聖なる水の神の国にて〜涼夏〜


   少女 3

 

 夜。

 華王(かおう)は一足先に、問題の幽霊屋敷へとやって来ていた。

 主を失った屋敷は、周りの森に包まれるようにしてあった。

 黒い影のように聳える木々に囲まれた屋敷の外観は、大の男でも身震いして逃げ出してしまうほどの雰囲気を漂わせている。

 しかし、華王は平然と屋敷を見上げている。

 その様は闇を従えて立つ夜の神、或いは森の精霊のようだ。

 その傍らには、華王と同じく平然とした流星(りゅうせい)がいた。

 昼に一旦別れた二人であったが、夜になって一人で屋敷に向かおうとしていた華王を、流星は森の入口で待ち伏せしていたのだ。

 

「お前は別に来なくても良かったのに」

「何、夜は暇だったからな」

「お前にしては珍しい」

「フローベル領にはあんまり遊ぶ場所がないんだよなあ…」

 流星のぼやきに華王は小さな笑みを零す。

「なるほど。遊ぶ場所自体がなければ、夜遊びしたくてもできない。神官長はいい合宿場所を選んだという訳だ」

「…やっぱりそれもあいつの策略のうちか」

流星はちっと舌打ちする。

が、すぐに気を取り直したように、傍らの華王の顔を覗き込み、にやりとする。

「ま、そんな訳で、お前に付き合ってやることにした訳だ。つくづく優しいね、俺も」

「単なる暇つぶしだろうが」

「当たり」

 悪びれずに言う流星の隠された気遣いを悟り、華王は先程とは違う笑みを零した。

「有難う」

「お前には余計な気遣いかもしれないけどな」

 素直な感謝の言葉に、流星は髪を掻き上げ、僅かに照れを滲ませた声音で応えた。

 

「で、当然俺には分からんが、見えるか?」

「はっきりとは分からない。だが、いる(・・)のは確かだ」

 桜花は蔦に覆われた屋敷の窓の一つを見る。

 次いで、呟くような声で言った。

「…俺たちに気付いた?」

 もっとよく見ようと、華王は眼鏡を外す。

 澄んだ灰色の瞳を露にして、件の窓を見据えるが、すぐに溜息をつく。

「駄目だな。淡くて捉えられない。もっと良く見ようとすると、周りの気配に紛れてしまう」

「この森にいる精霊とかの気配の方が強いっていうことか」

「ああ。俺の能力が制御できないからということもあるが」

 再び、能力を制御する為の眼鏡を掛け直す華王の様子を流星は眺める。

()え過ぎる能力は大変だな」

「全くだ」

 流星の言葉に軽く応えた華王は、もう一度淡い気配を追うように、目線を屋敷の窓の上に彷徨わせる。

「いるか?」

「いや、もう隠れてしまったようだ。しかし、強い恨みの念は全く感じなかった。確かにこの霊が人に害を成す存在である訳がないな。しかも、あれほど淡い気配だ。放っておいても、そのまま消えてしまうだけだろうな」

 しかし、それは消滅することであって、天に還ることとは全く違う。

「急がなければならないということか」

「そうだ」

 流星の確認の言葉に華王ははっきりと頷いた。

 取り敢えず、今夜はこれで退散することにしようと、二人は身を翻す。

 

 そのとき。

「……!」

 流星は急な寒気を感じて立ち止まる。

 まるで、誰かの腕が背後から首に巻き付いてくるかのような感触を覚える。

 華王は彼の前を歩いている。

 その華王が振り向いて、怪訝そうに首を傾げた。

「どうした?流星」

「いや、ちょっと寒気が…」

「風邪でも引いたのか?気を付けてくれ」

「ああ…大したことないさ。今は何ともない」

 一瞬霊の仕業かと考えたが、その気配を一番に感じ取ることが出来る筈の華王は何の反応も示していない。

 ならば、気のせいだろう。

 華王の言う通り少し風邪気味なのかもしれない。

 流星は自らが感じた寒気をそう結論付けた。

 

 

 

 

 

「済みません!!遅れました!」

 昨夜遅くまで空羽(くうう)と話し込んでいた所為で、寝坊をしてしまった。

 慌しく下草を踏み分ける音を立てながら、風矢(ふうや)は屋敷前に到着する。

「…って、あれ?流星さんは?」

 屋敷前で待っていたのは華王ただ一人。

 間違いなく自分が最後だと思っていたのに。

 風矢は周りを見回す。

 木々の間を擦り抜ける微風に、細い髪を揺らせながら、華王が振り返った。

「ああ、流星なら」

 そう言って、顔は風矢の方に向けたまま、手にしていた木の実をここから少し離れた茂みへと投げる。

 その途端、茂みから悲鳴が上がる。

「「待ちくたびれた」なんぞと言って寝てるんだ。大して待ってもいないのにな。流星、二度寝の時間は終わりだぞ。昼寝にはまだ早い」

「まったく、酷い扱いだぜ」

 流星が文句を垂れつつ、がさがさと音を立てながら、茂みから出てくる。

 茂みから出たところで、身体に付いた緑の葉を叩いて落とす。

 その手には先程華王が投げた木の実があった。

「さっき、ここへ来る途中で見付けたんだ。美味いぞ。ほら、お裾分け」

 そう言って、華王が風矢の手に一つ二つシャツのポケットから出した木の実を手渡す。

「あ、有難う御座います」

 そうして、華王は風矢に木の実を握らせながら、風矢の顔を覗き込むように見上げる。

 風矢は間近でみる華王の美貌に胸が高鳴った。

「昨日は家族水入らずで過ごせたか?」

 少し悪戯っぽい表情で自分を見上げる華王に見惚れつつ、風矢は微笑んで頷く。

「ええ、父とはあまり話せなかったんですが、母と…それに兄とはたくさん話しました。今まで伝えられなかったことも含めて。楽しかったです」

「そうか」

 風矢の言葉を聞いて、華王も自分のことのように嬉しそうに笑った。

 しかし、華王はそれ以上突っ込んだことは訊かない。

 

 細い腰に手を当て、目前の屋敷を見上げる。

「風矢はこの幽霊屋敷のことは知っていたのか?」

「はい、噂では聞いていました。でも、来たのは初めてです。こういった類の噂は何処の地方にもあるものですし、殆ど気にもしていませんでした。先日神官長に言われてやっと思い出したくらいです」

「そうか」

「見えるか?」

 手早く木の実の殻を取り去って、中味を口に放り込みながら流星が尋ねる。

「ええっ、まだ昼にもなっていないんですよ。そんな早くから出てくる訳ないじゃないですか」

 流星の問いに華王が応える前に、風矢が口を挟む。

「何だ、風矢。もしかして怖いのか?」

「流星さんほど神経太くないんで!」

 図星を差されたらしい風矢の憎まれ口に傍らの華王は笑う。

「俺も神経が太いという訳か」

「っ、華王さんは違いますよ!流星さんみたいに神経が図太いんじゃなくて、冷静で落ち着いているんです!より知的って言うか…」

 慌てて言葉を足す風矢に、こき下ろされっぱなしの流星は眉を顰める。

 もちろん、本気で気分を害している訳ではない。

「随分差を付けてくれるよな」

「事実です」

 つんとそっぽを向きつつ、そう言い放った風矢は、ふと生まれ掛けていた恐怖が今の言い合いで、霧散していることに気付いた。

 ときどき流星はこうして風矢をからかう振りをしながら、風矢の中に巣食う不安を取り去ってくれる。

 風矢は何時も華王や流星にこうして気を遣ってもらい、助けてもらっている。

 

 何時までもして貰うばかりではいけない。

 せめて貰った分を返せるようにならなければ。

 これが、今の風矢の密かな目標の一つであったりする。

 

「昨夜、眠れなかったのか?」

 華王がまだ眠そうにしている流星に、それとなく訊ねる。

 流星は欠伸をしつつ応えた。

「ああ…あんまり夢見が良くなくてな…」

 昨夜、何度も繰り返された夢はそれ程明確なものではなかった。

 むしろ、ぼんやりとした印象を残す夢だった。

 

 自分に向かって縋るように差し伸べられる白い腕。

 その腕の持ち主は、流星が見たこともない少女だ。

 何事かを彼に懇願しているようなのだが、彼女の声は全く聞こえない。

 

 夢の内容を思い出し、流星はふと真面目な顔になる。

 夢の内容を聞いた華王が口を開く。

「知らない少女、か。お前が付き合ったことのある女性を忘れている訳ではないんだな」

「流星さんなら如何にもありそうですね」

 横で話を伺っていた風矢が口を挟む。

 二人の言葉に、流星は大袈裟に眉を顰める。

「失敬な。あの子みたいな型は、俺の対象じゃない。それに俺は付き合った女性を忘れるような薄情者じゃないぞ」

「ふうん」

「そうなんですかぁ?」

「こら、二人揃って疑わしそうな顔をするんじゃない!」

 

 一通り三人でふざけあった後、

「で、どうなんだ?昨夜に比べて」

言い合いに紛れて応えを得られなかった質問をもう一度流星が口にする。

「えっ、二人とも昨夜ここに来たんですか?」

 風矢が驚いて口を挟む。

「ああ、時間があったから。事前調査みたいなものだ」

「そんな…言って下されば僕も…」

「はいはい、文句は後で。話が続かないだろう?」

 言い募ろうとする口を後ろから流星に片手で塞がれて、やっと風矢は口を噤む。

「勝手なことをしてすまなかった」

「…いいえ」

済まなそうに苦笑する華王に、風矢は首を振る。

「それで、昨夜に比べてどうなんでしょう?」

自らが断ち切ってしまった質問を風矢が代わりにすると、華王は二人に頷いて見せた。

「ああ、見える。淡い気配だが、昨夜に比べてはっきりと捕らえられる」

 昨夜よりも気配が強くなったようだ。

 流星が肩を竦める。

「どういうことなんだろうな」

「さあ、今のところは分からない」

 簡潔に応えた華王の瞳は、蔦に覆われた屋敷の幾つも並んだ窓の一つに注がれている。

 風矢と流星もその窓に目を凝らすが、当然ながら、何も見えない。

 霊視ができるのは華王だけだ。

「とにかく、話してみようじゃないか」

 そう言って、華王は屋敷の玄関へと歩み出した。



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