聖なる水の神の国にて〜騒春〜
中庭の麗人 2
講義が始まって、中庭は今までより一層静かになった。
華王は明るい色の髪を持った少年が消えた廊下の曲がり角をしばし見詰めていたが、視線を再び書物の上に戻した。
しかし、内容が全く頭の中に入ってこない。
華王は溜息をついて書物を閉じ、眼鏡を外す。
柔らかな風に舞いながら額に落ち掛かる長めの前髪を掻き揚げる。
そうして顔を上げると、よく見知った人物がこちらにやって来るのが目に入った。
相手もこちらの視線を捕らえ、陽気に手を上げながら近付いて来る。
「よぉ、珍しいな。サボりか?」
「この時限は休講なんだよ。お前と一緒にするな」
華王は眼鏡を掛け直しながら、優美な外見に相応しい綺麗な声には似合わぬ乱暴な口調で、相手の問いに応える。
しかし、相手はそんな口調に慣れているのか、驚きもしない。
「おやおや、学院一の優等生で皆の憧れの的である華王サマがそんな乱暴な口を利いちゃって」
と、おどける余裕もある。
流星・ティーンカイル。
常に華王を遠巻きにして、親しく話し掛けることのない学生たちの中で、唯一華王に声を掛けてくる人物である。
ロゼリア王国の侯爵家の子弟であるが、「素行」が悪く、しばしば講義を放棄しては、学院を抜け出して街の娼館で遊んで帰って来る不良学生だ。
一、二度外出が露見し、留年という厳しい処置まで受けたのだが、本人には反省の色なしである。
以前ほどではないが、娼館通いも続いている。
白い制服の詰襟をだらしなく緩めたまま、長い髪を纏めもせず学院内を闊歩する姿に、教官たちのみならず、一部の学生たちも眉を顰める。
学院側もいっそのこと退学にしたいのだろうが、名家の子弟である故にそれができず、しぶしぶ在学を認めているようである。
そんな学院一の問題生徒が学院一の優等生とある事件をきっかけとして知り合ったのは一年前。
華王も流星も違う意味においてではあるが、学院の中で特に親しい者もいない孤立した存在であったことに加え、どちらも相手に対する周りの評価を気にせず、意外にも他の学生よりは気が合った。
それ以来、二人は他の学生よりは親密な付き合いを続けている。
流星は目の上に掛かる薄い金色の髪を掻き揚げながら、華王の隣に腰掛ける。
「休講だって?他の奴らはどうしてんだよ」
「次の時限は数学の小試験だからな。中で勉強しているんだろう。俺は外の方が落ち着くんで出てきたんだ」
「ふぅん」
流星は華王の膝の上に置かれている書物の表紙を覗き込む。
しかし、それは数学の参考書ではない。
「はぁ〜、相変らず余裕だなぁ、学院一の優等生は」
「何だ、嫌味か?」
「違う違う、感心してるんだよ、純粋にさ。そうだ、勉強する必要がないなら今、暇だろ。俺これから出掛けるんだけど、付き合えよ」
「嫌だ。お前の行くところには行きたくない」
「あ、冷たいなぁ」
流星の誘いを一刀両断に切り捨てて、華王は再び書物を開く。
「何?何かあったの?」
突然そう尋ねられ、華王は目を瞬く。
「何故?」
「会話の歯切れが悪い。いつもなら、遊んでる暇があったら二度と留年しないよう勉強しろ、とかなんとか言うくせに」
流星の鋭い指摘に華王は苦笑する。
こちらを覗き込んでくる蒼い瞳と眼鏡越しに視線を合わせた。
「ちょっと頼まれてくれないか?」
自分に負けず劣らず唐突な言葉に、流星はいかにも女性受けしそうな端正な顔を顰める。
「何だよ、厄介事か?面倒なことはごめんだぞ」
「気になることがあるんだ。俺がやってもいいんだろうが…お前の方が適任のような気がする」
そこまで言って華王は、不思議なほどに澄んだ灰色の瞳を少し細め、薄紅色の唇の両端を少し引き上げて、曖昧な美しい笑みを作る。
「まぁ、嫌なら嫌で構わない。ただし、これからは一人で試験勉強をしてもらうことになるだろうが」
「お前、本当に性格悪いな」
試験前には常に華王のお世話になっている流星としては断れない。
「分かったよ。分かったからその頼みごととやらを早く言え」
しぶしぶそう言う流星に、華王は脅迫めいた言葉とは裏腹な天使のような笑みを再びその顔に浮かべた。
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