識の中に飲み込まれかけていた風矢ははっとする。

「確かに空羽の心の中には俺たちに対する妬みや憎しみに近い感情もあっただろう。だが、そういった負の感情は人間ならば誰でも持っているものだ。逆に負の感情だけを持った人間はいない。その霊は空羽の持っていた負の感情だけが、増幅されて生まれたものに過ぎない。そう考えればそいつは空羽じゃないし、空羽の一部でさえない。わかるか!その霊は空羽じゃないんだ!」

華王の言葉に風矢の心が揺れる。

「うるさいね。もう静かになってもらおう」

霊がそう言うと、神殿の壁の上方に嵌め込まれた色硝子が派手な音を起てて割れ、その破片が空中で静止する。

「まずい!」

流星が息を呑む。

それに構わず、華王は更に風矢の心に揺さぶりを掛ける。

「お前の兄は尊敬に値する素晴らしい人間なんだろう!だったらその兄を信じろ!兄の名を騙る霊を追い出すんだ!」

そう華王が叫んだ瞬間、空中で静止していた硝子の破片が、重力に任せて下へと落ちる。

と同時に華王が流星へと振り向いた。

「今だ、流星!」

「おうよ!」

流星は今度こそ遠慮なく気の塊を霊に投げ付けた。

その衝撃に堪らず霊は風矢の身体から弾き出され、強烈な浄化の気に触れて、逃げることも出来ないままその場で霧散した。

 

 それを見届けた華王は、ゆっくりと風矢に近付く。

風矢は地べたに座り込んで、下を向いている。

華王はそんな風矢の目の前にしゃがみ込み、その肩に手を置いた。

そのまま黙っていると、下を向いたままの風矢が口を開く。

「今まで僕は、兄はいつでも完璧で、妬まれこそすれ、妬むなんてことをする筈がないと思っていました。もしかしたら僕は兄のことを分かっているつもりで、実はただ自分の理想像を兄に押し付けていただけなのかもしれません。兄には却ってそれが重荷になっていたのかもしれない…」

そう言って顔を上げ、華王と視線を合わせる。

「それで、お前の兄に対する評価は変わった?」

そう訊いた華王に、首を振って答える。

「いいえ、今も兄に対する気持ちは変わりません。僕にとっては尊敬できる自慢の兄です。…ただ…兄も完璧なのではない。だからこそ、自分にないものを僕の中に見て、憧れを持っていたのかもしれない…僕と同じように。自分にないものに憧れる…考えてみれば人はそんなものかもしれませんね。でも何だか、今までよりも兄が身近に感じられる……これからはもっと本当の兄のことを知りたいと思います」

 一旦言葉を切った風矢は小さな言葉で付け加えた。

「それから……ただ自分自身を卑下するだけでいることは止めようと思います」

 

 少なくとも自分は兄が羨ましいと憧れてくれるものを持っていると分かったから……

 

その答えに華王は柔らかく微笑む。

それから神殿の入口の方を見て、今度は悪戯っぽく笑った。

「どうやら神官たちもこの騒ぎにやっと気付いたらしい。」

 もう夜明け近くになろうとしていた。



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