聖なる水の神の国にて〜祭秋〜

 

   二聖神の伝説 2

 

 それから、一週間が過ぎた。

 学院の中庭を巡る渡り廊下に出たところで、風矢(ふうや)はふと小さな溜め息を吐く。

 今日から特別講義は休講だ。

 承知していたこととはいえ、華王(かおう)と会えないのはやはり、寂しい。

 加えて、(そう)が出演を迫る舞踏劇に、珍しく強固な拒否反応を見せていただけに、尚更華王の今の様子が気に掛かる。

 だが、この一週間、風矢は華王の姿すら見ていないのだ。

 先程も淡い期待を抱いて、図書院を覗いてみたのだが、そこに輝くような華王の麗姿は見当たらなかった。

 恐らく寮の部屋を訪ねていけば会えるのだろうが、部屋に押し掛けるのは、気が引ける。

華王の部屋を訊ねるときは、何故か、必要以上に気構えてしまう。

敢えて言うなら、深窓のご令嬢の部屋を訪ねるような気恥ずかしい緊張感があるのだ。

(あんまり綺麗だからかなあ…)

 自分でも首を傾げつつ、風矢は考えを巡らせる。

(それじゃあ、流星(りゅうせい)さんにそれとなく華王さんの様子を訊いてみようか)

 流星だったら、今の華王の様子を多少なりとも知っている筈だ。

 流星の顔を見られないのも少しは寂しいし、後で彼の部屋を訪ねてみようかと考える。

 同じ先輩でも、流星の部屋は気兼ねなく訪ねられる。

 しかし、風矢はすぐにその思い付きを却下した。

 祭礼が近付いきて、講義の休講が増えてきているこの時期、流星が部屋でおとなしくしているとは思えない。

 今、部屋を訪ねていっても、十中八九、彼は不在だろう。

 もう一度、小さく息を吐き、顔を上げると、中庭では舞台の設営が着々と進んでいた。

 準備に走り回る二、三年の有志に加えて、見学の一年も加わり、見るからに賑やかだ。

 風矢はふと、設営中の舞台の袖辺りに、蒼のひょろりとした後姿を見付けた。

 一度、彼と話をしてみたかった風矢は、回廊から中庭に下りて、

行き交う学生たちの間をすり抜けつつ、そちらへと向かった。

 

 舞台は中庭中央にある噴水をぐるりと半分取り巻くように設えられるようだ。

 舞台の様子を目の端に捉えつつ、風矢が舞台袖に近付いていくにつれて、

噴き出された水が奏でる音に紛れるようにして、話し声が聞こえてくる。

 次いで、風矢の目に映ったのは、やや厳しい面持ちの蒼の横顔。

 彼が向き合うのは、同じように厳しい面持ちの二人の学生だ。

 どうやら、話し合いの最中らしい。

 蒼と向き合う学生ふたりは、恐らく蒼と同じく舞踏劇に関わる有志なのだろう。

 彼らの深刻な様子に、風矢は思わず立ち止まった。

「蒼、例の役者はまだ、見付からないのか」

「…まだだ」

「もう、祭典まで一ヶ月を切ったんだぞ!

他の役者は既に決まって、もう稽古に入っているというのに、肝心の主役がまだ見付からないままとは…」

「もう少しだ。もう少し待ってくれ。遅くとも、あと一週間。それまでに、絶対見付けてみせる」

「何を言っているんだ、蒼!!見付かっていないのは、主役なんだぞ!それをあと一週間待てだって?

一週間経てばもう、本番まで半月しかないじゃないか!

端役ならともかく、幾ら舞台に慣れた学生でも、半月であの役柄を物にするのは無理だ。

分かっていると思うが、今から稽古に入っても遅いくらいなんだぞ!!」

「おい、落ち着けよ」

 蒼に食って掛かるひとりの学生を、もうひとりの学生が宥めている。

 宥めながら、蒼をちらりと見遣る。

 その表情にも、不安の色が見え隠れしていた。

 そんなふたりを前に、蒼は厳しい表情のまま、一瞬沈黙する。

 そうして、再び口を開いた。

「僕が見込んだ学生なら、半月もあれば、あの役を物に出来る。僕が保証する」

 その言葉に、向き合うふたりは呆気に取られた顔となる。

「見込んだって…もう役者は見付かっているのか?」

「ああ。今、口説いている最中だ。まだ、良い返事を貰えていないので、君たちには言わなかったが…

舞台準備はここまで整えられているんだ。今更、退く訳にはいかない。何が何でも口説き落とすつもりだ。

彼が加われば、今までにない最高の舞踏劇になるからね。だから、あと少しだけ待って欲しい」

 蒼の熱弁に、学生ふたりは顔を見合わせる。

 先程、宥め役に回った学生が、確認するように問い掛けた。

「…信じて良いんだな」

「ああ。任せてくれ」

 自信たっぷりに頷く蒼に、ふたりは軽く肩を竦め、もう一度目を見交わす。

「分かった。蒼がそこまで言うのなら、もう少しだけ待とう」

「この舞台に誰よりも熱心なのは、君だからな。君の言を信じるよ」

 取り敢えずは、今までどおり、主役無しで舞台の稽古を進めるよ、と言い残して、ふたりは去っていった。

 

 ひとりその場に残った蒼は、肩を揺らす大きな溜め息を吐いて、くるりと振り向いた。

 そこで、心ならずも、彼らの話を立ち聞きする羽目になった風矢と、しっかり目が合ってしまう。

「あれっ?君は…」

 眼鏡を指先で押し上げつつ、目を瞬く蒼に、風矢はやや引き攣った笑みを返す。

 が、

「えぇっと、誰だっけ?」

そう問われて、思わず身体の力が抜け、芝生の上で、足を滑らせそうになってしまった。

「一年の風矢・フローベルです。貴方とは以前、二度ほど顔を合わせています」

 その二度とも、蒼が現在、夢中になっている華王と一緒だったのだ、

その他の存在に目に入らなかったとしてもおかしくはない。

 加えて、華王はあれだけの美貌の主だ、彼を前にして、

平凡過ぎるくらい平凡な容貌の風矢の影が薄くなってしまうのは仕方ない。

 最初に会った時は、華王に加えて流星もいたから、

もしかしたら、風矢の存在は、蒼の意識に全く残っていないかもしれない。

 覚悟を決めて、風矢がもう少し言葉を補足しようと口を開き掛けると、目の前で蒼がぽんと手を打った。

「ああ!思い出したよ!!君は、この前、アルジェイン君と一緒にいた学生だね」

 どうやら、言葉を補足しなくても済んだようだ。

「はい、そうです」

 風矢は内心でほっと安堵の息を吐きながら、頷いた。

「いや、ひとつのことに夢中になると、他のことが見えなくなる性質でね…すぐに気付くことが出来なくて申し訳ない」

「いいえ。それだけ、舞台に対する思い入れが深いのでしょう。傍から見ていても、良く分かります」

「そう言って貰えると有難いよ。

序でに、アルジェイン君を口説くのを手伝ってもらえると更に有難いのだけれど…流石にそれは無理か」

 そこまで言って笑った蒼は、笑顔を保ったまま、風矢に訊ねる。

「それで、フローベル君…だったかな。僕に何か用かい?」

「あ、はい。ええと…」

 風矢はどう言ったものかと考える。

「あの…先程、貴方たちの話を偶然聞いてしまって…」

「ああ、それは構わないよ。あと、僕のことは、蒼、もしくは、ブルアリュレと呼んでくれて良い」

「あ、はい。蒼さん、舞台は今現在、主役が決まらなくて、完成の目処が立っていない、

しかも、日程的にギリギリなんでしょうか?」

 風矢の問いに、蒼の笑顔に苦いものが混ざった。

「まあね。仲間には大見得を切ったけれど、正直言うと、かなりきつい状況かな」

「そんな状況で、華王さんにも舞台に上がることをきっぱり断られているのに、

代わりに演じてくれる人を探すことはしないんですか?」

「当たり前だよ。何故なら、僕の(せい)水神(すいしん)は、アルジェイン君にしか演じられないからさ」

 蒼は迷いなくきっぱりと言う。

「実は今日もこれから、彼を訪ねようと思っていてね…」

 あれから、毎日声を掛けているのだと、並々ならぬ熱意を見せる。

 風矢は、ますます蒼の創り上げようとする舞台に興味を惹かれた。

 華王にしか演じられない聖水神が主役の舞台。

それは一体どんなものなのなのだろうか?

 そこで、風矢は、気持ちの赴くままに、背の高い蒼を見上げて乞う。

「僕には、華王さんを説得する力はありません。けれど…興味があるんです。

もし、宜しければ、蒼さんの聖水神がどのようなものか、僕に教えて頂けませんか?」

 

 

 華王は、部屋の出窓に腰掛け、窓枠に華奢な身体を半分預けるようにして、外を眺めていた。

 珍しく眼鏡を掛けておらず、澄んだ灰色の瞳が露わになっている。

 開いた窓から、入り込む涼しい風が、艶やかな長い黒髪を梳き靡かせ、

戯れるように、輝く絹糸を白い制服の肩や背、胸元に散らしていく。

 そうして、部屋の中にまで入り込んだ風は、窓際の机の上で開いたままにしてあった分厚い書物の頁を次々に捲っていく。

 パラパラと頁を繰る音が静寂に満ちた室内に響く。

 その音に、華王は、一瞬、室内に目を向けるが、すぐに視線を元に戻す。

 しかし、その透明な眼差しは、外の景色そのものを見ているのではない。

 その瞳が見詰め、その耳が捉えているのは、常人には見えぬものの存在、その囁きだった。

 それらに身を委ねるように、華王は身体の力を抜き、静かに眼差しを注ぎ、耳を傾ける。

 ふと、長く繊細な睫が揺れ、華王は大きな瞬きをひとつした。

 それまで、愉しそうに華王に触れては囁く風や木々の精霊の姿が突然消える。

 時折、響いてきた鳥の声すら遠ざかる。

 近付いてくる何かに慄き、息を潜めるように気配を殺す精霊たち。

その変化を感じ取った華王は、素早く身を起こす。

 先程までの無防備な状態とは打って変わって、静かな力を細くしなやかな手足に漲らせ、すっと立ち上がる。

 目に見えないものも含めた全てを見通す瞳が、注意深く周囲に巡らされる。

…と同時に、突如、背後から伸びてきた腕に華王の細身は包み込まれた。

華王の背後にあるのは窓だ。

そして、この部屋は三階にある。

窓の外に足掛かりとなるようなものもなく、その上で、

神経を張り詰めていた華王の隙を突いて、背後に回ることなど不可能だ。

 ただし、それが人間であれば。

 華王は通常ならありえない状況を、苦もなく作り出せる相手を知っていた。

 しかし…

「どうした?私がここまでお前に近付くことを許すとは…」

「…ッ!」

 耳元で囁かれた揶揄の声音に、華王は弾かれるように身を起こす。

 反射的に、背後の身体を突き飛ばそうと腕を出すが、何も触れない。

 当たり前のことだった。

 華王は小さく舌打ちして、できるだけ距離を取ってから、背後の相手に向き合った。

「おや、やはり、随分と調子が悪いようだ。本来の力を封じているとはいえ…

どうやら、私より余程気になることがあるらしい」

 いささか妬けることだな、と笑みを含んだ声で、ゆったりと腕を組む背高い青年。

 寒気を覚えるほどに凄まじい美貌を持った青年だった。

 その人ならぬ紅い瞳に浮かぶ光は冷酷で、しかし、華王を見詰める眼差しには、

愛おしさに似た甘さと、激しい熱が秘められている。

 長い金の髪が揺らめくように煌く。

が、その反射が部屋に差し込む陽光と一致しない。

良く見ると、青年の全身は透けている。

圧倒的な存在感を示しながら、今映し出されている青年の姿は、幻影に過ぎないのだ。

そのことをつい忘れた華王は、己の失態に柳眉を顰めながら、素っ気無い口調で青年に向かって問いを放つ。

「何の用だ?」

「機嫌伺に」

「戯言を」

 切り捨てるような華王の言葉に、青年は却って愉しげに笑う。

「今日は、常より一層、発する言葉に刃がちらつくようだな…そうか。お前が今、隙を見せるほどに、

気に掛けていること…存外、私と関わりがあることではないのか?」

「………」

 不機嫌さを隠そうともせずに、押し黙る華王を一瞥し、青年は言葉を継ぐ。

「聖典の新しい解釈を基にした舞踏劇をやろうという学生がいるようだな。

堅物の神官どもには、受け容れがたい解釈であろうが…面白い。それに、なかなか的を射た解釈だ。そう思わぬか?」

 す、と動いた青年の指が華王の唇に触れるかに見えた。

が、戯れめいた指先は、紅く色付く唇に触れることなく、ただ擦り抜ける。

青年の瞳に一瞬もどかしげな光が宿るが、それはすぐに揶揄の光と取って代わられた。

華王もまた、青年の変化に気付くことなく、顔を背ける。

「聖典の真偽を俺が知る筈がないだろう」

「覚えていないか」

「そういう問題じゃない。あんたが俺を誰と勘違いしようと勝手だが、あんたの思い込みを俺に押し付けないで欲しいな」

「勘違い…か」

「ああ。もう機嫌伺は済んだだろう。さっさと消えてくれないか?長く居座られると、迷惑だ」

 顔を背けたまま、放たれる言葉に、青年は僅かに苦笑する。

「相変わらずのつれなさだ。まあ、良い。己の性質とは真逆の結界内に、こうして影を留め置くのは、確かに骨だからな。

あまり、長く居座れば、神官どもにも気取られ易い。

久々に、お前の驚いた顔も見られたことであるし…この度は、これで退散することにするか」

 そう、青年が言い終わると同時に、その姿は徐々に薄れていく。

 最後に青年の端麗な唇が、

「そう…触れられぬ幻とはいえ、久々にお前の身体をこの腕に閉じ込めることが出来たのも、なかなかに愉しかった…」

そう笑みを含んだ声音で紡いだ言葉だけが、その場に残った。

 再び鳥や精霊たちの歌う声が聞こえ始めた部屋の中で、華王は眉を顰めたまま、ポツリと呟いた。

 

「悪趣味だぞ、コウ」

 



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