聖なる水の神の国にて〜祭秋〜
祭日間近 1
「もう秋ですねえ…」 小教室の窓から緑深い森を眺めつつ、風矢・フローベルはしみじみと呟いた。 一年を通して概ね温暖な気候であるここ、ロゼリア王国の森は常緑樹が多く、 風矢が学ぶ神学院を囲む木々もまた、その装いを殆ど変えることはない。 それでも、空の色や窓から入り込む風の涼しさから、秋の気配は充分に感じ取れる。 が、やや感傷めいた響きの伴う風矢の呟きに、同意する者はいなかった。 「いて…っ!!」 代わりに風矢の耳に届いたのは、何かを弾くような音と、小さな悲鳴。 「この問題を間違えるのは二度目だぞ」 続いて静かに空気を震わすのは、凛と澄んだ声だ。 「……」 せっかくの感傷を打ち壊された風矢が視線を教室内に戻すと、 薄い金色の髪を伸ばした青年が、弾かれた額を押さえ、盛大に文句を吐いていた。 「何だよ、これはさっきの問題とは違うだろ!暴力反対!!」 「この問題も、最初に俺がお前に叩き込んだ筈の応用問題だ。それが分からないとは、嘆かわしいにも程がある」 綺麗な声音にそぐわない容赦ない言葉を返すのは、黒髪の華奢な身体つきの少年。 会話の内容が耳に入ってこなければ、そのまま絵になってもおかしくないほど、端正な容姿のふたりである。 ふたりとも風矢の先輩で、学院の有名人だ。
「応用なんて、面倒くせえ。こんなの基礎さえ出来ればいいじゃねえか。第一俺は薬学は苦手なんだ。もう止めだ止め」 早々に勉学放棄をして、椅子の背もたれに寄り掛かる金髪の青年が、流星・ティーンカイル。 王国の名家の跡継ぎで、背高く、青い瞳の女性受けしそうな甘さのある整った顔立ちの青年である。 だが、彼の白い詰襟の制服は着崩され、襟元もあけたままだ。 貴族の子弟が多く集まるこの神学院内では、この風体は異様である。 異様なのは服装ばかりではない。 彼はまた、講義を無断欠席したり、外出禁止の筈の学院及び寮から抜け出して街に遊びに行ったりと、 日常的に問題行動を繰り返している不良学生なのだった。 その為、一年留年した彼は、現在、風矢より三歳年上の十九歳の筈だ。 そのような待遇をされても尚、素行は改まらず、 色街にも頻繁に出入りしているというのだから、全く呆れた不良振りである。 尤も、人の好みは様々で、彼の傍若無人な言動に、憧れを抱く学生もいるにはいるが、 基本的に真面目な風矢は、彼が苦手だった。 しかし、今の風矢は、流星が周囲に迷惑を掛けるだけのただの不良学生ではなく、 それなりに頼りになる人物であることを知っている。 …それに、すぐに飽きるものの、こうして多少なりとも机に向かう気を起こしているのだ、 素行も以前と比べて少しばかりは改まっているのかもしれない。
「お前が止めたいと言うなら、それはそれで俺は一向に構わない。 だが、この応用問題が出来なければ、基礎を理解したとはとても言えないぞ」 眼鏡を掛け直しつつ、流星を冷静に諭す黒髪の少年は、華王・アルジェインという。 他国からの留学生で、通常、十六歳で通過する入学試験を十五歳で通過し、 今尚、学年主席の成績を保ち続ける神学院始まって以来の秀才と名高い学生だ。 入学してから一年で飛び級で最上級生となった彼は、まだ風矢と同じ十六歳である。 その少女と見紛う神秘的な美貌も相俟って、彼は学院中の憧れの的となっている。 確かに、艶やかに流れる癖のない黒髪に縁取られた白い顔は、繊細に整って、眼鏡を通しても隠しようのないほど美しい。 身体つきもほっそりと華奢で、こうして椅子に腰掛ける姿は、硝子細工で出来た精巧な人形を思わせるほどだ。 しかし、その一見儚げな姿から醸し出される雰囲気は、凛として隙がない。 動作も機敏で、剣技の腕もまた、それを得意とする流星と拮抗するほどだという噂だ。 入学当初から風矢の憧れでもあった華王は、今も尚、風矢の憧れであることには変わりなかったが… 「良いのか?追試になっても。まあ、それはお前の自業自得だから良いとするにしてもだ。 ここまでお前に付き合ってやった俺はどうなる?お前がどうしてもと頼むから、貴重な時間を割いてやったのに… もし、ここで本当に止めるつもりなら、俺がお前の為に消費した時間に対する責任を取ってもらわないとな。 さあ、どう取ってくれる?」 「…すみません、気を取り直して、もう一回やります」 「最初からそう言え」 …このように、学院一の不良を脅し紛いの文句でおとなしくさせるような人だとは思ってもみなかった。 それなのに、不敵な文句を連ねるその声音は、心が洗われるような気がするほど透明で綺麗なのだ。 その声音に心洗われるどころか、苦しめられている者が一人いるが、この際気にしないでおく。
風矢がうっとりしていると、流星を再び机に向かわせた華王が、風矢へと振り向く。 少年らしく強い光を宿した灰色の大きな瞳が、透明な硝子越しに僅かに細められ、薄紅色の唇が柔らかく綻ぶ。 憧れの佳人が、優しく微笑んで見詰めてくるのに、風矢は思わずどきまぎしてしまう。 「ほったらかしにしてすまないな、風矢。講義はもう終わったし、無理に俺たちに付き合うことはない。 他に好きなこと…例えば、祭典の準備があるだろう?」 「ッいいえ!無理なんてしてません。僕は好きでいさせてもらってるんです。流星さんを見てると面白いですし」 「あっ、言ってくれたな風矢!って、痛ッ…!!」 「いいから、お前はさっさとこの問題を解け」 「くそっ…またしても!お前ら、後で覚えてろよ…って、お?これはもしかすると…」 不意に手を打って、問題に取り組み始めた流星を見つつ、風矢は言葉を継ぐ。 「それに、祭典に関しては、まだ僕は一年ですし、今年は見学に回ろうかと思ってるんです」 「ああ、そう言えば一年は殆どそうだったな」
約一月後に、重要な季節の祭礼のひとつである秋の祭礼が控えている。 この国を守護神である聖水神を祀る神殿が中心となって執り行う祭礼に加えて、 秋は神学院生が主催する祭典がある。 祭典で中心となる行事は、神殿中庭に舞台を設えて、選ばれた学生たちが披露する聖典にある逸話を元にした舞踏劇だ。 準備を含めた祭典の中心となるのは主に、二年、三年の有志。 初めての祭典で勝手の分からない一年は、特に協力を求められた学生以外、後学の為、見物に回るのが慣例となっていた。 また、祭典は自由参加なので、勉学に集中したい者は、公式の祭礼のみ参加して、 祭典準備にも関わらなくて良いことになっているが、常の勉強漬けの生活から解放される機会でもある祭典に、 見物すらしない学生は、滅多にいない。
夏期休暇が明けてから、少しずつ進められてきていた祭典の準備は、 そろそろ形を整え始め、学院全体が浮き足立った空気に包まれている。 日頃は貴族の子弟らしくおっとりした学生たちも、このときばかりは賑やかに、祭典準備に走り回る。 その喧騒が風矢たちのいる小教室にまで伝わってきていた。 「ああ、そうだ。夏のときもそうだったが、来週から祭礼までの間、特別講義は休講だそうだ。 神殿も祭礼間近で忙しくなるからな」 「…そうですか、分かりました」 華王の言葉に、風矢は素直に頷いた。 正直を言えば、暫くの間、華王の美貌を間近で見られなくなるかと思うと少し寂しい。 しかし、こうして、共に神官長の特別講義を受けるようになるまでは、風矢にとって華王は雲の上の存在だった。 遠目で姿を眺めるだけしかできず、またそれだけでも満足できたというのに、いつの間にか贅沢になってしまったものだ。 そもそも、自分のような普通の学生が、華王、そして、流星にも関われたのは、奇跡にも等しいのだ。 もう少し自重して、自分の幸運に感謝しなければ、数多くいるだろう華王の熱烈な信奉者、更に、華王には劣るだろうが、 やはりそれなりにいるだろう流星の信奉者にも恨まれてしまう。 風矢が心密かに反省していると、机に向かっていた流星が勢い良く身を起こした。 「良し。解けたぞ、完璧だ!さぁ華王、これを喰らえ!!そして、俺様の天才振りを悟って、崇め奉るが良い!!」 「阿呆か」 大袈裟に、多分に冗談めかしてふんぞり返る流星の言葉を一刀両断にして、 華王は目の前に突き出された答案用紙を受け取る。 「…どうだ?」 やや真面目になって問う流星を、答案に目を通した華王がちらりと見る。 「正解だ」 「よっしゃ!これで俺は自由だー!!」 「この基礎と応用を試験のときまで忘れるなよ」 手放しで喜ぶ流星に、しっかりと釘を刺すのを華王は忘れない。 「へいへい。ったく、せっかくの解放感に水を差すなよ」 文句を言いつつ、流星は先程よりも一層のびのびと、ある意味だらしなく椅子の背凭れに寄り掛かった。 頭の後ろで手を組みながら、窓外の喧騒に耳を傾け、のんびりと言う。 「この特別講義もそうだが、祭礼前後は講義が全部休講になるのが良いよなあ。お蔭で時間を気にせず遊びに行けるぜ」 その不真面目極まりない言葉に、風矢は呆れてしまう。 「また、そんなことを言って…さては、祭典も参加しないつもりですね?」 「当たり前だろ。面倒くせえ」 ここにひとり、滅多にいない学生がいたか…… 風矢は溜め息を吐く。 だが、公式の祭礼にも、殆ど参加しない流星なのだ。 彼の祭典不参加は、大体予想が付くし、驚くほどのこともない。 しかし、流星の言葉を受けて、あろうことか、風矢の心酔する華王までもが、机の上に片手で頬杖を突き、 もう片方の手にした答案用紙の角を整った指先で弾きながらこう言ったのだ。 「祭礼の休講期間中は、図書院ががら空きになるのが良いよな。 周りを気にせず、好きなだけ書物を閲覧することが出来て、ちょっとした贅沢気分になれる」 「…それって贅沢なんですか?…じゃなくて。ええっ…!まさか、華王さんも祭典に参加しないつもりじゃ…」 風矢が驚いて訊くと、華王は、さも当たり前のように頷く。 「ああ。だが、祭礼には参加するぞ」 「そんな…」 「どうしたんだ、風矢?俺が祭典に参加しようとしまいと何も支障はない筈だぞ?」 華王が愛らしいほどきょとんとした表情で訊き返すが、軽い衝撃に見舞われていた風矢はすぐには答えられなかった。 風矢にとって、華王が祭典に参加するか否かは重要な問題だ。 頑張って祭典準備をしてくれている他の先輩方には申し訳ないが、華王が参加しないとなれば、祭典の楽しみは半減だ。 祭礼のときのように、祭典でも普段とは趣の違う華王の姿を見られるかと楽しみにしていたのに…… 「…え、えっと、それじゃあ、華王さんは、祭典の間は勉強を?」 「ああ。その為にこの学院に入学したんだからな」 「そうですか…」 どうにか、立ち直って口にした問いに、そう答えられては、 個人的な楽しみの為に、華王に祭典参加を勧めることなどできよう筈がない。 風矢が内心がっかりしていると、華王の手から戯れに答案用紙を取り上げながら、流星が面白そうに口を挟んだ。 「だが、華王。お前はそう言うけどさ、また、「お誘い」が来るんじゃねえか?去年みたいにさ」 「止めてくれ」 流星の言葉に、華王が心底嫌そうに柳眉を顰めた。 初耳の風矢は、不思議そうに首を傾げる。 「去年?どんなお誘いがあったんですか?」 風矢の問いに、流星が口を開き掛けたそのとき。 廊下をこちらの教室に向かって歩いてくる足音が聞こえた。 |
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