聖なる水の神の国にて〜涼夏〜
想い 4
華王から順に先日少女が現れた部屋へと入る。
窓を覆う蔦の間から差し込む僅かな月明かりのみに彩られた部屋は暗い。
初めて現れた時とは打って変わって、少女はここ数日、華王にその気配さえ感じさせなかった。
しかし、今日は違った。
華王は少女がこの部屋にいることを敏感に感じ取っていた。
「鈴音・メライズ嬢?」
天井の隅を見詰めて静かに呼び掛ける。
そうしてしばらく待つと、風矢の身体に霊に乗り移られる直前の寒気が訪れる。
が、それはすぐに弱まった。
風矢にはただ、自分のすぐ傍に佇んでいるだろう少女の霊の気配だけが感じられた。
どうしたのだろう。
風矢は内心首を傾げたが、少女の姿が見えている華王には、少女が乗り移ることを躊躇っているのが分かった。
「大丈夫だ、風矢は承知している。このままでは、君は俺としか話ができないだろう?俺たちは君と話がしたいんだ」
「話をする少しの間くらいは我慢できるよ」
華王の言葉に頷きながら、風矢は言葉を添える。
流星はただ、華王の視線の先を見詰めている。
少女は華王、風矢を順に見遣り、最後に流星を見詰めた。
「風矢」
「はい」
華王の呼び掛けに強く応えると同時に寒気が蘇り、風矢の身体に少女がゆっくりと入ってくるのが感じられた。
風矢は意識を保ちつつ、少女に自らの身体を一時的に明け渡す。
「鈴音・メライズ嬢?」
華王が確認するように再び呼び掛ける。
風矢に乗り移った少女は溜息をついた。
「そう、そうね。そんな名前だったかもしれない……」
「この前はすまなかった。急に変なことを言って驚かせてしまっただろう」
華王の言葉に少女は首を振る。
そうして、僅かに笑みを浮かべた。
「謝ることなんてないわ…だって本当のことなのでしょう?…ふふ、貴方、面白い人ね。こんな化け物に普通の人のように接してくれる……」
「君は化け物じゃない」
「そうかしら?でも、今まで私の姿が見える人はみんな私を恐れたわ。一目見るなり逃げ出して。……私の話を聞こうとさえしてくれなかったわ……」
そう、ただ聞いてくれるだけで良かったのに。
そんなことさえ、今まで誰もしてくれようとはしなかった……
切なげに呟いて、一瞬少女は沈黙し、再び口を開いた。
「この前…いいえ、昨日だったかしら……ごめんなさい、何時だったかはっきり分からないの……けれど、貴方の言葉を聞いてから、良く考えてみたの。そして思い出したわ。自分がとっくの昔に死んでいたということに。……でも、おかしいのよ。私の名前。あの人の名前…あの人の顔……大切なものに限ってはっきりと思い出せないの。私はずっとずっとあの人を待っていたのに………待っている間にこんな化け物になってしまったから、人間であったころの記憶が曖昧になってしまったのかしら…?それとも、私は自分で思っていたよりあの人を愛してはいなかったのかしら………?」
「それは違うんじゃないか」
この前よりもずっと虚ろな声で紡がれる少女の言葉に、ふいに今まで口を閉ざしていた流星が口を挟んだ。
少女がはっと振り向く。
「赤の他人の俺が言えた義理じゃないけどな、むしろ逆なんじゃないかと思うぜ」
「……逆?」
少女は目を瞬く。
「人間であることを忘れなかったから、ずっと待ち続けるという気持ちを守っていられた。その男を愛していたからこそ、待ち続けることができた。待つ気持ちが大きくなり過ぎた所為で、一時的に自分やそいつのことを忘れてしまっただけさ」
「…そう?そうかしら……?」
縋るような声と表情を見せた少女に、流星は肩を竦めて見せる。
「俺に確認することじゃないだろ。お前がそう信じればの話だ。心から信じることができれば、それはきっとお前の真実になる」
「私の……真実…」
少女は呟き、胸に手を当ててその言葉を噛み締める。
暫しの沈黙。
「…そうね。そう信じたい。…いいえ、そう信じるわ。……有難う…」
「礼を言われることじゃないと思うけどな」
少女の言葉に再び流星は、素っ気無いほどの口調で応え、肩を竦める。
そんな彼に少女は滑るように近付く。
流星の正面へと立ち、窓から差し込む月明かりに陰影濃く浮かび上がる端整な顔立ちを確かめるように見上げる。
「貴方は私の待っていた人ではないのね……」
「ああ」
はっきりとした応えに少女は微笑む。
「私、あの人の名前も顔も覚えていないけれど……貴方のように背の高い人だったような気がするの……だから、貴方を彼と間違えたのかもしれない……でも、私の記憶はあまり当てにならないから違うかもしれないわね…」
そう言って軽やかな笑い声を零した少女は、肩越しに華王を振り返った。
「私、行きます。あるべき場所へ…還ります。手伝って下さる?」
「ああ、もちろんだ」
華王は間を置かずに応えた。
「お願い」
そう言って少女はそのまま動かずに正面に向き直り、瞳を閉じた。
華王が魂を還すための聖呪を唱え始める。
呪の詠唱が進むにつれ、少女を依り付かせた風矢の身体が、霞を纏ったように淡く輝き始める。
それを正面から見詰める流星の目に、夢で出会った愛らしい少女の姿が見えた気がした。
流星は一瞬目を丸くする。
気のせいか?
多分気のせいだろうが……
流星は微笑み、餞別代りに少女にもう少し言葉を掛けることにした。
「お前の還る場所にはきっとお前の恋人もいると思うぜ。もし会ったら、怒鳴り付けてやるといい。こんなに可愛いお前が長い間待ってたのに何で迎えに来なかったんだってな」
悪戯っぽい笑みを浮かべながらの流星の言葉に少女は閉じていた目を開いた。
「…私に彼が分かるかしら?」
「分かるさ。今は思い出せなくても会えればすぐに」
根拠もなく、そう請合った流星はふと気付く。
自分に似ていると言った彼女の想い人…
それは……
一方、少女は流星の言葉に淡い光の中、その光以上に淡く微笑んだ。
「有難う……」
そう言って、ゆっくりと流星へと手を伸ばす。
「?」
不意を突かれて、怪訝そうに眉を顰める流星の頬に触れて、
「あの人が貴方みたいな人だったらいい。本当にそう思うわ…」
呟きながらゆっくりとその顔を流星へと近付けた……
「…!!!」
「!!!!…」
その瞬間に少女を、いや、風矢の身体を包む光は消え、後には華王、呆然とする流星と風矢だけが残った。
長いような短いような沈黙。
「…っっうわああぁぁ!!!何しやがった、てめえ!!」
「…ぼっ…僕じゃありませんよ!!!あ…あの子が…あの子が勝手にっ……!!!」
硬直状態から先に立ち直った流星がわめき散らす。
次いで立ち直った風矢も泣きそうになりながら、わめき返すしかない。
お互いの身を引き剥がしながら、半ば狂ったように袖で己の唇を拭う。
二人とも混乱状態だ。
……最悪だ。
あの霊の少女は去り際に風矢の身体を使ってとんでもないことをしてくれた。
よりにもよって…よりにもよって……!
「…くっそー!油断した!!何で男とこんなこと…」
流星が忌々しげに嘆いている。
しかし、流星はまだいい。
風矢は……
(…ああ…初めてだったのに……!!)
あまりの衝撃にがっくりと肩を落とした。
………暫く立ち直れそうもない。
そんな二人を前に華王だけが冷静だった。
「どうやら彼女なりの真実を得て、還っていったようだな」
少女が消えたと思しき辺りを眺め、しみじみと呟く。
「…何はともあれ、良い形で浄霊ができたようで良かった」
「全然良くねえんだよ!!ふざけてんのか!?」
「流星、何を怒っている?」
流星の剣幕にも華王はきょとんとした顔をしている。
問題の場面を華王が見ていなかった訳ではない。
しかし、華王の瞳に映ったのは、流星と少女との光景であり、流星と風矢のそれではなかった。
見るもおぞましい情景から免れた華王には、そこまで流星たちが動揺する理由が分からない。
当事者ではないから尚更だ。
流星は更に言い募ろうと何度か口を開きかけたが、結局只でさえ消耗している体力を無駄に使うだけと悟り、口を噤んだ。
風矢に到っては言葉もない。
……せめて…せめて相手が華王だったなら、美人な分、多少は、いや随分とましだったかもしれない………
言葉を無くす二人の胸に去来したのは、偶然にも同じ思いだった。
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