聖なる水の神の国にて〜祭秋〜
祭秋 1
森の出口で、数人の神官を従えた神官長が待ち受けていた。 流星たちが戻ってくると、神官長は安堵したように微笑む。 そして、神官長の指示で、すぐさま、数人の神官が禁域の結界の様子を確かめに森の中へと消え、 残りの神官たちは、華王と風矢を寝ませる為に、流星たちを神殿内の奥まった一室へと案内した。
「あれ…?」 風矢がふと目覚めると、見慣れない部屋の天井が見えた。 随分長く眠っていたような気がする。 まだ覚醒しきっていない状態で、視線を周囲に巡らせると、 「やっと起きたか」 やや呆れたような声が耳に届いた。 声がした方に視線をやると、流星が腕を組んで風矢を見下ろしていた。 「あれ、流星さん?ここは…?僕何で…って、いたたたたっ!痛いですって!!」 ぼんやりとしたまま問いを重ねようとする風矢を遮るように、大袈裟に眉を顰めた流星が、風矢の両頬を指で摘まんで引っ張る。 「まぁ〜ったく、寝惚けちゃって。さあ、これでどうだ?目が覚めたか?まだ、足りんか〜?」 「痛い痛いっ!覚めた!覚めましたっ!!」 悲鳴を上げつつ風矢は飛び起き、流星の手を振り払う。 流星はふんと鼻を鳴らして、風矢を解放した。 「全くもう乱暴なんだから…」 「ちなみにさっきの質問の答えだが、ここは神殿内の一室だぜ」 文句を呟きつつ赤くなった頬を両手で摩っていた風矢は、流星の言葉を聞いて、ぴたりと手と口の動きを止めた。 頬の痛みによる効果か否か、やっと目覚めた頭が働きだし、意識を失う前の出来事が脳裏に甦ってくる。 そうだ、自分は禁域へ向かうと言う蒼に付いていって… 禁域の入口で黒い霧のような邪気に巻かれて、気を失ってしまったのだ。 そうして、目覚めてみたらこれ、ということは…… 頬を押さえたままの風矢の顔から血の気が引いていく。 「もしかして…僕、皆さんに多大なる迷惑をお掛けしたんでしょうか…?」 「察しが良いじゃねえか。ま、元凶はお前じゃなく、蒼の奴だがな。 だが、お前が掛かる迷惑の規模を拡大するのに、一役買ったことは言う間でもない」 「すみません………」 返す言葉もなく身を縮める風矢に、流星は肩を竦めて見せた。 「取り敢えず、取り返しの付かない事態までには到らなかったがな。代わりに、華王が大分無理をした」 「え?華王さんがっ?」 驚いて顔を上げると、流星が親指で己の背後を指し示す。 そこには風矢が身を横たえていたのとは別に、もうひとつの寝台があり、華王が華奢な身体を横たえていた。 「華王さん!」 風矢は慌てて寝台から下り、華王の枕元へ近寄る。 目を閉じた繊細な美貌。 黒く長い睫が白い頬に影を落としている。 生き生きとした光を宿す灰色の瞳が閉じられていると、華王はまるで精巧に作られた人形のように見える。 敷布に散り流れる髪が、寝台の端から幾筋か零れ落ち、艶やかに輝いていた。 その姿に、思わず目を惹かれると同時に、華王が二度と目を覚まさないのではないかという訳の知れない不安が増して、 風矢は思わず鼓動早まる胸を抑えるように、シャツの胸元を掴んだ。 その横で流星は、これまでの経緯を簡単に説明しながら、華王の滑らかな頬に手を伸ばす。 「…てことで、禁域の邪気は思ったほど外に流れ出さずに済んだ。結界も修復され、元通りの状態になったそうだ。 しかし、華王の奴、まだ、起きないな。お前がこうして無事目覚めたんだから、そろそろ、こいつも目覚めてもいい頃なんだが…」 「…ちょっと待ってください。華王さんに何をするつもりなんですか?」 伸ばされた流星の指の不吉な動きを見て、風矢は眉を顰めて問う。 「いや、お前みたいに、ちょっとこの頬を抓んでみようかと。そうしたら、こいつも目を覚ますかもしれないだろ?」 「止めて下さい!」 「じゃあ、お約束でキスにするか?」 「な、何言ってるんですかッ!駄目駄目!駄目ですよ!!」 風矢は悲鳴のような声を上げて、流星の腕にしがみ付く。 すると、くすりと小さな笑い声が耳に触れた。 はっとして、寝台を見遣ると、華王が澄んだ灰色の瞳を開いて、風矢と流星を見上げている。 「お、やっと起きたか。いつ気が付いた?」 「…ついさっきだ。これだけ枕元で騒がれては、誰でも目が覚めてしまう」 「何だ、残念。せっかく起こしてやろうと思ったのに」 「抓られるのも、キスされるのも遠慮したい」 僅かに笑みを含んだ声で、流星に受け答えた華王は、ゆっくりと寝台の上に起き上がった。 「華王さん!良かったっ!!」 しがみ付いていた流星の腕を放り出し、風矢はその枕元に跪く。 そんな風矢に、華王は柔らかく微笑んだ。 「大分心配を掛けてしまったようだな、すまない」 「いいえ、僕の方こそ、華王さんに迷惑を掛けてしまって…本当に有難う御座いました」 しょげる風矢に、首を振って、華王は穏やかに問い掛ける。 「風矢はもう大丈夫なのか?どこか身体の具合が悪いところはないか?」 「はい!もう大丈夫です!」 「そうか、良かった」 華王の美しい微笑みを見ていると、先ほどまでの不安が嘘のように消えていく。 しかし、華王自身はまだ、本調子ではないらしく、身を起こしているだけでも大儀そうに見える。 「あの…僕よりも、華王さんのほうが辛そうです。無理せず横になっていた方が…」 眉を顰めて風矢がそう勧めるのに、華王は首を振る。 「いや、邪気に中てられた場合は、なるべく動いて己の気を高めて、邪気を祓った方がいいんだ」 「へえ、そうなんですか」 素直に風矢が納得する一方で、流星は華王の負けん気を見透かしたように、笑いを噛み殺している。 「何を笑っている、流星?」 華王が軽く睨むと、口元に笑みを残したまま、肩を竦める。 「いや、何でも。まあ、無理し過ぎない程度にやれよ。 さて…今、外で騒ぎの元凶が、お前らが目を覚ますのを待ってるんだけど、呼んでくるか?」 「ああ、頼む」 華王が頷くと、流星は部屋を出て行った。
流星に付いて部屋に入ってきた蒼は、気の毒になるくらい顔色が悪かった。 流星に背を押されて、華王の目の前まで進み出るものの、まともに視線を合わそうとしない。 気まずい沈黙に、風矢は落ち着かない心地で周囲を窺うが、流星も、そして、華王も自ら口を開こうとはしなかった。 やがて、蒼が思い切ったように言葉を発した。 「アルジェイン君。君が僕の所為で倒れてしまったと分かった時は…気が気ではなかった。でも目覚めてくれて良かった……」 そう言って心からの安堵の溜め息を吐いた蒼は、勢いよく顔を上げる。 そうして、ほぼ身体が直角になるように腰を折って、華王に向かって頭を下げた。 「僕の勝手な行動の所為で、君には途方も無い迷惑を掛けた。本当に申し訳なかった。 こうして、謝ったところで、許して貰えないかもしれないが…フローベル君、そして、ティーンカイル君も、すまなかった」 華王に頭を下げた後、蒼は風矢と流星にも頭を下げる。 「いえ、僕は…」 「お前が言いたいのはそれだけか?蒼」 風矢が恐縮して口を開きかけるのを遮るように、華王がふいに言葉を発した。 「え?それだけかって…」 素っ気無い口調に、蒼は動揺した様子を見せる。 そんな蒼を、華王は灰色の瞳で真っ直ぐに見詰める。 冷や汗を流しながら黙り込んだ蒼だったが、そう時間が経たない内に、はっと顔を上げる。 「…そうだ、僕としたことが、一番重要なことを忘れていた。助けに来てくれて有難う、アルジェイン君。 禁域に踏み込んだにも拘らず、こうして、心身に異常なく、戻ってくることが出来たのは、君のお蔭だ。 迎えに来てくれたティーンカイル君も…有難う」 その言葉に、華王はやっと微笑んだ。 「謝罪の言葉よりも感謝の言葉の方が聞いていて気分が良い。謝られるばかりでは、却ってこちらが余計なことをしたかと思ってしまうぞ」 「そうだね…」 蒼は苦笑する。 次いで、視線を動かした華王は、枕元に自分の眼鏡が置いてあるのを見付けて、手を伸ばそうとする。 「これかい?」 「ああ、有難う」 気付いて眼鏡を手に取って渡した蒼に、礼を言って、華王は硝子に傷が無いのを確かめてから、その眼鏡を掛けた。 「で?どうだよ、実際に禁域に足を踏み入れた感想は?」 後ろで茶化すように問う流星に、蒼は振り向いて答える。 「邪気に撒かれてすぐに意識を無くしてしまったから、あまり良く憶えてはいないんだ。だが、禁域に到る森の中でも既に、その威力は感じた。 本当にここは聖水神の加護のない地なのだと思った。恐ろしかったよ…それなのに、同時に引き寄せられるような引力も感じるんだ。 けれど、その引力に身を任せてしまったら…その力を受け入れてしまったら、きっと僕は僕でいられなくなってしまったかもしれない」 蒼の言葉に、風矢も頷いた。 「ええ。もうあんなところに足を踏み入れるのは、懲り懲りです」 「ふうん。風矢はそういう結論に至った訳だな。けど、蒼は違うみたいだぜ」 「え?」 流星の意地悪い指摘に、蒼は慌てて否定する。 「な、何を言うんだい、ティーンカイル君!!僕も出来ればもう、あんな危険な場所には足を踏み入れたくないよ!!」 「けど、舞台の件は諦めてないだろ」 「……」 鋭く指摘されて、蒼は黙り込む。 それまで黙って、会話を聞いていた華王が苦笑する。 「何だ、舞台の方はまだ、懲りてないのか」 最初は気まずげな表情を浮かべていた蒼だったが、やがて覚悟を決めたように表情を引き締める。 「君には申し訳ないけれど、舞台の件だけは諦められない。 実は…禁域で、今でも夢か現実か判断が付かないけれど、聖水神と聖火神が佇む光景を見たんだ」 「そりゃ、間違いなく夢だろ」 流星の突っ込みには耳を貸さず、蒼は熱弁を奮い始める。 「僕はその光景に新たなひらめきを得たんだ!! 危ない目には遭ったが、このひらめきは禁域に足を踏み入れたからこそ、得られたものだと思う。 そんなにまでして得たひらめきを、どうして、実現せずにいられよう?!僕はこのひらめきを無駄にしたくないんだよ! そして、やはり、聖水神役はアルジェイン君、君しか考えられない!だから、どうか頼む!僕の夢に力を貸して欲しい!!」 「分かった」 「えっ?」 勢い込んで華王に頭を下げた蒼はもちろん、傍で聞いていた風矢と流星も思わず声を上げていた。 「あの…「分かった」と言うのは…?」 「お前の頼みを受け入れて、舞台に立つのを承知した、と言う意味だ。 正直、目立ちたくはないが、お前がそこまで俺が舞台に立つことに拘りを持つなら仕方がない。 舞台が実現しない限り、お前はまた、新たなひらめきを得に、進んで禁域に飛び込んでいきかねないしな」 「いや、流石にそんなことはもう…」 「しないと断言できるか?」 「…いや、する…かも……」 「だろう?だから、分かったと言ったんだ。しかし、以前にも言ったが、俺は演技に関しては全くの素人だぞ。それでも良いんだな?」 半ば呆然として華王の言葉を聞いていた蒼の表情が、その意味を理解するに連れて、徐々に明るくなっていく。 「心配は無用だよ、僕に任せてくれたまえ!!本番に間に合うよう、しっかりと指導するから! 君なら大丈夫、最高の聖水神になれるよ!!有難う、アルジェイン君!本当に有難う!!」 ところが、感極まって、手を握ろうとする蒼が伸ばした手を、華王はするりと躱した。 「その代わり、ひとつ約束をして欲しい。もう二度と、禁域に入るような危険な真似はしないこと。 舞台実現も、夢を叶えることも、命あってこそできることだからな。それを肝に銘じておくように」 「分かった。分かったよ」 華王の言葉に、蒼は一も二もなく、頷いた。 過剰なほど首を縦に振る蒼の後ろで、流星がポツリと呟く。 「本当に分かってんのか…?」 「さあ…」 まだ、驚き冷めやらぬ風矢も首を傾げたのだった。
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