聖なる水の神の国にて〜祭秋〜
祭礼間近 2
予想に違わず、足音は風矢たちのいる教室の前で止まった。 「失礼。こちらにアルジェイン君がいると聞いて来たのだが…」 少々遠慮がちな言葉と共に、ひとりの学生が戸口から室内を確かめるようにひょいと顔を出す。 眼鏡を掛けた知的な顔立ちの少年だ。 最上級生の証である白い詰襟の制服を着ている。 背は高いが、痩せ気味の身体つきで、ひょろりとした印象がある。 その少年の表情が、窓際に座る華王を見付けて明るくなる。 風矢は二三度瞬きをし、流星は軽く肩眉を上げて、揃って華王を見た。 華王は溜め息を吐き、 「どうぞ、蒼・ブルアリュレ」 と、相手の名を呼んで促した。 応えて、おとなしそうな外見にそぐわない勢いで、華王の座る机まで歩み寄った蒼は、 机に手を突き、身を乗り出すようにして華王を真剣な眼差しで見詰める。 「頼みがあるんだ、アルジェイン君」 「断る」 すっぱりと切り捨てられて、蒼は何とも哀しそうな顔になる。 「断るのは、せめて、頼みの内容を聞いてからにしないかい?」 「去年と違う内容だったら聞いてもいいが」 「ああ…やはりそうか」 蒼は仰のいて、片手で額を押さえ、嘆きの仕種をする。 嫌に芝居がかった蒼の仕種に、傍で見ていた風矢は、意表を突かれ、何となく目を奪われてしまう。 随分と言動の大袈裟なひとだ。 この少年を知っているのだろう、驚きはしないものの、流星もまた、面白そうに彼の言動を眺めている。 しかし、彼と向き合っている華王は先程から全く表情を変えていない。 「わざわざ訪ねてきてくれてすまないが、俺の答えは昨年と変わらない。この学院で目立つことはしたくないんでね」 「君がそう答えるだろうことは予想していたが…しかし、今回ばかりはどうしても諦められない!! 今年で最後なんだ!頼む!!」 華王の取り付く島のない答えに、蒼は、仰のいた形から、がばりと身を起こし、 再び華王の座る机に手を突いて頭を下げる。 「昨年は君に断られたので、泣く泣く違う内容の舞台にした… だが、今年はどうしても、長い間温め続けた構想を舞台の上に具現化させたいんだ!! それには君がどうしても必要なんだよ、アルジェイン君!!」 熱烈な訴えに、流石にやや困惑したように、華王が柳眉を顰める。 「昨年と同じことを訊くことになるが、何故、俺に拘る? そんなにやりたいなら、他に配役を見付けてやればいいじゃないか。別に俺じゃなくても、蒼なら充分な舞台を…」 「いいや!!」 蒼が、がばりと下げていた頭を上げる。 「あの役は君にしか演れない!君の聖水神でなければ、僕の理想とする舞台にはならないんだ!!」 叫ぶように蒼が訴え、ここまで来て、風矢はようやく話が見えてきた。
蒼は今年の祭典で行われる舞踏劇の関係者…おそらく、総指揮を取る最高責任者なのだろう。 どうやら、昨年も同じ任に当たり、華王に出演交渉をして断られようだ。 その彼が、昨年に引き続いて、今年も華王に舞台の出演交渉をしている…ということらしい。 しかも、華王に求めている配役は、風矢の聞き間違いでなければ「聖水神」だという。 舞踏劇で、聖水神を演じるとは、すなわち、主役を演じるということである。 偶像崇拝をしない神殿は、聖水神の像の代わりに、それを象徴する紋様を掲げているのみだが、 聖水神は性別のない、美しい神であると聖典に記されているのは、誰もが知っている。 その聖水神を華王が演じるのは如何にも相応しく思えた。
風矢は俄然、蒼の話に興味を覚えたが、華王は依然として乗り気にはならなかったようだ。 整い過ぎているくらいの美貌の主ながらも、表情豊かなひとであるのに、今尚、無表情を貫いている。 そうしていると、造りものめいた冷たい美しさが際立って、少々近寄り難い雰囲気となる。 そんな彼の頑なな様子に、風矢は正直、首を傾げる思いだった。 華王が目立ちたくないと言うのは、今までの神殿での祭礼の様子を見ていても分かる。 学年主席である華王は、学院生の代表として、皆の前に出る筈なのに、 いつも壇上の下の学年列の最後尾に紛れているのだから。 だからと言って、これだけの佳人が目立たない訳はないのだが、 華王が神殿や学院の公式行事で表舞台に立ったことが、今まで一度もないのは確かだ。 何か特別な事情でもあるのだろう。 …しかし。 蒼がこの一年に一度の祭典の舞踏劇に、全身全霊を込めて打ち込んでいる様子なのは、傍目で見ていても良く分かる。 そんな彼の熱心な訴えと誘いを、誰に対しても優しい華王が、欠片も受け入れる気配を見せないのは珍しい。
「すまないが、俺は演らない。諦めて他を探してくれ」 溜め息を吐きながら、もう一度そう言って、華王は立ち上がった。 「待ってくれ!」 その彼の華奢な手首を、逃すまいと蒼が掴む。 「放してくれ」 華王がす、と眉根を寄せて言ったが、蒼は首を振る。 「今回だけは諦めたくないんだ…どうか…どうか、協力して欲しい! あの逸話を舞台化することは学院入学前からの僕の夢なんだ!!…ッ頼む!!」 「…っ!」 細い手首を握る蒼の手に、力が篭ったようだ。 華王が痛みに微かに眉を顰めるのに気付いた風矢が声を上げる前に、 「ちょっと待てよ」 流星が見合うふたりの間に割って入った。 華王の手首を掴む蒼の手首を、流星が無造作に掴んで引き剥がす。 「いっ、痛…!」 思わず悲鳴を上げた蒼だったが、華王の白い手首に自分の指の形が、くっきりと残っているのを見て、 ようやく我に返ったようだ。 「す、すまない!」 「…いや」 華王は僅かに俯いて首を振る。 そんな彼を背に庇うような形で、流星が蒼に向き合った。 「あんまりひとに無理強いするもんじゃないぜ、ブルアリュレ君」 「それは分かっている!だが…」 「いいや、分かってないね。現に、断ったこいつを無理やり付き合わせようとしてるじゃないか。 たかがおまえ自身の夢を叶える為に」 「た…「たかが」だって?!僕の夢はそんな軽いものじゃない!!「たかが」などという言葉で済まさないでくれ!!」 気色ばむ蒼に、流星は腕を組みながら、淡々と言い返す。 「「たかが」だよ。お前以外の人間にとってはな。大切なものは人それぞれだ。 お前の夢は、お前にとっては大切なものだろうが、万人にとって大切な訳じゃない」 「…っ!!」 「お前の夢を身勝手に他人に押し付けるなということさ」 「……」 反論を封じられて黙り込んだ蒼に、出て行けと流星が立てた親指で戸口を示す。 「……また、出直してくるよ」 そう言葉を残し、もう一度、華王に謝罪するように頭を下げてから、蒼は去っていった。
「まだ、口説く気が残ってる訳か。なかなかしぶといねぇ」 蒼が教室から出て行くのを見送った流星が呆れたように呟く。 一瞬緊迫した事態が収まって、風矢はほっと息を吐き、次いで慌てて華王に声を掛ける。 「大丈夫ですか、華王さん!」 「ああ」 答えて、華王は紅い痕の付いた手首を振って見せた。 「見た目ほど、痛みは無いんだ」 「それなら良いんですが…大分紅くなってますよ。肌が白いから余計目立つんでしょうか?」 そう言ってしまってから、幾ら事実でも男性に対して言う台詞ではなかったかと、風矢は何となく気恥ずかしくなる。 が、華王は、さして気にせず、風矢の言葉をそのまま受け取ったようだ。 「そうか。困ったな…」 幾らなんでも、誰かと諍いがあったと分かるような痕を人目に晒す訳にはいかないだろう。 しかも、学院一の優等生である華王に、そんな傷が発見されようものなら、学院中を巻き込む騒ぎになりかねない。 悪くすれば、加害者の蒼は退学だ。 それはまずい。 だが、制服の袖でそれとなく隠そうにも、上半身が身体の線に沿うように、 ひとりひとりの身体に合わせて、細身に作られた制服の上着は、袖もぴったりとして余りが無い。 さて、どうするかと、その場で腕を組み、考え込む華王に、 風矢は急いで、一年の黒い制服の胸ポケットから、ハンカチを取り出す。 せめて、これで縛って痕を隠してもらおうと思ったのだ。 「あ、あの…華…」 しかし、風矢が呼び掛ける前に、華王の華奢な白い制服の肩に、ばさりと同じ色の、 だが、大きな制服の上着が掛けられた。 「取り敢えず、これで上半身全部を隠しとけばいいだろ。何か訊かれたら、風邪気味で寒気がするとでも言えばいい」 白いシャツと黒いパンツ姿になった流星が、わざとのんびりしたような口調で言う。 「…あ!!」 先を越されて、取り出したハンカチを片手に、恨みがましい眼差しを向ける風矢に、流星は舌を出してみせる。 だが、考えてみれば、ハンカチで痕だけを隠すより、こちらの方が目立たなくて良いかもしれない。 流星の制服の上着で、上半身どころか、全身を覆い隠された華王は、一瞬きょとんとする。 それから、目を上げてまじまじと流星を見た。 「お前って、ときどき驚くほど優しいよな」 「「ときどき」はないだろう。俺は何時だって心広く優しいぞ」 流星の言に、風矢が先ほどのお返しとばかりに、すかさず突っ込む。 「それは女性限定でしょう。僕は今まで数えるほどしか、流星さんの心広く優しいところを見たことがありません」 「うるせえぞ、風矢」 ふたりの応酬に、華王はくすりと小さく笑みを零す。 「悪いな、流星。有難う。風矢も気を遣ってもらってすまない」 「いいえ!僕は何にもしてませんし」 お礼を言われるほどのことはしていないのだと首を振る風矢に対して、流星は威張るように、ふんぞり返る。 「それに引き換え、色々としてやっている俺様を、よぅく敬えよ」 「…その前に、俺がお前にしてやっていることが一体幾つあるか、数えてみるんだな」 「うっ…」 痛い反撃に言葉を失う流星の姿に、華王は鈴を転がすような澄んだ声を立てて笑った。 その軽やかな響きと、可愛らしいと言っても差し支えないほど無邪気な笑顔。 やっと常どおりの華王に戻ってくれたようだ。 そう感じた風矢は、密かに安堵の息を吐いた。
|
前へ 目次へ 次へ