聖なる水の神の国にて〜騒春〜


   中庭の麗人 

 

 春である。

天から柔らかい陽射しが降り注ぎ、森の木々の合間を縫って、幾筋もの光を地上へと投げ掛けている。

しんと静まりかえった森の中に聴こえるのは鳥の囀りのみである。

そんな森の様子を石造りの重厚な雰囲気を漂わせた学院の廊下の窓からぼんやりと眺めていた風矢(ふうや)・フローベルは、急に肩を叩かれて我に返った。

肩を叩いたのは(りょう)・グランだった。どうやらずっと風矢の名を呼んでいたものらしい。

「なにぼんやりしてるんだよ、風矢。さっさとしないと次の講義が始まるぜ」

「あぁ、ごめん。今行くよ」

そう応えつつ、風矢は小脇に抱えていた教科書や辞書類を抱え直して、促す涼の後を付いて行くように再び歩き始める。

 石造りの学院内は窓外の森とそう変わらない静けさに包まれていた。

鳥の囀りのかわりに聴こえるのは、学院生である少年たちのざわめき。

しかし、それらも石の壁に吸い込まれ消えていく。

歩きながら風矢は再び、窓外へと目を遣る。

 

風矢がこの学院に入学してから一ヶ月経った。

学院はロゼリア王国の東北にある深い森の中にある。

森を抜けた東北の国境近くは、草木も生えぬ荒野だ。

その荒野には強い邪気が存在し、それがこの土地を荒れ果てたまま生き物を拒み続ける場所と成さしめている。

その昔、この国を訪れた災いにより、この一帯は焼き尽くされたという。

神殿に伝わる聖典は、その因をロゼリア国が崇める聖水神(せいすいしん)と対をなす聖火神(せいかしん)の怒りを国民が買ったため、と記している。

これはロゼリア国に生まれ育ったものであるなら誰でも知っている逸話だ。

遠い昔の話。

半ば伝説と化したその逸話の真偽は最早定かではない。

しかし、そこに邪気があるのは紛れもない事実。

だからこそ、その邪気が国中に拡がることを防ぐため、森の中心に聖水神の神殿が築かれたのだ。

以来、この森は神官たちの本拠地となった。

そして、ロゼリア王国内で神殿の力が最も強かった頃、神殿の隣に神官を目指す者たちの学び舎として神学院が設立された。

学院では神学のみならず、哲学、数学、薬学などあらゆる方面の学問を学ぶことができる。

更にここは全寮制で、学生たちは通常三年間、長期休暇で家に戻る以外は外出も制限されて、勉学に邁進するよう仕向けられる。

そんな学生のほとんどは、貴族の子弟で占められる。

大神官長が国王をも凌ぐほどの権力を持っていた時代には、学院を卒業した者はほとんど神官となった。

しかし、神殿がかつての勢いを失った現在では、卒業者の半分ほどが神官となり、あとの半分は家に戻り、直接国政に参加するようになっている。

そのため、現在でも国政に対してある程度の発言権を持つ大神官を除いて、神官となる者たちは国政に参加する実務能力のない者ばかりとなってしまった。

今や神殿はできそこないの貴族子弟たちの集まりだ。

しかし、この学院が今でも国内で屈指の学問教育を行っているのは事実であり、この学院で学ぶことは、貴族にとってたいへん重要なこととされている。

この貴族の子弟のための学院という伝統的な認識が、現在の学院の、ひいては神殿の権威を辛うじて保つ助けとなっている。

貴族以外の子も通えるよう、奨学金制度も整えられてはいるが、やはり庶民にとっては敷居が高い。

それ故、学院に通う平民の子や他国からの留学生は、学院設立から現在に到るまで、数えるほどしかいない。

 

風矢も例に漏れず、貴族である。

自分はおそらく神官にさせられるのだろうと風矢は思う。

昨年、学院を主席で卒業した優秀な兄と比べ、はるかにできが悪いと伯爵である父に言われていたし、自分でもそう感じていたのである。

だから、学院に入学するよう父に言われたとき、自分は兄と違う道を歩むことになるのだと漠然と察した。

まぁそれもいいか、と風矢は考える。

出来れば尊敬する兄のそばで、家を継いで国政に参加するであろう兄を支えたいとも考えていたけれど。

しかし、能力のない者が支えたところで何の意味もないし、かえって兄の負担となるだけだろう。

 

中庭を囲む渡り廊下へと出た。

この渡り廊下の向こう側に風矢たちの目指す教室がある。

と、風矢は急に息苦しさを感じ、制服の黒い長衣の詰襟を緩めた。

しかし、それも初めてのものではない。

実は入学してからこの一ヶ月、体調があまり良くないのだ。

時々こうした息苦しさに襲われる。

最初は新しい環境に慣れていないからかと思った。

学院付きの薬師(くすし)にもそう言われた。

しかし、それにしても期間が長いような気がする。

自分はそんなに繊細だっただろうかと思いつつ顔を上げると、前を歩いていた涼が中庭を見て立ち止まった。

「見ろよ、風矢。華王(かおう)様だぜ」

涼の言葉に風矢は急いで中庭に目を向ける。

 

ロゼリア王国が国をあげて崇めている聖水神は、その名の示す通り水の神である。

そのため、神殿と同様、この神学院内にもあらゆる場所に小さな水路が張り巡らされ、清らかな水を湛えている。

この中庭にも中央に噴水があり、優雅に水を噴き上げて、飛沫を光に煌めかせながら、水盤に注がせている。

その縁に学院中の憧れの人物が座っていた。

白い小さな顔を俯けて、膝の上に置かれた書物に目を落としている。

女性とそう変わらないほど華奢な身体つき。

その身に最上級生の証である白い長衣を纏っている。

細い首の後ろで軽く束ねられた癖のない漆黒の髪が、白い制服の肩や背中に降り掛かり、春の柔らかい陽射しを浴びて艶やかに輝く。

束ねられるほどの長さのない髪が白い頬に降り掛かり、その細い髪の合間から繊細な造りの横顔が透けて見える。

僅かに伏せられた黒い睫毛が、くっきりと光に映えて美しい。

そんな様子を風矢や涼を含めた中庭に居る者全てがうっとりと見詰める。

しかし、当人は自分に向けられる視線を気にもせず、書物に目を落としたまま顔を上げようともしない。

華王・アルジェイン。

この学院の歴史上、数えるほどしかいないと言われた他国からの留学生である。

昨年、若干十五歳で学院に主席で入学し、その後も全ての科目で優秀な成績を修め、僅か一年で飛び級をして最上級生になったという。

特に神学、薬学に関する知識は教官たちをも凌ぐほどだという噂だ。

貴族の特権意識からか、通常身分や国籍の違う学生に対する他の学生たちの反応は冷たいものになりがちである。

しかし、華王に対してはそうならなかった。

それはひとえに彼の才能と容姿によるところが大きい。

これほどの注目を集めているにも関わらず、何故か彼は公の式典のみならず、学生主催の式典でも中心になることがなく、いつも目立たぬ最後列にいる。

しかし、多くの少年たちの中に一人少女が混じっているかのような姿は、どんな場所にあっても人々の注目を集めて、今や学院一の有名人である。

「やっぱり、綺麗だよなぁ」

隣で溜息をつく涼に頷きながら、風矢は先程の息苦しさも忘れて、華王を見詰める。

 この人には美しさだけではなく、犯し難い気品のようなものも備わっている。

この国を守護しているという聖水神は、清らかで美しい性別のない神であるという。

偶像崇拝は禁じられているため、具体的な姿を知ることはできないが、聖水神はきっと華王のような美しさを持った神であるに違いない。

華王を見詰めながら、風矢はそう考えた。

 

 始業を告げる鐘が、静かに鳴り響く。

中庭の麗人に見入っていた学生たちは、現実に引き戻され、次々と自分の教室へ向かう。

風矢も慌てて、涼と共に急ぎ足で教室へと続く渡り廊下を渡った。

彼は気付かなかった、今まで視線を書物の上から逸らさなかったかの麗人が初めて顔を上げ、去っていく彼の後ろ姿を見詰めていたのを。



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