聖なる水の神の国にて〜騒春〜


   出会い 1

 

 午後の講義が終わり、寮へ戻るため一人で廊下を歩いていた風矢(ふうや)は、ふいに眩暈に襲われた。

足元がふらつき、そのまま倒れるところをちょうど背後に居た人物に支えられる。

「おっと、大丈夫か?」

「…は、はい。済みません」

反射的に気遣う声に応える。

同時に、背後から自分を支えてくれている腕が纏う色に気付いた。

白だ。

 

この学院では、制服の上着の色によって学年の区別がなされる。

風矢たち一年生は黒、二年生は灰色、最上級生である三年生は白である。

意匠は皆同じで、細身の黒いパンツに指定の色の上着を着る。

上着は詰襟の長衣で、長さは膝下まであり、上半身は身体にぴったりとして、その下はいくらか動き易いよう、たっぷりと布地をとって広がり易いようにしてある。

歩く度に長衣の腰から裾にかけて自然にできた襞が流れるように動き、風を孕んで翻る。

その様は優雅で、神聖なる神学院の制服にいかにも相応しい。

 

 風矢が目にしたのは最上級生の色だ。

風矢は慌てて相手に寄り掛かっていた身体を立て直し、改めて丁重な礼をしようと向き直る。

顔を上げ、初めて支えてくれた相手を見た。

と、そこで風矢は思わず凍り付いたように固まってしまう。

相手はその様子ににやりと笑う。

「どうやら、俺のことは知ってるらしいな」

当たり前だ。

学院一の問題学生である。

学院一の優等生で風矢の憧れる華王(かおう)と並んでよく噂されている。

 

 流星(りゅうせい)・ティーンカイル。

劣等生の烙印を押されているが、実は下級生の中には彼に密かに憧れている者もいる。

風矢の友人、(りょう)もそうだ。

学院の規則に縛られない自由奔放さが良いのだそうだ。

昨年、ここを卒業した兄の空羽(くうう)も似たようなことを言っていた。

表向きはだらしなく見せていても、周りの評価に左右されないしっかりした意志を持っている人だとも。

尊敬する兄がそこまで褒め称える人物に風矢も興味を抱いていたのだが……

 

現在のところ流星に対する風矢の印象は、学院側が彼に下す評価とさほど変わりない。

つまり、悪い。

まだ入学して間もないからかもしれないが、どうしても兄や涼が言うほど好ましい人物とは思えない。

兄たちが言う自由奔放さが、風矢には怠惰にしか見えない。

大好きな兄が流星のことを話すときはいつも嬉しそうだったので、流星に対してある種の嫉妬のようなものを持ってしまったのかもしれない。

 

 流星は自分を見詰めて黙ったままの風矢に構わず、再び風矢の腕をむんずと掴んで、引き摺るように歩き出した。

「なっ、何ですかっ?」

驚いて訊ねる風矢を引き摺りながら、流星は応える。

「いやぁ、お前を連れて来るように頼まれてね。俺だってこんなことはしたくないんだけど、弱みを握られてるもんだからさぁ」

風矢は訳が分からない。

「だっ、誰が僕を呼び出したんですか?」

流星は学院校舎に隣接する寮の入口を潜り、三年生の部屋が並ぶ廊下へと風矢を連れて行く。

「呼び出したのは、多分お前も知ってる奴だよ…何だかお前の様子見てると、あいつが直接来た方が良かったみたいだな。お前、俺のこと嫌いだろ」

風矢はぎくりとする。

「どうしてそんな……」

「ほら、着いたぜ」

その言葉に風矢は問いを封じられた。

流星が足を止めたのは、廊下の突き当たりにある寮室の前である。

流星は扉を叩きもせずに開けた。

「おーい、連れて来たぜ」

部屋の中へそう呼び掛ける流星の背中から、風矢はその部屋を覗く。

部屋は彼が涼と一緒に使っている寮室よりも小さかった。

寝台が一つしかないので、一人部屋なのだろう。

扉を開けたちょうど正面に窓があり、その広い縁に風矢を呼び出した人物が腰掛けていた。

開けてある窓からかすかに花の香りのする風が入り込む。

それがその人の白い制服の肩や背中に振り掛かる黒髪を優しく揺らす。

差し込む柔らかい陽射しが、その髪をきらきらと輝かせる。

美しい髪に縁取られた白い美貌が、風矢を認めて微笑んだ。

華王(かおう)だ。

 風矢は呆然とした。

目の前にいるこの人が、何故自分を呼び出したのか、疑問を抱くより先に、間近で見る憧れの人の美しさに見惚れてしまっていたのだ。

「流星、御苦労」

そう友人に声を掛けながら、華王は床に足を下ろす。

流星は背中を押して風矢を部屋の中へ入れ、後ろ手に扉を閉めた。

促されるままに椅子に座らされて、やっと風矢は我に返った。

「あ、あのぅ、僕を呼び出したのは貴方なんですか?」

華王に問う。

「そう。流星に頼んで、俺の部屋まで連れて来てもらったんだ」

頷きながら、華王はゆっくりと近付いて来る。

そうして、風矢の目の前に来ると、腰を屈め、綺麗な顔を寄せて間近から風矢の瞳を真っ直ぐに見詰める。

今まで彼を遠目でしか見たことのなかった風矢は、この時初めて華王の瞳が灰色であることを知った。

 

 灰色というのは、本来くすんだ印象を人に与えるものだが、華王の瞳の色は違う。

眼鏡越しに見ても、何処までも澄んでいて、こちらが吸い込まれてしまいそうなほど不思議な色だ。

()の光を受けると眩しいほどに輝く黒髪といい、この人の纏う生来の色彩は、本来地味な印象を与えるものばかりであるにも関わらず、他のどんな華やかな色彩を纏う人々よりも、華やかで美しい印象を人に与える。

内側から輝いて見えるような美貌の所為であろうか。

 

そんな取り止めのないことを風矢が考えている間も、華王はずっと風矢を見詰めていた。

次第に風矢が落ち着かなくなり始めた頃になってやっと顔を上げ、うーん、と唸る。

「やはり何か嫌な気配を感じるな。正体は捉えられないんだが。しかし、「何か」はある。流星、お前は分かるか?」

「さっぱり分からん」

寝台に腰掛けた流星が、興味なさげに答える。

華王はにやりとし、

「あぁ、そうか。お前は「感じる」奴じゃないものな。例え邪悪な気が周りに充満していたとしても、平気で眠れる奴だからな」

と、からかう口調で言う。

流星はムッとして、言い返す。

「うるせー、俺の専門はそっちじゃねぇんだよ」

目の前で繰り広げられる二人の会話に、風矢は目を瞬く。

話していることはよく分からないが、まず華王が外見からは想像出来ないような砕けた口調で話すのに驚かされた。

それから、二人の親しげな様子から二人が友人同士であるという噂が、本当であったことを知らされた。

風矢自身はその噂を信じていなかったのだが……

 

 ユルセナイ……

 

ふいに何処からかそんな声が聴こえ、風矢は辺りを見回す。

しかし、この部屋には風矢と華王、流星の他には誰もいない。

 

気のせいか……

 

 目の前では、未だに華王と流星の可笑しな会話が続いている。

「あ、あの…」

風矢が遠慮がちに呼び掛けると、華王は流星との会話を打ち切って、再び風矢に向き直る。

「あぁ、済まない。呼び出した用件をまだ言ってなかったな。えーと…」

「風矢・フローベルです」

「そうか。じゃあ、風矢。最近何か変わったことはないか?例えば、身体の調子が悪いとか」

風矢は驚く。

「えぇ、入学してからずっと頭が重い感じがしていて…時々息苦しくなったりもしますし。どうして分かったんですか?」

華王は再びうーん、と唸る。

「実は…たいへん言いにくいんだが……君には死霊、もしくは生霊が憑いているようなんだ」

「えっ」

「俺には霊の気配を感じ取れるちょっとした能力があってね。君、昨日中庭に居ただろう?あの時、俺は初めて霊の気配を感じたんだ」

風矢は慌てて華王の言葉を遮る。

「ちょっと待って下さい。学院には結界が張ってある筈でしょう?そういった邪悪な霊の類は学院内には入り込めない筈ですが…」

ここは神学院。

神殿と同様、霊的に清浄な空間でなければならない。

「そう、そこが俺も疑問なんだ。どんな形であれ、霊が学院内に入り込もうとすれば、結界によって弾き出される筈だ。結界に綻びがあったのか……だが、そうだとしても霊が学院内に侵入した時点で、俺には分かる筈なんだ…なのに、昨日まで全く気付かなかった……」

「昨日は中庭に近付いたときに急に息苦しくなったんです、すぐに治まったんですが…」

「風矢の具合が悪くなると、霊の気配が表れる、ということか……」

華王は風矢をしげしげと眺める。

「今は、本当によく見ないと気配は感じられないな。空気みたいに曖昧で正体が掴めない。正体が掴めなければ、完全な除霊もできない。霊の気配に全く気付かない神官たちが、除霊できる筈もないし…これは厄介だな……」

風矢は自分の体調不良の原因が、霊の仕業だということに驚いていた。

自分は憑かれるような体質ではないと根拠もなく思い込んでいたのだ。

しかし、流星はともかく、華王の真剣な様子に嘘はない。

その上、神官でさえも除霊の難しい手強い霊に憑かれているらしいことを知り、不安になった。

「あの……僕はどうなるんでしょうか…?」

恐る恐る問い掛けると、その声の響きから風矢の気持ちを読み取ったのだろう、華王は優しく微笑む。

「心配するな、俺たちがきっとなんとかする」

その美しい笑みにつられるように風矢は頷く。

「俺たち」という言葉に引っ掛かったが。

 

華王の言う「俺たち」とは、華王と今ここにいる流星のことだろう。

華王はともかく流星の力を借りるのは、何となく抵抗がある。

 

 華王は腰に手を当てて、何時の間にか寝台の上に寝転がっていた流星を見遣る。

「と、いう訳で流星。お前にも協力して貰うぞ」

華王の言葉に流星はにやりとする。

「面倒なことは嫌だ、と言いたいとこだけど、仕方ないな。けど、そこの坊やにちゃんと俺の協力が必要な理由を教えとけよ。嫌そうな顔してるぜ」

風矢は再びぎくりとする。

気持ちを顔に出したつもりはなかったのだが。

しかし、華王はその言葉を流星が意図し、風矢が理解したのとは別の意味で受け取ったようだ。

優美な線を描く眉を僅かに下げて、

「済まない。もしかして、風矢の気持ちを訊かずに一人で勝手に話を進めてしまったか?実は俺は霊の気配を感じることはできるんだが、除霊する能力は持っていない。流星は霊の気配を感じることはできないが、除霊する能力は持ってる。だから、除霊を成功させるには俺と流星両方の能力が必要なんだ。流星はだらしなく見えて、本当にだらしない奴だが、能力だけは確かだ。俺の能力もここにいる神官たちよりは優れていると自負している。俺たちに周りをうろちょろされるのは鬱陶しいかもしれないが、我慢して欲しい。除霊は必ず成功させる。だから、俺たちの能力だけは信じて欲しいんだ、俺たちが嫌いなら嫌いで構わないから」

とまで言う。

どうやら風矢が流星だけではなく、華王のことをも嫌っているものと受け取ったらしい。

風矢は慌てる。

「そんな…!華王様のことを嫌いだなんてことはないです、本当に!」

華王は首を傾げるようにして、綺麗な灰色の瞳でこちらを見る。

華王としっかり見詰め合う形となったしまった風矢は、何だか恥かしくなってしまい、目を伏せた。

「…貴方たちを信じます。宜しくお願いします」

赤くなりながらそう言うと、華王はこちらがますます赤くなってしまいそうな美しい笑顔を見せる。

「分かった、任せとけ」

 こうして、風矢は学院の有名人二人に除霊をして貰うことになった。



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