聖なる水の神の国にて〜祭秋〜
二聖神の伝説 1
「で?どういう理由なんだ?」 寮の部屋まで華王を送った流星が、唐突な問いを投げ掛けてきた。 「何の話だ」 借りていた上着を返しながら、華王は訊き返す。 閉じた扉に半身を預けるようにして佇む流星に背を向けて、 机の横に設えてある小さな棚の引き出しから、次々と乾燥させた薬草を取り出していく。 その手際の良さは常どおりだが、右手首の紅い痕は、白い肌に鮮やかに刻まれたままだ。 「…まだ、赤味が引かないな」 傍らに歩み寄って来る流星に、取り出した薬草を小さな擂鉢に入れながら華王が振り向かずに頷く。 「ああ。大したことはないんだが、明日まで残ると厄介だからな。今から、赤味と腫れを抑える薬を作る」 「へえ…流石薬学に詳しいだけはある」 のんびり呟いた流星が、不意に華王の右手首を掴んだ。 「…っ…!」 軽く掴まれただけだったが、華王は思わず擂粉木を取り落とし、柳眉を顰めてしまう。 「これで「大したことはない」…か。ふぅん…いてっ!」 無言で柳眉を吊り上げた華王に、肘鉄を喰らわされ、流星は手を離す。 「いててて…全く見掛けに寄らず乱暴なんだからなあ……」 打たれた鳩尾を押さえながらぼやくと、常より鋭い声音で華王が言い放つ。 「誰にも言うな」 突き刺すような言葉に、流星は瞬きをする。 「蒼を庇うつもりか?あれだけ付き纏おうとするのを嫌がってた癖に」 「違う。ただ、騒ぎにしたくないだけだ」 「充分庇ってるじゃねえか」 それには応えず、華王は再び薬草を擂り潰し始める。 その何処となく硬い美しい横顔を眺めつつ、流星が言葉を継ぐ。 「なあ、お前は蒼自体を嫌ってる訳じゃないだろ? それどころか、ひとつのものにあれだけ打ち込める奴の熱意は、それなりに評価してる筈だ。 そんな奴が、一度断られたにも拘らず、もう一度お前の力を欲して来たんだ。 幾ら目立つのは嫌だといっても、普段のお前だったら、二度も頼み込まれて断ることはしないんじゃないか」 「……」 「だが、今回ばかりは頑なに首を振り続けてる。どういう理由なんだ? 俺が思うに、それは奴が演りたがってる演目と脚本にあるんじゃないかと思うんだがな。 蒼が拘っているのと同じくらいに、お前もあの演目…聖水神と聖火神の逸話に別の意味で拘ってる。 だから、何としても演りたくないと拒み続けてるんだ。どうだ、この推論は?」 的を得てるだろう?と、整った口元をにやりと笑ませながら問う流星をちらりと見上げ、華王は素っ気無く応えた。 「言いたくない」 「あ、冷てー。そろそろ二年の付き合いになる俺に、それは無いんじゃねえ?」 多分に冗談めかして、不平を言う流星の目の前に、 ぐいと、擂り潰した薬草を塗った布と、痕の残る白い手首が突き出される。 「…何だよ」 「手伝え。片手だとやりにくい」 華王の灰色の瞳が、真っ直ぐに見据えてくる。 流星は軽く肩を竦めた。 「へいへい、華王サマのお望み通りに」 布を受け取り、差し出された細い手首を軽く捧げ持つ。 指示に従って、その手首に布を巻きながら、流星は目を伏せて、呟くように問うた。 「なあ…もしかしてそれは、お前が隠してることに関わりがあることか?」 華王が僅かに眼鏡の奥の瞳を細める。 「さあな。ご想像にお任せする」 「ちぇっ、またかよ」
翌日、講義を終えた風矢は、図書院に立ち寄ってみた。 薬学に関する書物が並ぶ棚の辺りまで行ってみると、案の定、その美しい姿があった。 この図書院の書棚は高く、上から下までぎっしりと書物が収められている。 そこで、上段の書物を取り出したいときは、書棚の前に敷かれた軌条の上にある移動式の丈高い脚立を利用する。 その脚立の上段に腰を下ろし、静かに頁を繰っている白い制服の細い背中とそこに振り掛かる艶やかな黒髪を見上げて、 風矢はそっと声を掛けた。 「華王さん」 「風矢か」 呼び掛けに、華王はすぐに振り向き、風矢を認めて、花弁のような唇を綻ばせた。 開いていた書物を閉じ、脚立を下りてこようとする華王に、慌てて風矢は声を上げる。 「あっ、お邪魔するために来たんじゃないんです!どうかそのまま…」 「いや、そろそろこれを借りて図書院を出ようと思ってたところだったんだ」 「そ、そうですか」 逆に気を遣われてしまったような気がして、風矢は肩を竦めて恐縮する。 とんと、床に降り立った華王の動きを追うように、ふわりと広がった白い裾がゆっくりと落ち着いていく。 窓から差し込む陽光を宿した黒髪が、周囲を照らし出すかのような煌きを零した。 同じように澄んで煌く灰色の瞳に見上げられ、見惚れていた風矢は、はっと我に返る。 「あ、あの!どうですか…手のほうは?」 「ああ」 華王は笑って、書物を抱えた手を取替え、空いた右手を差し出して見せる。 「もう、すっかり元通りだ。心配を掛けてすまなかったな」 滑らかな白い肌に、昨日は見るからに痛々しかった痕がもう、 何処にも無いことを確かめて、風矢はほっと安堵の息を吐く。 「良かったです、本当に… 実は、もしも、まだ赤味が引かないようだったら、僕が家から持ってきた塗薬をお渡ししようと持って来てたんです」 「大袈裟だな、大したことはないと言ったのに。赤味を引かせる薬は、昨日自分で適当に作って塗った。 そんな立派な薬に頼らなくてもこの通りだ」 「…そうか。そう言えば、華王さんは薬学に詳しいですもんね」 余計なことだったかと、書物の貸し出しの手続きをする華王を待ち、一緒に図書院を出ながら、風矢は苦笑する。 それに、華王は屈託なく微笑んだ。 「いや、風矢の気遣いは嬉しい。有難う。また今度、同じようなことがあって、俺の薬で対処できない時は頼む」 「もう二度と、同じようなことは起きて欲しくないですけどね」 華王の花のような笑顔に、頬を赤らめつつ、風矢は頷いた。 そうして、ふたりが図書院を出てすぐの渡り廊下を歩き出した時だ。
「アルジェイン君!」
渡り廊下の向こう側から、蒼がこちらに駆けてくる。 昨日の今日で思わず風矢は身構えてしまう。 華王を庇うようにして、前へ出ようとする風矢を、華王はそれとなく止め、 少し離れた正面で立ち止まった蒼を真っ直ぐ見詰める。 「何か用か、蒼?先に言っておくが昨日のことを蒸し返されても答えは同じだぞ」 先手を打たれて、蒼は情けなさそうな顔になる。 が、気を取り直したように、咳払いをして口を開く。 「それは別件として確かにあった。だが、こうして君を呼び止めたのは別の理由だ」 少し緊張した顔で、華王を見詰め、蒼は言葉を継ぐ。 「まず、昨日のことをちゃんと謝らなければならない。幾ら我を忘れていたからといって、君にあんな乱暴を働いてしまうとは… 本当に申し訳なかった」 一息に言って、がばりと勢い良く頭を下げる。 蒼の言ったことは事実なのだが、聞きようによっては何とも如何わしく感じられる。 華王の傍らで風矢が奇妙な表情になっているのには一向気付かず、 身を起こした蒼は、制服の胸ポケットから小さな蓋付きの容器を取り出して、華王に差し出した。 「ブルアリュレ家出入りの薬師が調合した塗薬だ。きっと君の赤味と腫れにも効く。良ければ使って……って、え?」 顔を上げた目の前で、白い手をひらひらと動かされ、蒼は眼鏡の奥の目を瞬いて、言葉を途切れさせる。 華王が動かして見せているのは、右手だ。 先ほど、風矢が確かめたとおり、その華奢な手首には、何の跡も残っていない。 「気を遣って貰ったようだが、この通りだ。それに、昨日のことも謝らなくて良い。 俺がお前の熱意を無駄にしてるのは事実だからな。お前が怒るのも無理は無い」 「それは誤解だ!僕は怒ってなどいない!!ただ…」 再び言い募ろうとする蒼を止めるように、華王は右手の細い人差し指を、己の薄紅色の唇に当てる。 「…と、そこでまた、お前に熱意を籠めたお誘いを受けるのは困るんだ。 断りの文句を何度も言うのは流石の俺も気が引ける」 華王に軽く微笑まれ、少々不本意そうな顔をしながらも、蒼は口を噤む。 それから、安堵と落胆の入り混じった溜め息を吐く。 「何はともあれ、大したことがなくて良かった、本当に…考えてみれば、君は薬学に詳しかったな。 他の薬に頼らなくても効く薬を自分で作れる訳だ」 何やら、自分と似たようなことを言っている。 たったそれだけのことで、風矢は何となく蒼に、親しみを感じてしまう。 「では、今日はひとまずこれで失礼するよ。別件については、また改めて」 「そろそろ諦めて欲しいんだがな…」 「なんの、まだこれからさ。一月もあれば、君の気が変わってもおかしくない。 それまで通わせて貰うから覚悟しておいてくれ」 「勘弁してくれ…」 今度は華王が溜め息を吐いて宙を仰ぐ。 そんな彼を少し申し訳なさそうに見て、蒼は語を継いだ。 「今度ばかりは諦めたくないんだよ…」 その声音に風矢は、真摯な響きを感じ取る。 蒼が何とかして華王を主役として実現させたいと願っている舞踏劇。 去っていく蒼のひょろりとした後姿を見送りながら、風矢は、嫌がっている華王に申し訳ないと思いつつ、 俄然その劇に興味を抱き始めていた。
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