聖なる水の神の国にて〜涼夏〜
少女 1
風矢たち三人は森の中の長い小道を歩き、神殿と神学院を包む森を外界と分かつ高い塀付きの厳重な門をやっと潜り抜けた。
門番に学生証を提示する。
そうして出てくる学生たちを待ち受けるように、門の外では馬車が待ち受けていた。
家からの迎えの馬車もある。
大部分が貴族の子弟である学生たちを待ち受ける馬車は、華麗な飾りを施された扉や覗き窓付きの箱型の高級馬車だ。
風矢たち三人は華王を先頭として、それらの馬車の間を通り過ぎ、やや離れた場所にある馬車乗り場まで歩いていく。
門の外で待つ馬車に比べて大分地味な造りの幌付き馬車に乗った。
こうした幌馬車は、専ら中流階級の人々の利用する馬車であり、風矢が初めて乗るものだった。
その乗り心地の悪さに風矢は驚く。
「随分揺れるんですね」
思わずそう言った風矢に、華王は首を傾げる。
「そうか?そんなに揺れる方じゃないと思うが。幌付きだし」
風矢と同じ貴族の子弟である筈の流星は、お忍びでよく使うのだろうか、揺れる馬車の縁に頬杖をつき、平然としている。
華王も同様で、親しげに御者と世間話までしている。
こうした何気ない場面においても、二人に比べて風矢は知らないことが多いということに気付かされる。
例えば、この幌馬車の乗り心地。
華王はきっと幌さえもない馬車の乗り心地まで知っているのだ。
自分は知らないことが多過ぎる。
二人と知り合うまで自分が無知であることさえ知らずにいた。
貴族の子弟として生まれ育った屋敷とそれを囲む領地の僅かな領域と神学院、神殿。
風矢を取り囲む世界の全て。
それが随分と狭い世界であることに、今更ながら気付く。
彼らと出会わなければ、自分の隠されていた能力に気付かなければ、気付かなかったことだ。
彼らと出会い、関わっていくことで、風矢は自らの目が開かれ、新しい世界に出会えるような、そんな気がしていた。
それは何も外面的なことに限ったことではなく……
「風矢。少し緊張しているか?」
華王の問い掛けに物思いに沈んでいた風矢ははっと顔を上げる。
「いいえ、そんなことありません」
反射的に応えてから、少し考え、言い直す。
「いえ…やっぱり少し緊張しているかもしれません。兄に会ったら何を言おうか、そんなことばかり考えています」
以前までは只無心に尊敬し、見上げるだけの存在であった兄、空羽。
それが、神学院入学後の除霊騒ぎにおいて、風矢は兄の今まで知らなかった一面に出会った。
風矢に取り憑き、命まで脅かした霊。
その正体が、増幅されたものとはいえ、兄が抱く嫉妬や羨望を核としたものであったことは、風矢にとって衝撃的なことであった。
完璧に見えた兄が他人を、華王や流星、この自分までをも、羨んでいたという事実も衝撃的なことではあった。
しかし、そんな兄の気持に気付きもせず、自分を貶め、自分の理想そのままに兄を別格の領域に持ち上げていた自分の態度、自分が無意識の内に兄と自分との間に壁を造っていた、そのことに否応なく、気付かされたことが風矢にとっては何よりも衝撃だった。
風矢の中で美化した兄の理想像を押し付けられて、兄はそれが重かったのではないだろうか。
その疑問は今もずっと風矢の中で渦巻いている。
そんな風矢の思いを読み取ったかのように、華王は微笑む。
「思った通りのことを言えば良い。今までお前が空羽のことをどう思っていたか。それが今はどう変わったか。それらをひっくるめて今も、空羽を尊敬してるって。愛してるってね」
「「愛してる」だなんて!…そ、そんな正面きって言えませんよ!」
「…赤くなるようなことか?」
「風矢はお前みたいに正直に気持を言える性質じゃないんだろう。だから、妄想癖が激しいんだろうし」
「流星さん、妄想癖の件は余計です」
二人の話を聴いていたものか、珍しく風矢に助け舟を出した流星が余計な一言を付け加えたのに、風矢はすかさず突っ込みを入れる。
華王はちょっと考えるように首を傾げ、再び微笑む。
「まあ、そこまで言えなくても、そんな気持で以って接すれば良いんじゃないか?」
風矢はその言葉をゆっくりと噛み締める。
「…そうですね。出来る限り正直に。そうすれば、気付かないうちに壁ができてしまうこともないかもしれない」
「そうそう」
無邪気に笑む華王を見て、風矢は思う。
華王に接するときのようにすれば良いかもしれない。
この人には、飾り立てた言葉や、誤魔化しは通用しないから。
気付いて欲しい好意に気付いて貰えないのが厄介ではあるけれど。
その点、空羽の方が血の繋がった兄弟でもあるし、気持が伝わり易いかもしれない。
そう考えて、可笑しな話だが、風矢は随分と気が楽になったのである。
馬車は三人を乗せて、ようやく風矢の見知った道へと入る。
この道を抜ければ、フローベル伯爵家の敷地まではすぐである。
濃い緑の葉に彩られた木々が道の両側から枝を伸ばし、ささやかな日陰を作る。
家から離れてまだ数ヶ月しか経っていないのに妙にこの道が懐かしい。
同時に初めて訪れる場所のような、胸の高鳴りも覚える。
それはここを初めて訪れる二人の同行者がいる所為なのかもしれない。
風矢はちらりと横に座る同行者を見遣る。
彼らは、もちろん風矢も含めて、見慣れた学院の制服姿ではなく、私服姿である。
風矢は貴族の子弟らしく、整った質の良い刺繍入りのシャツと薄手の上着を纏っている。
それに対して流星は風矢と同じく質が良い衣服を纏いながらも、既に襟飾りの付いたシャツを着崩して、上着も座席に投げ出している。
薄い金色の髪も相変らず結わずに垂らしたまま。
手摺に肘を付いたまま、大欠伸をしている。
貴族の子弟らしからぬ仕種は、常と変わらない。
華王は三人の中で一番質素な装いである。
刺繍や襟飾り一つない無地の白いシャツに、制服に似た足にぴったりとしたズボンを身に着けている。
それらはお世辞にも質の良いものとは言えない。
それも当たり前のことかもしれなかった。
彼は奨学金を受けている留学生だ。
そんな彼が貴族の子弟であるとはまず考えられない。
しかし、華王の装いは、彼の身の内から滲み出る気品に助けられ、簡素ではあってもみすぼらしくは映らない。
木漏れ日が華王の白いシャツを、その色に負けぬほど白い美貌をまだらに染める。
馬車の揺れにあわせて揺らめく光に、艶やかに輝く漆黒の髪。
光と共に揺れる葉影を透明に映す灰色の瞳。
それらに飾られるだけで、華王の姿は充分高貴に、麗しく見える。
内側から輝くような美しさとはこのことを言うのかもしれない。
それでも、あまりに飾り気のない装いに風矢はやや不満を覚える。
やはり、着飾った姿も見てみたいというのが正直な気持だ。
今、風矢が着ているような服でもいい。
ほんの少し装うだけでも、華王の美貌はより引き立てられ、風矢より余程貴族の子弟らしく見えるに違いない。
いや、王族といっても通用するのではなかろうか。
風矢が例のごとく想像の翼を広げている間に、馬車は緑の屋根に覆われた道を過ぎ、小高い丘の中腹へと辿り着いた。
行く手を遮るように、堅牢な塀と門とが立ちはだかる。
フローベル伯爵家の門だ。
丘の頂上付近に茂る森の木々の合間から屋敷の屋根が垣間見える。
丘の中腹から頂上に掛けては、フローベル家の敷地となっている。
この門を過ぎると、森の小道というよりは広めに整えられた緩い傾斜の道が、真っ直ぐに伸びている。
丘の頂上に構えた屋敷の正面玄関に辿り着くにはまだ、距離がある。
通常なら、門番に顔見せをして、門内にそのまま馬車を乗り入れさせるのだが…
「風矢様!」
門の前で馬車が止まるのとほぼ同時に、門内から風矢の見知った若い使用人が走り出てきた。
屋敷で遠乗り用に飼っている数頭の馬の世話を専らの仕事としている馬屋番の若者だ。
「お帰りなさいませ!先程外へ買い物に出ていた者が、風矢様のお帰りを知らせてきたばかりなのですよ。前もってお知らせ下されば、お迎えにあがりましたのに」
「ただいま。迎えなんて大げさなことはしなくていいよ。だから、こうして馬車を拾って帰ってきたんだ」
そうして、風矢は彼に示すように傍らの華王と流星を見遣った。
「一緒にお客様を連れて来たんだよ。学院の先輩なんだ」
歳若い使用人はまず、風矢たちの乗る馬車を見、それから風矢の傍らにいる二人を見た。
一瞬華王の美貌に驚いたような様子を見せたものの、その質素な装いを眺め、次いで仕立ての良い服を貴族らしくなく着崩した流星の姿を見た。取り繕うことなく眉を顰める。
「風矢様、こちらの馬車は風矢様御自身でお拾いになったもので?」
「いいや、違うけど…」
ますます使用人の眉が顰められた。
「やはり私共がお迎えに行ったほうが良かった。この馬車は中流階級が使用する馬車ですよ。仮にもフローベル伯爵家の御子息であられる方がこのようなみすぼらしい馬車に乗ってはなりません。風矢様は御友人が選ばれた馬車だからと気にもしてはいらっしゃらないでしょうが、フローベル家の対面というものもあります。御友人もその点を考えて…」
「止めないか!」
明らかに風矢の連れてきた「友人」を侮った使用人の言葉を風矢は厳しく遮る。
「それ以上、僕の友人に無礼な口を利くのは許さない!」
風矢が感情も露わに怒鳴るのを初めて見た使用人は、驚いて言葉を失う。
風矢はそんな使用人には目もくれず、華王たちに向き直り、頭を下げる。
「すみません!華王さん。流星さん。うちの使用人がとんでもなく失礼なことを…!」
フローベル伯爵家の権威を笠に着て、中流階級以下の者を侮る使用人に対する怒りと、そのような選民意識を伯爵家に仕える使用人にまで抱かせている事に気付かなかった自分に対する情けなさ、華王たちに対する申し訳なさに胸を塞がれ、風矢もまた言葉をなくす。
対する華王と流星は淡々としたものだ。
「気にしてないよ。だから、風矢が謝る必要はない」
「まあ、良くあることだしな」
「でも…」
悲痛な表情を緩めることのできない風矢に、華王は屈託ない笑みを見せる。
「風矢は細かいことを気にし過ぎだ。当事者である俺たちが気にもしてないことにまで気を遣う必要はないだろう?」
流星も横目で元凶である使用人を軽く一瞥し、唇に不敵とも見える笑みを浮かべる。
「多少嫌味なことを言われたところで俺たちには痛くも痒くもないってことさ」
その言葉に使用人は身を硬くし、彼の視線を避けるように目を伏せる。
そうまで言われては風矢だけがこの件に拘る理由がなくなる。
風矢は溜息をつく。
そうして、気を取り直して、
「それじゃあ、行きましょうか」
と、華王たちに声を掛けたところで、
「あ、悪い。今日は風矢の家に伺うのは遠慮したいんだ」
「俺も」
と、断られてしまった。
「どうしてですか?」
やはり、機嫌を損ねてしまったのだろうかと眉を顰める風矢の頭を華王は軽く叩く。
「違うよ。個人的な用があるんだ。明日、問題の屋敷で落ち合おう。風矢の家にはその後にでも、伺わせて貰う。今日一日はゆっくりと家族水入らずで過ごすといい。せっかくの機会なんだから、それを無駄にするな」
その言葉で風矢は華王の気遣いにやっと気付いた。
流星は何も言わない。
しかし、黙っているということは、彼も華王の気遣いに付き合うつもりであるということなのだろう。
風矢はその気遣いに感謝をしつつも、やはりそこまで気を遣わせてしまうことに対する申し訳なさを感じてしまう。
使用人に失礼な発言をさせたことも依然として、胸にわだかまっている。
「…すみません」
「だから、謝るなよ。風矢は謝り癖でもあるのか?」
華王は苦笑する。
「妄想癖に謝罪癖か。鬱陶しい性癖を二つも持ってる訳か、風矢君は」
「…いかがわしい言い方は止めて下さいよ」
流星の茶化すような物言いで、風矢はやっと何時もの調子を取り戻すことが叶う。
再度気を取り直して、二人に言う。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。お二人はこの馬車をそのままお使い下さい。僕はここで降りますので」
「いいのか?」
「ええ。馬は引いてきているんだろう?」
風矢は背後の使用人に確認する。
肯定の言葉を背後に聞き、華王たちに向き直る。
「僕は馬で行きますので」
「そうか。分かった」
風矢は馬車を降り、二人と明日落ち合う時間を取り決める。
「それじゃあ、明日に」
別れの言葉を後に残して、二人を乗せた馬車は丘を下っていく。
華王たちと別れ、元凶であるところの使用人と二人で残されたことで、風矢の腹立たしさは再発する。
「馬は」
不機嫌さも露わにぶっきらぼうに問うた風矢に従い、使用人は黙ったまま馬を引いてきて、代わりに風矢の荷物を受け取った。
礼も言わずにその馬に跨ると、後に付いてくる使用人を無視したまま、馬を走らせた。
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