聖なる水の神の国にて〜祭秋〜

 

   禁域の罠 1

 

(そう)は今日、出掛けるみたいだぞ」

 流星(りゅうせい)が自室の扉を開きながら、中にいる人物へ向かって声を投げる。

「そうか」

 声を投げ掛けられた人物、華王(かおう)は頷いて、開いていた分厚い書物をパタンと閉じた。

 そうして、書物を小脇に抱えて、す、と椅子から立ち上がった華王を、流星は怪訝そうに見遣る。

「どうしたよ?」

「ん、借りていた本が読み終わったから、図書院に行って、新しいのを探してくる」

あっさり応えた華王に、流星は目を剥いて確認する。

「…その!分厚い本を!?約一週間で読み終わったって言うのか?!!」

 華王はきょとんとし、小脇に抱えた書物を灰色の瞳で一瞥してから、流星に応える。

「いや、これは三日で読んだ。その前には、一緒に借りてきた別の本を読んでいたからな」

「………」

 流星は絶句し、思わずといったように、天を仰いで呟いた。

「冗談キツイぜ…」

「そんなに驚くようなことか?」

 華王は怪訝そうに細い首を傾げたが、やがて気を取り直したように、にこりと微笑んだ。

「図書院へ行った後は、自分の部屋に戻るよ。あまり、お前の部屋に入り浸っているのも悪いからな」

「いいのか?」

 顔つきを改め、やや、気遣わしげな声音で問う流星に、華王は頷く。

「ああ。幸い、蒼は今出掛けていると言うし、その間、少しくらいは落ち着けるだろう。

蒼が出掛けているのは、もう俺のことを諦めたからであれば良いんだが…」

「…いや、それはないんじゃねえか?」

「やっぱりそう思うか?」

「そりゃあな、奴のあの熱烈振りを見ているとな」

 華王は困ったような顔で、薄紅色の唇から溜め息を吐いた。

「祭典まであと一月も無いだろう。何時までも役者が揃わないのは、不味いだろうに…」

「おや、お優しいことで。そんなに気になるんなら、蒼の誘いを受けてやれば良いのに」

「それとこれとは話が別だ」

 殊更軽い口調で水を向けてみても、華王の返事は素っ気無い。

 やれやれと流星もまた、溜め息を吐いてから、両腕を伸ばして大きく伸びをした。

「それじゃ、俺も出掛けるかな。せっかくの休日だし。そうだな、今日は久々に…」

「出掛けるのは良いが、夜遊びせずに門限に間に合うよう帰って来いよ。この前の試験では、せっかく追試を免れたんだ。

生活態度で落第点付けられて、また、二年連続留年という憂き目は見たくないだろう?

ああ、流石に二年連続の留年は、この学院ではないか。なら、今度は退学かな」

「キツイこと言わないで…って、何で俺が、たった今立てた今日の予定が分かった?」

「顔に書いてある」

「んな訳あるか!」

 賑やかな会話が部屋から廊下へと移動し、扉が閉まる。

 無人となった部屋の窓辺で、開かれた窓の隙間から入り込んだ秋風が、カーテンを緩やかに揺らした。

 

 

 東北の禁域に到る道は、全く整備されていなかった。

 禁域とそれを囲む鬱蒼とした森は、神殿の所有だが、そこを訪れる者はほぼ皆無だ。

興味本位で、足を踏み入れようものなら、すぐさま邪気に中てられ、倒れてしまう場所。

 この国にあるのは、そんな実害のある禁域だった。

 代々の神官長だけは、決まった時期に訪れるらしいが、

彼らが訪れるのもまた、禁域の手前の森の中に造られた小神殿までだ。

 そこまでは辛うじて、草を除け、土を踏みならした小道があるが、その先は獣道すらない。

 森は常緑の木々が多く繁り、来る者を拒むように薄暗い。

 暗鬱な木陰を作り、歩みを妨げる草木の他には、鳥や獣など生き物の気配も無い。

「…っつ!」

 下草に足を取られて、思わず掴んだ枝に棘があり、風矢(ふうや)は思わず声を上げる。

「大丈夫かい?フローベル君」

「…はい。すみません、大丈夫です」

「でも、怪我をしたんだろう?一度引き返すかい?それから後は、やはり僕ひとりで…」

「いいえ、本当に大丈夫なんです、浅い傷ですから。さ、進みましょう」

 前を行く蒼が振り向いて問うのに、風矢は無理に笑顔を作って応えた。

 この右も左も分からない森の中を、方位磁石を頼りに進んでいる蒼は、見るからに気を張り詰めて消耗している。

 風矢も既に疲弊しきっていたが、自分から進んで、行くと言った手前、音を上げる訳には行かなかった。

 

 草を踏み分け、木々の枝を避けながら、進むうちに、徐々に風矢は息苦しくなってきた。

「…?」

 最初は息が上がってきた所為かと思ったが、違う。

 周囲の空気が重くなってきたのだ。

 そのことに前を行く蒼も気付いたようだ。

 緊張した顔で、風矢を振り返る。

「邪気が徐々に強くなって来たようだね。禁域が近い…」

「…はい」

 蒼が磁石で方位を確かめながら、額から流れる汗を拭う。

「…しかし、禁域はまだ、見えてこないというのに、ここまで邪気が強いとは……

フローベル君、ここから先は僕ひとりで行くから、君はここで待っていてくれるかい?」

 風矢は息苦しさを堪えて首を振る。

「ここまで来てそれは出来ません。蒼さんも一緒に引き返すならともかく…」

 きっぱりとした応えに、蒼は立ち止まり、躊躇うような様子を見せる。

 この先に進むべきかどうか、迷っているのだろうか。

 しかし、蒼はすぐに躊躇いを振り切って、先へと歩み始めた。

「禁域が見えてきたら、そこで引き返すよ」

「はい」

頷いた風矢も蒼の後に従った。

 

 

禁域へと向かう彼らを、眺めている者がいた。

「禁域に近付く者の気配を感じて覗いてみれば…意外な客人のようだ」

くっくっと、喉を鳴らして嗤うのに合わせて、その肩先から黄金の髪が零れ落ちる。

「己の舞台の為に、わざわざ、ここまで出向いてくるとは、なかなかに面白い学生だ」

 ひとりごちながら、青年は紅蓮の瞳を嘲笑うように細める。

 その視線の先にいるのは、蒼。

 しかし、その不躾なまでの視線に、蒼は反応しない。

 視線の主がいるのは、蒼と風矢のいる空間とは隔たった空間だからだ。

 この空間には距離も時間も無い。

 万一、只人が紛れ込めば、右も左も分からず立ち往生するしかない現世と異界との狭間。

 彼は、その空間を自由に行き来する。

この空間を渡れば、現世ではどんなに離れた場所でも一瞬で移動できる。

鍵の掛けられた扉や部屋を囲む厚い壁も、彼を妨げるものにはならない。

故に、現世にあるもので、彼が知らぬこと、意のままにならぬことなど無きに等しい。

敢えて、自由にならぬものを挙げるとするなら、人の内面、その心の動きくらいだ。

尤も、それすら容易に予想が付くものが多く、また、彼にとって、それらはどうでもいいことであった。

今も昔も彼の心を占める存在はひとつだけ…

その存在に想いを馳せる青年の端麗な唇が綻ぶ。

愛おしさに。

また、軽い自嘲に。

 

あれだけは、今も尚、思い通りにならない。

華奢な身の内に、揺るがぬ意思と無私の優しさを併せ持ち、

汚濁に塗れたこの世にあっても、変わらぬ清らかさを保つ稀有な存在。

 

 青年の眼差しが、蒼の背後にいる風矢へと移る。

 ふ、とその唇に浮かぶ笑みが変化する。

 

今の青年は、他ならぬ青年が拘る存在のお蔭で、この国で繰り広げられる事態には積極的な干渉ができない。

 出来るのは、せいぜい己の影を送り込むことくらいだ。

 いや、その気になれば、強引に手出しをすることは出来る。

 ただ、そこまでする気にならないだけだ。

 しかし、この禁域でなら…

「せっかくの客人だ、もてなしさせてもらおうか。暇つぶし程度にはなるかな…?」

 冷たい笑みを浮かべた青年は、玩弄するような口調で呟いた。

「もし、あれを引き寄せることが出来れば、更に愉しめる…」

 次の瞬間、青年、コウの姿は、狭間の世界から消え去っていた。

 

 

 暫く歩むと木々の切れ間が見えてきた。

 その切れ間から漂ってくる冷たい邪気に、蒼と風矢は思わず立ち止まる。

「…あの向こうが……禁域か……」

 息を呑んで蒼は呟く。

「まだ、昼間ですよね…?光を遮る樹木も無いのに、向こうが薄暗いのは、やはり邪気の所為なんでしょうか…?」

 今更ながら、森の向こうに渦巻く邪気に圧倒されて、風矢は声を詰まらせる。

 全身が総毛立つような恐れ。

 聖典に記されていたとおり、禁域には、聖水神(せいすいしん)加護は一切無いのだ。

 実際にその土地を目の前にして、そのことがはっきりと感じられた。

 早く、この場を離れなければ。

 なのに、何故だろう、そう思うのと同じくらい強い引力を禁域から感じるのだ。

 それは善悪係わりなく人知を超えたものが持つ引力なのかもしれない。

 風矢が感じた引力を、蒼もまた、感じたのだろうか、惹かれるように一歩前へと踏み出す。

 そう、ほんの一歩だけ。

 しかし、その瞬間を待ちかねていたように、森の外で渦巻いていた邪気の一部が、

黒い霧の塊となって、森の中へと飛び込んでくる。

「うわあ!」

「蒼さん!!」

 突如生き物のようにうねる邪気に襲われ、悲鳴を上げる蒼に、風矢は思わず駆け寄った。

 ぞくりと背筋を悪寒が走る。

 意思を持った黒い霧が腕に、足に絡み付いてくる。

(しまった…!)

 無防備に飛び出してしまった己を悔いても、もう遅い。

 視界さえも黒く霞む中、風矢は低い囁きを聞いた。

『この身体…暫く借りるぞ……』

「……ッ!!」

 その瞬間、入り込んできた圧倒的な力に身体中を支配され、風矢は悲鳴を上げることもできずに、気を失った。

 

 

 ほぼ時を同じくして。

「ッ…!」

 図書院を出た華王は、はっと顔を上げる。

 厳しい眼差しで見遣るのは、神殿の方角。

 更にその背後にある森だ。

 回廊に囲まれた庭では、学生たちが祭典の支度に忙しく、しかし、愉しげに動き回っている。

 その回廊を、華王は神殿に向かって足早に歩き始める。

 艶やかな黒髪と白い制服の長い裾を翻しながら歩む華王の姿を、中庭の学生たちの大半が憧れの眼差しで見送った。

 

 程なく、神殿の入口が見えてくる。

 そこに、神官長の姿があった。

 彼もまた、穏やかで端正な容貌に、常に無い厳しい表情を浮かべて、近付いてくる華王に声を掛ける。

「気付きましたか?」

 神官長の問いに、華王は頷く。

「禁域の結界が破られたようですね」

「何者かが不用意に禁域に近付いたのでしょうか」

「恐らく。そこを付け込まれたのでしょう」

「このままでは、結界の綻びから邪気が外へと流れ出してしまいます。禁域に近付いた者の身も案じられます」

「まずは、俺が禁域に行きます。禁域に近づいた者の安否を確かめ、結界の綻びを修正する。

神官長はそのままで。神殿が動き出すにはまだ早い」

「…分かりました。ですが、一人では危険です。流星・ティーンカイルと共に行って下さい」

「今、流星は外出中ですよ。事態は対処が遅れるほど深刻になります。彼が戻るのを待つ時間はないと思いますが」

「ですが、貴方一人を危険に晒す訳には行きません」

 神官長の強い言葉に、華王が一瞬、口を噤んだそのとき。

「あっ、華王先輩」

 ひとりの学生が、小走りで近付いてくるのに気が付く。

 見覚えがある。

 確か、風矢と寮で同室だという少年ではなかったか。

 学院の回廊で華王を見付け、それから彼を追い掛けていた(りょう)は、やっと追い付いたと速度を上げる。

 しかし、途中で華王が神官長と共にいるのに気付いて、ぴたりと立ち止まる。

「あっ、申し訳ありません!」

「構いませんよ、私の話は終わっていますから。華王・アルジェインに御用なのでしょう?」

「いえ…でもあの…それほど重要な話ではないかもしれないので…」

 穏やかに促す神官長に却って恐縮して口ごもる涼を、華王が更に促した。

「君は風矢の友人だったね。風矢に何か…?」

 眼鏡越しにも澄んで、真っ直ぐ見据えてくる灰色の瞳に、涼はやっと言葉を搾り出した。

「ええと…風矢は今日、僕と一緒に街に出掛ける予定だったんですが、

途中学院に寄って、そこで蒼先輩に声を掛けられたんです。僕から離れたところで、ふたりで何か話していて…

そうしたら、風矢が急用が出来たからと言って、駆け出していったんです。

多分、蒼先輩と出掛けることになったんだと思いますが…風矢の様子がいつもと違うように見えて気になって…

でも、良く考えたら、僕の気のせいかも…すみません」

「風矢が蒼と出掛けた?何処とは言っていなかったのか?」

「僕は聞いていません」

 そこまで聞いた華王は、ふと気付いて目を瞠る。

 息を呑んで、傍らに佇む神官長と顔を見合わせる。

 まさか…

「…分かった。教えてくれて有難う」

 そう言って、涼をその場から帰し、華王は華奢な身を翻した。

「華王・アルジェイン!」

「すみません、神官長!やはり、流星が戻るのを待ってはいられない。まずは、俺一人で行ってきます。無理はしません!」

 呼び止める神官長にそう言葉を残して、華王は神殿の奥にある森へと飛び込む。

 素早く木々を擦り抜けながら、眼鏡を外して制服のポケットに押し込んだ。

 黒い邪気が勢いを増して見える東北の方角を露になった瞳で見据え、華王は押し殺すような声音で呟いた。

「あいつら…!」

 



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