聖なる水の神の国にて〜祭秋〜

 

   禁域の罠 2

 

 西の空が紅く染まっている。

 いやに毒々しい色だ。

 ふと、流星(りゅうせい)はそう思った。

 しかし、すぐに気のせいだと割り切り、寮への道をゆっくりと歩む。

「我ながら、真面目だねぇ…」

 歩きながら、自嘲気味に、また、若干照れたように呟いた。

 この自分が、門限に間に合うよう、陽の落ちる前に、寮に戻るなど、一年前まではなかったことだ。

 結局、華王(かおう)の言うがままに、行動している形となって少し癪だが、拒否感はない。

 知らぬうちに随分と、感化されたものだ。

「ま、最低限のことをしてれば、学院側から文句を言われなくて済む。やたら、反発するより、面倒は少ないだろ」

 そんな風に、ひとり言い訳をして、寮へ戻った流星は、

自室の前で、神官が自分の帰りを待ち受けているのを見て、ぎょっとする。

 以前よりは気を付けるようになったのだが、さては、隠していた些細な悪事が露見でもしたか。

 咄嗟に些細な悪事の数々を頭の中で数え上げようとする流星に気付いた神官が、

流星が廊下を歩いてくるのを待つのももどかしいといったように、急いた足取りで自ら流星に近寄っていく。

 そこで、やっと流星は、この神官が学院の教官ではないことに気付いた。

 神官長付きの神官だ。

「お帰りをお待ちしていました、流星・ティーンカイル。至急の用件で神官長がお呼びです」

「…今からですか?」

「ええ、そうです」

 とにかく早く、と促してくる神官の様子に、流星は面倒そうに眉を顰める。

 が、不意に嫌な予感が胸に湧き上がり、流星は素直に神官に従って、神官長の元へと急いだ。

 

「流星・ティーンカイル」

 流星を出迎えるなり、緊迫した声で名を呼んで、

すぐに人払いをした神官長のただならぬ様子に、嫌な予感は一層強くなった。

 しかし、神官長が深刻な顔で、

「東北の禁域の結界が破られました」

と、告げたときには、正直呆気にとられてしまった。

「…って、俺に言われても…」

 何せ、自分は霊力があるとは言っても、溜めた気を標的に向かって投げ付けることが主の攻撃専門型で、

霊の気配や邪気を感知する能力は全くといっていいほど無い。

 当然ながら、霊的な結界を作ったり、修復したりすることも不可能だ。

「結界云々ときたら、専門は華王だろ?話ならあいつに…」

「華王・アルジェインは、既に禁域へと向かいました」

 怪訝そうな流星の言葉を、神官長は途中で遮り、常に無い性急な口調で告げた。

「しかし、結界の異常が明らかとなったのは、今日の昼頃のことです。

彼が禁域に向かったのもほぼ同時刻。以来、彼は戻ってきていないのです」

「何だって?」

 流星の顔色が変わる。

「また、禁域の結界が破られた起因は、どうやら、我が学院生である(そう)・ブルアリュレと、

風矢(ふうや)・フローベルが禁域に近付いた為と思われます」

 神官長の言葉に、流星は大きく舌打ちをした。

 蒼の舞台劇への情熱がとんだ方向へ向かったものだ。

 風矢はそれに付き合わされたか、或いは、敢えて自ら付き合ったのだろう。

 それにしても、自分が出掛けていたときに、このような事態になるなど、間が悪過ぎる。

「現在、結界の綻びから拡がる邪気の動きは停滞しています。

華王・アルジェインによる結界の修復が成功したと見ることも出来ますが、

それならば、何故、今に至っても、彼は戻ってこないのでしょう?

彼だけではなく、蒼・ブルアリュレと風矢・フローベルの無事も未だ、確認できておりません。

禁域で、何か不測の事態が起こっている可能性も否定できません。霊媒体質である風矢・フローベルもおりますしね」

「だったら何で神殿は動かない?

そんなに、緊迫した状況なら、俺なんかの帰りを待ってるよりも、

能力のある神官を引き連れて一刻も早く禁域に駆けつけるべきなんじゃないのか?」

 流星の険しい問いに、神官長は溜め息を吐いた。

「ことを荒立てぬこと。それが華王・アルジェインの望みであるからです」

「あいつの能力の高さは俺だって承知してる。

だが何故、神官でもない一学生に過ぎない奴の意見を、神殿側が尊重するんだ?訳が分からないぞ」

「……」

 流星の鋭い問いに、神官長は応えなかった。

 ここで押し問答をしていても、仕方ない。

「とにかく、禁域へ向かう。

もし、華王が難儀しているなら、俺が駆け付けたところで、さして役に立たないような気もするが…」

「頼みます。貴方なら、禁域の邪気に触れても、大きな影響はないと思います。

ですが、気を付けて。杞憂であればよいと願っていますが…嫌な予感がするのです。

貴方が禁域に向かった後、二刻経っても、事態に進展が見られない場合は、我々神殿側も動くつもりでいます」

 そう告げる神官長に頷きだけを返し、流星は部屋を飛び出した。

 

 

 時は、数刻前に遡る。

 東北の禁域へと至る森に飛び込んだ華王は、道なき道を凄まじい勢いで駆け抜けていく。

 暗鬱な木下闇を掻い潜るように、重い葉を繁らす木々を擦り抜け、

足元で不意に盛り上がり、複雑に絡み合う木の根や行く先を妨げる下藪を飛び越える。

 その間にも、徐々に禁域から漂う邪気が纏わり付いてきた。

 黒い霧のような邪気は、詰襟の隙間や袖口から、やんわりと入り込み、滑らかな肌を這う。

 嫌というほど憶えのある気配だ。

 その不快な感触と、獲物を捕らえた歓喜の声に似た耳障りなざわめきに、華王は柳眉を顰めた。

 片手で乱暴に、額に浮いた汗を拭う。

 それでも、華王は森の中を突き進むことを止めない。

 進むにつれ、邪気は濃くなり、不快さは増してくる。

 衣服の間に入り込んだ邪気は、抵抗が無いのをいいことに、更に奥の肌まで探ろうとする。

 そこで、華王の我慢も切れた。

「煩い!」

 鋭い声と共に、華王の細い身体から一瞬光が発せられ、纏わり付く邪気を吹き飛ばす。

 この程度のことは気休めにしかならない。

 逆に相手を悦ばせるだけだというのも充分承知していたのだが、

無遠慮な手に身体中を撫で回されるような不快感に耐えかねたのだ。

 光に慄くように退いた邪気は、だが、再び、華王を包み込もうと徐々に黒い霧の触手を伸ばし始める。

 それらを振り切るように、華王は走った。

 そして…

 

 唐突に途切れた木々の向こう側に、草木一本生えていない荒野が拡がっていた。

 霧のように辺りを充たす邪気に遮られ、その規模は定かではない。

 しかし、森の出口からやや離れた場所…岩のように乾いて固くなった土の上に佇む背の高い青年の姿は、

不自然なほどに、くっきりと浮き上がって見えた。

 眩しい黄金の髪を黒い風に靡かせ、王者をも超える威圧感を持って佇む青年の首がゆっくりと巡らされる。

 華王の姿を捉えた鮮烈な紅い瞳が細められる。

「…来たか」

 華王はその瞳を撥ね付けるように睨み返した。

「どういうつもりだ。悪ふざけにしてはやり過ぎだぞ」

 渦巻く邪気に隠されてはいたが、青年の足元に、蒼が倒れているのを、華王の灰色の瞳は捉えていた。

 同時に、青年が風矢の身体に憑依して、己を実体化させていることも見抜く。

 青年は華王の射るような眼差しに、些かも動じることなく、ゆったりと肩を竦めてみせる。

「ここは私の領域だ。私はただ、私の領域に足を踏み入れた客人を出迎えたのみ。

軽はずみにも、己の信ずる神の加護のない場所に立ち入り、自ら結界に綻びを生じさせた客人をな」

「彼らの行動が軽はずみなものであったことは認める。だが、あんたの手痛い出迎えのお蔭で、彼らも懲りただろう。

今後、二度とこの場所には近付かない筈だ。それでいいだろう?さあ、早く彼らを返してくれ」

「納得できんな」

 唇を笑みに歪めて、空恐ろしいほどの美貌を持った金髪の青年は、この世の者とは思えぬという点では似通った、

しかし、威圧感よりも儚さが際立つ美貌を持つ黒髪の少年を見据える。

 少年、華王は青年、コウの言葉に、怪訝そうに細い眉を寄せる。

「あんたはこの件に関して、それほど気分を害していないように見えるが。

この不毛の大地が、あんたにとって価値あるものとも思えない」

「そうだな…確かに、この地は私にとって価値あるものではない。しかし、私にとって価値あるものに縁ある土地ではある」

「?それはどういう…」

 謎めいたコウの応えに、華王が気を取られた一瞬。

コウの姿が掻き消える。

 次の瞬間には、背高い青年は華王のすぐ目の前に佇んでいた。

「…!」

 目を見開いた華王が素早く身を引く前に、コウは彼の細い手首を捉え、華奢な身体を引き摺り寄せる。

 艶やかな華王の黒髪が、白い制服の肩や背中に乱れ散った。

「この場所に罠を張っていたお蔭で、私にとって価値あるものを、こうして捕らえることが出来た」

「放せ」

 強く眉根を寄せて、華王は抗議するが、コウは聞く耳を持たず、更に細い手首を引き寄せる。

「…!つぅ…」

 その痛みに、思わず小さな苦鳴を漏らす華王を、頬触れ合うほど間近で見詰めた。

「…辛そうだな。額に汗が浮いているぞ。もしや、この領域を充たす邪気に中てられたか?

お前ともあろう者が、この程度の邪気に?」

「…放せ」

「私に触れられるのが嫌なら、力ずくで逃れることだ。

私がまだ、一欠けらの能力も出していないのは、分かっているのだろう?

そのような私を突き放すことくらい、本来のお前であれば、容易に出来た筈だ。

それなのに、余計なことに能力を割いているから、このようなことになる」

 嘲弄する口調で言いながら、コウは空いている方の手を伸ばし、華王の肩先から零れる絹の髪を、戯れに掬い取る。

「そろそろ、終わりにしたらどうだ?もう充分に学生気分は味わえただろう。

まあ…見慣れてみれば、その姿もなかなか目に快いものだが。

また、お前が自由に能力を振るえないからこそ、こうして、労することなくその身に触れることが叶う」

 掬い取った漆黒の髪の一房に唇を寄せながら、コウは紅い瞳を愉悦に細める。

 華王は、徐々に己の身体を包み込んでいく黒い霧に引き起こされる眩暈にひたすら耐えていた。

 薄紅色の唇を紅くなるほど噛み締め、色は濃いが不思議に澄んだ灰色の瞳でコウを睨み据える。

 だが、コウの戯言に言葉を返す余裕はない。

 そんな華王の様子を眺めたコウは、髪に口付けたまま、唇に浮かべた笑みを深める。

「ああ…やはり、仮初めとはいえ、お前に直に触れられるのは良いものだな。しかし…些か張り合いが無いともいえる」

 囁く低い声の調子が僅かに変わる。

 次いで、コウの腕が無造作に伸ばされ、華王の細い腰を強引に引き寄せた。

「…ッ!!」

 きつく抱き締められた瞬間、コウに触れられた身体のあらゆる場所から、

衣服を通して、邪気が容赦なく肌に染み入ってくる。

「…ぁ…ぁあ…ッ!!」

 押し寄せてくる眩暈と苦痛に、華王は堪えきれずに、絶息するかのような儚い悲鳴を上げた。

 凄まじいまでの美貌を持つ青年は、嘲笑うように、しかし、何処か愛おしむように、見開いた瞳を虚ろにしていく腕の中の少年を見下ろす。

やがて、墜落するように気を失った華王の華奢な身体から力が抜け、小さな頭がガクリと垂れた。

 



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