聖なる水の神の国にて〜涼夏〜


少女 4

 

 見付けた。

 やっと帰って来てくれた。

 でも、彼には私が見えていないようだった。

 どうしてだろう。

 それに…

 一緒にいた人たちは誰だろう。

 そのうちの一人だけが私に気が付いた。

 とても綺麗なひと……

 あの人は彼の何なのだろう。

 以前、ここに彼が来たときもあの人はいた。

 彼は何故あの人を連れて帰って来たのだろう。

 胸に僅かな不安が過ぎる。

 しかし、それをすぐに否定する。

 そんな訳はない。

 彼は約束通り帰って来たのだから……

 早く彼に見付けて貰わなければ……

 

 

 長く手入れがされていない屋敷は、壁も窓も全体的に蔦に覆われていた。

 玄関の扉の蔦だけが取り払われているのは、興味本位で幽霊屋敷へと訪れた者たちの手によるものだろう。

 風矢(ふうや)たちもその正面玄関から屋敷へと入った。

 

 

 異常事態はすぐに訪れた。

 埃だらけの屋敷内へと入り、問題の窓のある部屋へと足を踏み入れた瞬間、風矢は言いようのない寒気に襲われた。

華王(かおう)さん…!」

 思わず呼び掛けた風矢に華王は頷く。

「来たな」

 霊が風矢の身体に入り込んだのだ。

 

風矢は霊を身体に呼び込むことの出来る霊媒体質者だ。

 霊は霊媒体質者の身体を媒介とすることで、生者と触れ合い、霊視のできぬ者にも自分の意思を伝えることができる。

 一方、直接自分の中に霊を取り込む霊媒体質者は、常に霊に身体を乗っ取られる危険に晒されることにもなる。

 事実風矢ももうすぐで霊に身体を奪われてしまいそうになったことがある。

 身体の自由のみならず、意識の自由まで奪われ掛けたのだ。

 しかし、現在はいくらか修養を積んだお蔭で、霊に入り込まれている最中も自分の意識を別に保つことができるようになった。

 霊の意志に左右されることなく、自分の身体を統制することはまだ、できないのだが……

 

 あまりに唐突に霊が入り込んだので、風矢は内心で面食らっていた。

 風矢自身が状況を理解する前に、霊は風矢の身体を使って突飛な行動に出た。

「会いたかった…!」

 愛らしい声で目の前の青年に駆け寄り、縋るように抱き付く。

 風矢は内心で凍り付く。

 そして、抱き付かれた相手は文字通り凍り付いた。

 平然としていたのは華王ただ一人。

「何だ、件の少女と知り合いだったのか?流星(りゅうせい)

「…人違いだっ!!」

 一拍おいて硬直状態から解放された流星が、声を限りに叫んだ。

 

 

 

 

 

「私貴方の言葉を信じてずっと待っていたの。気が遠くなるくらい長い間。時々貴方の言葉を疑いたくなった時もあったけれど…信じて待っていて良かった……」

 瞳を潤ませながら、少女の霊は言葉を紡ぐ。

 流星の身体に寄り添ったままで。

 しかし、実際に寄り添っているのは風矢である。

 寄り添われている流星ももちろん、身体の自由が利かず、傍観者にならざるを得ない風矢にとっても鳥肌物の情景だ。

 流星は再び硬直状態に陥り、言葉をなくしている。

 華王だけは、当人でないことに加えて、霊視によって少女の姿を直接見ているので、この気色の悪い情景による被害を受けていない。

 

 この少女はどうやら待ち人が流星であると勘違いしているらしい。

 そう華王は解釈し、流星に寄り添う風矢…ではなく霊の少女を見詰める。

「君は彼とどんな約束をしていたんだ?」

 問われた少女は、華王を警戒するように一層強く流星にしがみ付く。

「…貴方は誰?」

「ああ、すまない。まだ名乗っていなかったな。俺は華王」

 華王は少女の緊張を解き解そうとするかのように優しく微笑む。

 しかし、男女問わず見惚れてしまう華王の綺麗な笑みに、少女はますます身を硬くする。

「…貴方はこの人の何なの?」

「何って…友人だよ」

「本当に…ただのお友達…?」

 この会話を不本意ながらも傍で聞いていた風矢は少女が何を警戒しているのか、すぐに分かった。

 

 華王を女性だと勘違いしているのだ。

 少女の言葉から察するに彼女の待ち人は恋人なのだろう。

 やっと帰ってきた恋人が、目の醒めるような美人を連れているのだ。

どうしてもその関係を問い質さずにはいられないだろう。

 無理もない。

 

 しかし、自分の容姿に全く無頓着な華王は、少女の気持ちに気付かない。

「友人以外の何だというんだ?」

 やや戸惑ったように警戒を解かぬ少女に逆に問い掛けている。

 

華王さん、鈍過ぎです……

 

風矢は内心で溜息をつく。

「この人と想いを交わした仲ということはないわよね?」

 少女が焦れたように、先程よりはっきりと彼と恋仲なのかどうかと尋ねた。

「想いを交わした仲…?」

 はらはらしながら見守る風矢に気付く筈もなく、華王は少女の発した言葉を繰り返す。

 やや間を置いて華王はやっと合点が入ったというように目を輝かし、次いで軽い声で笑い出した。

「違うよ。俺はそんな者じゃない。第一俺は女じゃないよ」

 笑いながらそう言った華王に少女は驚く。

「えっ、私はてっきり……どうしましょう、私ったらとても失礼なことを言ってしまったわ…」

「大丈夫だ。気にしてない」

 頬に手を当てて動揺する少女に華王は穏やかに笑み掛ける。

 場は一転して和やかな雰囲気となる。

 

 …が、風矢は自分の身体でもって示される少女の仕種に頭を抱えたくなった。

 これ以上自分が愛らしい少女の仕種をするのには耐えられそうもない。

 風矢はひたすら華王が少女を説得して、一刻も早く自分の身体から離れてくれるよう念じる。

「君は流星を待っていたのか?」

 華王の問いに少女は怪訝そうに眉を顰める。

「流星?…誰のこと?」

「今、君がしがみ付いている奴のことだ」

 少女は傍らの青年を見上げ、再度華王へと目を遣った。

「違うわ。彼は流星なんて名前じゃない。流星なんて人は知らない」

 

「人違いだ」

 自分のすぐ傍で発せられた言葉に少女は振り向く。

 やっと二度目の硬直状態から逃れたらしき流星が、さりげなく少女の乗り移った風矢の身体を引き剥がす。

「…嘘よ。嘘だわ。約束してくれたでしょう?必ず迎えに来てくれるって。私を幸せにする為にはもっと自分を磨く必要がある。時間が掛かるかもしれないけれど、貴方のお父様に認められ、無事に家を継ぐことが出来たら必ず私を迎えに来ると。私はその言葉だけを信じてずっとずっと待っていたのよ。貴方でしょう?私が待っていたのは貴方だわ!!」

「俺は違う」

 言い募る少女に流星はきっぱりと告げた。

「彼の名前は?」

 華王の問い掛けに少女は途方に暮れた眼差しを向ける。

「彼の…名前……彼の名前は……」

 

 おかしい。

 こんなに待ち焦がれた恋人の名前が出てこない。

 

 知らず頭に手を遣る少女の応えを待たずに、華王は次の問いを投げ掛ける。

「君の名前は?」

 少女は目を見開いた。

 

 出てこない。

 彼の名前も。

 自分の名前さえも。

 確かに私はここで彼を待っていたのに。

 彼の顔もはっきり覚えているのに。

 それは目の前にいる青年だと思ったのに。

 でも、違う?

 この人は彼ではない?

 私は誰?

 誰を待っていたの?

 

「君は本当に随分長い間待ち続けていたんだな。相手の名前も、自分の名前をも忘れ去ってしまうほどに」

 少女は最早混乱の極みにあった。

 彼女は自分が既にこの世にいない存在であることも忘れ去っていたのかもしれない。

 しかし、彼女に真実を伝えることを躊躇う訳にはいかない。

 華王は止めの言葉を口にした。

「君は知っているか?自分が既に死した存在であることを。今君は生者に取り憑き、その者を媒介として俺たちと話をしている」

「……そ…んな……そんな……!」

 少女は両手で顔を覆った。

 

 と、ふいに身体が軽くなった気がして、風矢は目を瞬いた。

 次いで自分の意思に従って動く身体に気付く。

 少女の霊は華王の言葉に衝撃を受けて、この場から逃げるように去ってしまったらしい。

「風矢。大丈夫か?」

「はい」

 気遣う華王に応え、風矢はひとまず溜息をつく。

 しかし、問題は解決していない。

 少女はこの場を一時的に去っただけで、天に還った訳ではないのだから。

 しかし、何とも気まずく不快な状況である。

 風矢が正気に戻った時点で、風矢、流星の双方ともが反射的に互いに距離を置く。

 少女が取り憑いていた間の自分の言動を思い返すだけでも、あまりの気味悪さに鳥肌が立つ。

 離れた場所で、夏だというのにひたすら腕をさすっている流星もそうなのだろう。

 風矢としては金輪際あの少女に身体を貸すのは遠慮したい。

 だが、霊が風矢の意思を無視して入ってくる限り、この切実な願いが叶えられるかどうかは難しいところだ。

 結局少女の霊による被害を全く受けていないのは華王だけである。

 

「さて、件の少女と話をすることはしたが、まだまだ情報が足りないな。彼女の名前も分からないし」

 まだ、気持ちの整理の付かない風矢たちを置き去りに、華王は次の算段を考えるようだ。

「正統的に家捜しでもするとしようか。ほら、二人ともぼさっとしてないでさっさと取り掛かろう」

果たして家捜しを「正統的」と言って良いものかどうか頭の片隅で悩みつつ、風矢は颯爽と部屋から出て行く華王をこのときばかりは恨めしく思ってしまった。



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