聖なる水の神の国にて〜祭秋〜

 

  禁域の罠 3

 

コウは、折れた花のように力なく垂れた()(おう)の小さな頭を、片手でそっと持ち上げた。

そうして、気を失った白い美貌を覗き込む。

血の気を失った顔は白過ぎるほどで、その白さを際立たせるように、艶やかな漆黒の髪が、頬や額の上に散り乱れている。

こうして薄い瞼を閉ざした状態だと、元より整い過ぎた容貌と相俟って、まるで陶器の人形のように見えた。

「――…」

 声音を紡ぐことなく、名を呟いて、コウは、無防備な華王の肌理細かな頬へと、長い指を伸ばす。

「…ッ!」

 瞬間、華王の全身から放たれた光に弾かれ、コウは抱えていた細い身体を取り落としそうになる。

 そのまま、固い地面の上に頭から落ちるところを、咄嗟に華奢な手首を掴んで止める。

 しかし、触れた途端、掌から伝わる痺れに、秀麗な眉を寄せ、仕方なく華王の身体を地面の上に横たえた。

 先程の強い光は、今は細かな粒子となって、華王の身体を靄のように包み込んでいる。

だが、コウが再び触れようとすれば、先ほどと同じ威力をもって、その手を弾くことだろう。

「…やはり、私を拒むか」

 青年はさして無念でもない様子で、微かに苦笑する。

光の粒子はその影響をゆっくりと黒い霧に覆われた周囲へと巡らせていく。

 そして、変化は、光の源である華王自身にも起こっていた。

 コウの端整な口元に浮かぶ笑みが変化する。

 彼はゆっくりとその眼差しを森の方角へと向けた。

 

 

 流星(りゅうせい)はちょうど先程の華王と同じように、禁域に至る森の中を突っ切って走る。

 しかし、全くといって霊的感知能力の無い流星は、周囲に充満する邪気の影響を受けることは無かった。

 ただ、濃い葉を繁らす木々の陰鬱さにのみ、眉を顰めながら、流星は一気に森を抜けた。

「…ッ!」

 開けた視界いっぱいに広がる黒い霧に、流星は立ち止まる。

「もしかすると、これが邪気って奴か?」

 霧を直接吸い込まないよう、思わず、手で鼻と口元を覆いながら、流星は辺りを見回す。

 立ち籠める邪気に、邪魔をされて殆ど何も見えない。

 霊視の出来ない流星でさえ、これほどはっきりと見えるのだ、辺りを覆う邪気の強さは相当なものなのだろう。

流石に、結界を張った上で、禁域にしただけのことはある。

 感知能力の優れた華王や(ふう)()には、この邪気は酷く応えるに違いない。

 とにかく、華王と風矢、そして、(そう)を探さなければ。

 強く眉根を寄せ、僅かに目を細めて、流星は霧の中にゆっくりと踏み込む。

周囲を見渡しながら、注意深く歩を進めるうちに、ふと、ぽっかりと穴が開いたように、黒い霧が薄らいでいる場所があることに気が付いた。

白い空間は、気の所為か、少しずつ周囲の邪気を押しやり、拡がっているように見えた。

空間の中心に何かがいる。

そう認識すると同時に、視線を感じ、流星はまず、そこに立つ背の高い青年の姿に気が付いた。

輝く金の髪に、一度見たら、忘れられそうにない圧倒的な美貌の持ち主だ。

渦巻く禁域の邪気に、その身を馴染ませながら、青年は僅かに笑みを浮かべて、流星を眺めていた。

「…誰だ?…」

 流星の問いに、青年は応えない。

 穏やかな、同時に嘲るような不可思議な笑みを滲ませたまま、すいと鮮烈な紅い瞳を動かす。

 その視線の先、白い空間の中心に、倒れている細い人影があった。

「華王ッ!」

 瞬時にそうと悟った流星は、何も考えずに白い空間の中心へと駆け付けた。

 殆ど反射的に、地面に横たわる華王の華奢な身体を、抱き起こそうと手を伸ばすが、

「…!なッ…?」

思わぬ光景に、動きを止める。

 華王の身体からは細かな光の粒子が滲み出していた。

 水が土に吸い込まれるように、滲み出た光の粒子は、周囲の空気に溶け込んで、淡い明りを灯していく。

 白い空間を作り出していたのは、この光だったのだ。

 しかし、流星が最も驚いたのは、そのことではなかった。

 光を生み出している華王自身もまた、光の靄に包まれていた。

 その光の所為なのか、華王の纏う色彩が淡くなっている。

 いや、透き通るような白い肌はそのままだ。

 しかし、漆黒である筈の華王の髪色は、明らかにその色彩を薄めていた。

 灰色を通り越して、殆ど無色に近い。

「これは…銀色?」

 流星が呆然と呟くと、傍らで小さく笑う気配がした。

 面白がるような、嘲るような響き。

 そのときまで、流星は得体の知れない青年の存在を失念していた。

この青年の傍らに、華王が倒れていた。

ということは、この青年が華王をこのような状態にした元凶であるかもしれないのに。

我に返った流星は、遅過ぎる危機感に駆られる。

敵であるかもしれない相手を前に、あまりにも無防備でいた自分に、舌打ちしながら、咄嗟に振り返った。

 だが。

 そこには、もう件の青年の姿は無かった。

 代わりに立っていたのは、何と風矢だ。

 意識が無いのか、目を瞑った状態で、蒼い目を瞠る流星に向かって倒れ込んで来る。

「うわっ…っと!」

 寸でのところで、風矢の身体を受け止めて、やや、呆然としたまま、流星は視線を華王の元へと戻す。

 そこで再び、流星は目を瞠り、幾度も目を瞬いて華王の姿に見入ってしまう。

 依然として、細い身体に淡い光を纏ってはいるものの、華王の髪色は、すっかり元の漆黒に戻っていた。

 先程見たものは錯覚だったのか。

 流星は、呆然として呟く。

「どういうことだ、これは…?」

 と、横たわっていた華王が僅かに身じろぎをした。

「華王!」

 ひとまず、傷もなく、呼吸も安定している風矢を、その場に静かに横たわらせてから、今度こそ、流星は華王の華奢な身体を抱き起こす。

 顔を覗き込みながら、強く呼び掛けると、長い睫が震えて、薄い瞼がゆっくりと持ち上げられた。

 現れた灰色の瞳は、暫し虚ろに空を漂ってから、ようやく流星へと焦点を結ぶ。

「……流星…?」

「おう。大丈夫か?」

 流星が眉を顰めて問うのに、華王は何とか頷いてみせる。

 が、濃い睫に縁取られた瞳は、すぐに下りてきた瞼に隠された。

「おい、華王…!」

「…大丈夫だ……それよりも、風矢と蒼を早く外に……」

 呟くようにそう言って、華王は再び意識を失った。

 流星は先程とは別の意味で、呆然とする。

「…俺一人で三人を運べってことか?」

 

 

 朦朧とした意識の中、二柱の美しい神の姿を見た。

 いや、今一方は、華王であったかもしれない。

 その透明な儚さと凛とした毅さは、長年思い描いていた聖水神(せいすいしん)の姿そのものだ。

 そして、もう一方の青年は…初めて見る。

 彼もまた、自分の思い描く聖火神(せいかしん)そのものだった。

 超然とした美貌に潜む冷酷さと、そこから垣間見える苛烈さ。

 …自分は夢を見ているのだろうか……

 

 

 ふいに、肩の辺りに軽い衝撃を受けて、蒼は夢うつつの状態から醒めた。

「おいこら、さっさと起きろ!」

 乱暴な言葉と共に、もう一度、肩を強く押される。

「あ、あれ?ティーンカイル君?」

 状況が理解できず、蒼は流星を見上げたまま、目を瞬く。

 流星は両腕に誰かを抱きかかえて、蒼を見下ろしていた。

 そうして、まだ、呆然としている蒼の目を覚まさせるように、長い脚の片方を伸ばして、蒼の肩を軽く蹴る。

 とすると、先ほどからずっと、蒼の肩を押していたのは、この流星の足だったらしい。

 両手が塞がっているので、代わりに足で肩を押したのだろう。

 しかし、その振る舞いに腹を立てる前に、蒼は流星が腕に抱えている人物に目を奪われた。

 長い髪に覆われて、伏せられた顔は見えなかったが、その乱れても尚艶やかな漆黒の髪と、ほっそりと華奢な肢体は…

「アルジェイン君?!一体どうして…」

 制服を纏っていてさえ、はっきりと分かる細い手足を力なく垂れた様子に、蒼は驚いて飛び起きる。

 思わず、疑問が口を付いて出掛かるのを、流星の反応を見て、慌てて止めた。

 流星は無言で軽く片方の眉を上げただけだったが、傍から見ても機嫌が悪そうだ。

 常は飄々としていることの多い流星だが、元の顔立ちが端整であるだけに、不機嫌そうな表情でいるとかなり怖い。

 そうして、口を噤んだ蒼は、遅ればせながら、この状況を作った原因が自分にあることに気が付いた。

「…僕は君たちに、迷惑を掛けてしまったんだね……申し訳ない」

「俺自身はさしたる迷惑は被ってはいないけどな。謝るんだったら、華王と風矢にしろよ」

 そこで、蒼は再び、はっと息を呑む。

「…っそうだ!フローベル君!フローベル君は?」

「お前の横に転がってるよ」

「えっ?」

 流星に指摘されて、蒼は傍らに横たわる風矢をようやく認め、慌てて抱き起こした。

「フローベル君!」

 しかし、名を呼び掛けても、華王と同様に、風矢は目を覚まさない。

蒼は顔色を無くしたが、流星は平然とした顔で、今度は顎をしゃくって、横たわる風矢を示してみせる。

「風矢も華王も人一倍霊感が鋭いからな。早くここの邪気から引き離してやらないと、目は覚まさないだろ。

ほら、ぼーっとしてないで、風矢を担いでいけよ」

 蒼を促しながら、腕に抱えた華王の細い身体をしっかりと抱えなおす。

 華王の小さな頭が力なく揺れ、結いの解けた絹糸のような黒髪が揺れる。

 流星が、さっさと歩き出したので、蒼は慌てて風矢の身体を肩に担いで、その後に続いた。

 ふらつくのではないかと思ったが、意外に足元はしっかりしていて、蒼は密かに安堵する。

 それが、一時的にではあるが、禁域の邪気が、薄まっているお蔭だとは、当然気付かない。

 禁域から森に入るとき、蒼は一度だけ振り返る。

 しかし、すぐに目を逸らして、振り返らずに先に進む流星に追い付く為に、足取りを早くした。

 

 彼らが去った後も、清浄な白い空間は、まだ、存在し続けていた。

 そこに再び、黄金の髪の青年が現れる。

 しかし、今度は半ば透けた実体の無い存在として。

 それでも尚、他を圧する気配を失わない青年は、整った唇から小さな嗤い声を零す。

 華王たちが去った方向に視線を動かし、まるで去った彼らの姿が見えているかのように、僅かに紅い目を細める。

 次いで、軽く指を鳴らす。

 すると、青年の周囲の黒い霧が勢いを増し、渦をなして残る白い空間を塗り潰していく。

 間もなく、禁域は元の状態に戻り、そのときには青年の姿もその場から消えていた。

 



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