聖なる水の神の国にて〜涼夏〜
少女 2
「風矢様、お帰りなさいませ」
「お荷物はどちらに」
屋敷の正面玄関に辿り着くと、数人の侍女が出迎えた。
風矢は黙したまま、突っ切るように屋敷内へと入る。
出迎えに出た侍女らは、滅多に見ない風矢の不機嫌な様子に目を瞬く。
「風矢様、如何なさいましたか?」
玄関ホールで出迎えた古参の執事も、風矢の様子に目を丸くして尋ねる。
「…別に」
風矢は依然として不機嫌丸出しのまま、二階の自室へ上がろうと、緩い螺旋階段を登る。
「風矢」
耳に懐かしい落ち着いた声音が頭上から降ってきて、風矢はやっと顔を上げた。
「空羽」
てっきり出掛けているものと思っていた兄を目の前にして風矢は言葉をなくす。
心の準備が間に合わない焦りと、わだかまる苛立ちとがない交ぜになり、どのような顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、分からなくなる。
何とも表現し難い感情そのままに、曖昧な表情を浮かべる風矢を前に、空羽は穏やかな笑みを浮かべる。
「久し振りだね、風矢。元気だったかい?」
「…ああ、うん」
「でも、何の前触れもなく帰って来るものだからちょっとびっくりしたよ」
「…ごめん」
何処かたどたどしく応える風矢を、空羽は首を傾げて眺める。
「どうしたんだい?」
「えっ、何が?」
「さっき屋敷へ入ってきたとき、随分と不機嫌そうな顔をしていた」
「ああ、あれは…」
空羽に指摘されたことによって、風矢は戸惑いから抜け出し、抱えていた感情のうちから、まず苛立ちを優先させる。
「ここまで一緒に来た友人に、うちの使用人がとんでもなく失礼なことを言ったから…!乗ってきた馬車が、貴族が何時も使うものとは違うからといって…それを選んだ友人まで見下すような態度をとって…どんな馬車だろうといいじゃないか!仮にもフローベル伯爵家に仕える者が、あんな差別紛いの言動をするなんて情けない…!」
「風矢」
「あの人たちのことを欠片も知りもしないくせに…!」
「風矢」
二度目の呼び掛けで風矢はやっと我に返る。
「…ごめん」
空羽は少し驚いた顔をしている。
しかし、丸くなっていた目は、すぐに優しく細められた。
「謝らなくていいんだよ。そんな風に怒っている風矢を見たのは珍しいから、少し意外に思っただけなんだ」
指摘されて風矢は目を瞬く。
「そう…なのかな」
「そうだよ。以前の風矢はあまり感情を表に出さなかった。感情のままに大声を出すこともなかったしね」
…そうだっただろうか。
自分ではそれほど自覚していなかったのだが。
しかし、今の自分の様子を見て、空羽だけではなく、使用人たちも驚いていたことを思い返し、そうだったかもしれないと考える。
そんな人々にとって今の自分の姿は見苦しいものであったかもしれない。
「ごめん…」
やや肩を落として謝ると、空羽は穏やかな表情のまま、首を傾げる。
「何を謝るのかな?悪いことではないよ。以前の風矢は何処か自分の感情を押さえ込んでいる節があった。無理に僕たちに合わせようと…「大人」になろうとしていた。僕たち家族の前でまでもそんな風に振舞わなくてもいいのにね。正直僕はそれをもどかしく思っていたよ」
兄の言葉に風矢は驚く。
知らなかった。
兄がそんな風に自分を気に掛けていてくれたこと。
自分が無意識の内に感情を押し殺していたことも。
以前の自分はただ、父や兄の迷惑にならぬよう、重荷にならぬよう、そればかりを気に掛けていた。
それが、兄がもどかしく思うほど感情を表さない自分を作り出したのだろうか。
これも兄と自分との間に壁ができた因の一つであったのかと、風矢は新たに気付かされた。
「…これからは無理しないよ」
「そうだね。そうして欲しい。君はもっと我儘になっていいんだよ」
「そんなこと言ったら、収拾つかなくなるかも」
「いいよ」
「空羽は甘いなあ」
「聞き分けの良い弟を持つ兄は、こうなるんだよ。弟を甘やかしたくて仕方なくなるんだ」
そう言って空羽は笑う。
風矢も笑った。
初めて、心から笑い合ったような気がした。
「風矢が素直になれたのは、学院で出会った御友人のお蔭かな?」
「そうかな…そうかもしれない」
「もしかして今日一緒に来たという人たち?」
「うん、明日連れて来るから、紹介するよ」
「そうか、楽しみだね」
「驚くかもしれないよ」
その言葉に首を傾げる空羽に、風矢は笑うだけで応えなかった。
次いで風矢は空羽に先程とは違う、照れたような笑みを向ける。
「あのさ、空羽」
「何だい?」
「僕は空羽を尊敬してる。空羽みたいになれたらいいなって思ってる。前は僕には無理だって勝手に決め付けて諦めてたけど…でも、頑張るよ。空羽と一緒にフローベル家を盛り立てていくことができるように。空羽の頼もしい助けになれるように」
「風矢…」
「だからさ、もし何か迷うようなことがあったら、空羽も僕に相談して欲しいんだ。今は頼りにならないかもしれないけど…でも、今できる限りの力で精一杯助けるから」
言い募る風矢の顔が紅くなっていく。
「ごめん、急に変なこと言って。でも、ずっと考えてたことだから。恥ずかしかったし、自信もなかったから、今まで言いそびれてたけど…伝えられるときに伝えておきたかった。これが僕の正直な気持ちだから…」
顔を紅くしたまま、俯いてしまった風矢の肩を空羽はそっと抱き寄せた。
「…風矢。有難う」
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