聖なる水の神の国にて〜騒春〜


   対決 1

 

 軽く扉を叩く音がした。

眠っている者を起こさない程度の小さな音だ。

既に夜着から制服に着替えていた風矢(ふうや)は、隣の寝台で眠る(りょう)が起きないよう、静かに寝台から下りる。

音をなるべく起てないように、扉を少し開け、滑るように廊下へと出た。

「よう」

迎えに来ていたのは、華王(かおう)だった。

流星(りゅうせい)が今度こそ俺が迎えに行けってさ」

そう言って歩き出す華王より一歩遅れて、風矢も歩き出す。

一言も話さず寮を出て、神殿へと向かう森の小道に入る。

そこでやっと、華王が口を開いた。

「昔は神殿の入口に番人を置いて、人の出入りを厳しく監視してたらしいが、今はそんなことはない。こんな森の奥まった所にある神殿に盗みに入る奴もいないだろうし、盗まれて困るようなものも、今はないからだろうな。だから、学生が入ったところで何かが起きる訳ではないし、見付からなければそのままだ。学生の出入りを禁じるってのは、まあ、慣習的なものだろう」

「…そうですか」

覚悟を決めてはいたものの、やはり、禁じられた場所へ足を踏み入れるのは勇気がいる。

そんな緊張を感じ取ったのだろう華王のことさら軽い物言いに、風矢は少し気持ちが落ち着いた。

 そういえば、華王と二人きりというのは初めてだ。

流星が気を利かせたということだろうか。

風矢は並んで歩く華王の様子をそっと見る。

華王は十六歳という年齢にしては小柄で、同い年の少年たちと比べて成長が遅い風矢よりも、やや背が低い。

こうして近くで見ると一層華奢で、このような人に頼ろうとする自分が恥かしくなってくるほどだ。

森の木々が作る闇の中で、白い美貌と制服を纏った細い身体が一層際立つ。

首の後ろで緩く束ねられた長い黒髪が、歩みに合わせて微かに揺れ、木々の合間から零れる月の光を受けて仄かに輝き、独特の艶を孕む。

月の光の下で見る華王は、()の光の下で見るのとはまた違う。

明るい陽射しの中での眩しいまでの神々しさが、夜の闇の中では内に秘められ、神秘的な雰囲気を醸し出す。

 先程とは種類の違う緊張感が、再び風矢を襲う。

風矢はそれを隣の華王に悟られまいとして、何気ない風を装って口を開く。

「流星さんはどうしたんですか?」

「先に神殿で待ってると思うが。だが、奴は無断外出の常習犯だからな。たいてい部屋の外に監視がいるんだ。だから、寮を出るのに手間取って、俺たちより遅れてくるかもしれない」

華王は風矢の内心の動揺に気付かず、生真面目にその問いに答える。

この人はどうやら周りの人間が自分に対して抱く感情、特に好意から生まれるものに関しては疎いらしい。

今も、

「何だ?やっぱり流星と一緒の方が良かったか?」

などと、訊いてくる。

とすると、普段の学院での超然とした態度は、学生たちの視線を無視しているのではなく、気付いていないからこそのものだという可能性が高い。

「別にそういう意味で訊いたんじゃありませんよ」

そう言って、風矢は溜息をつく。

この人は誰もが惹かれる自分の美しさを全く分かっていないのだろうか?

つい遠巻きにしてしまう自分たちも悪いのだろうが…

華王を好きになる人は大変だ。

 

 森の木々が切れて、目の前に大きな神殿が現れる。

夜の闇を背負って、いつもより一層威圧感を与える神殿の様子に風矢は息を呑む。

僅かな風に揺れる木々のざわめきの合間から聞こえるのは、神殿を囲む水路に設えられた噴水の音だ。

闇に響くささやかな水音の合間から何物かの囁きが紛れて聞こえるような気がして、風矢は思わず身震いする。

しかし、華王は気にせずどんどん歩いて行き、神殿周りに結界のように張り巡らされた幅狭い水路を制服の裾をたくし上げつつ無遠慮に跨いで、こちらを振り向く。

「大丈夫だから、早く来い」

「え…」

 風矢は躊躇する。

 常の神殿の出入りにおいて、いくら幅狭いとは言っても、水路を跨いで入ることは禁じられている。

水路の数ヶ所に渡された橋を渡り、そこに設えられた噴水が形作る「清めの門」を潜らなければならない。

風矢は暫し躊躇い、遠回りではあるがやはり、「清めの門」を潜って神殿の入口へ向かう華王の後を追った。

中へ入ると、流星はまだ来ておらず、中央に華王のしつらえたらしい祭壇があり、その前に跪く華王の背中が見えた。

「少し待つか」

祭具を整えながら、肩越しに振り向いてそう言った華王に頷き、再び前を向いた華王の後ろに風矢は何気なく近付く。

神殿内はがらんとしていて、多くの学院生や献花に飾られた式典での神殿しか知らない風矢にとっては、今目にする神殿は一層広く、寂しく見えた。

正面の壁に聖水神を表した紋様が、浮き彫りされている。

黙ったままでいるのも落ち着かないので、華王の華奢な背中とそこに振り掛かる綺麗な黒髪を見詰めながら、口を開く。

「あのぅ、流星さんとはいつ頃から親しくなさっているんですか?」

その質問に、華王がこちらに背を向けたまま、笑みを含んだ声で答える。

「そんなに親しくしてる訳じゃないが。一年位前からかな。向こうから話し掛けてきて、それから何となく…」

 

 一年前…

 

夢で見た黒い制服の華王の姿が再び風矢の頭を過ぎる。

胸の中に何か引っ掛かるものを感じる。

あの夢は本当のことなのだろうか。

まるで、自分ではない誰かの目を通して見たかのような夢だった。

 

だとしたら、一体誰の…?

 

 そう考えたとき、突如として胸につかえていたものが咽喉にこみ上げ、息が詰まる。

いけないと思った瞬間には、もう頭の中が真っ白になっていた。



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