聖なる水の神の国にて〜涼夏〜


想い 2

 

しばしの静寂が降りる。

燭台の灯りに浮かび上がる三人の影が、書庫の棚に整然と並べられた書物の背表紙の上で大きく揺れる。

「楽はするな……ということだな」

 何かを思い切ったように華王(かおう)が口を開いた。

「俺たちの力だけで彼女を説得するしかない」

「そうですね」

 相槌を打ちつつも、依然自信なさげな風矢(ふうや)を華王は見遣る。

「…今気付いたんだが。例え俺たちが鈴音(りんね)嬢の恋人の消息を辿ることができたとする。そして、その事実を彼女に伝えたとしても……彼女はそれを信じないかもしれない」

「どうしてですか?」

「おそらく彼女に必要なのは、万人に共通する事実ではなく、彼女にとっての真実だからさ」

「え?」

 華王の言葉が一瞬分からなかった風矢は、少女のことを思い出しながら、もう一度華王の言葉を胸のうちに繰り返す。

 

 頑ななまでに想い人の帰還を待ちわびていた少女。

 そうでありながら、自分の名も想い人の名さえも覚えていない。

 彼女にとって何を置いても重要なことはただ、想い人を待つという行為に絞られているように見えた。

 

 想い人を待ち続けたい。

待ち続けなければならぬ。

 

 その強い想いだけが長い時を超えて残り、彼女の心の時間を止め、魂を繋ぎ止めている。

 その想いだけが彼女にとっての真実なのだ。

 そんな彼女の前にいくら事実を並べたところでなんの効果もないような気がした。

 彼女に必要なのは客観的な事実ではない。

 

 そこまで思い至って、風矢は大きく頷いた。

「…分かりました。何となくですけど」

 彼女を解放するには、彼女が捕らわれ続けている真実に直接揺さぶりを掛けるしかないのだ。

「今日は失敗した。もう少し話してから事実を告げるべきだった」

 告げられた事実に彼女は混乱し、途中で逃げ出してしまった。

 華王は溜息をつく。

「女性の扱いは苦手なんだ、俺は」

同じく女性の扱いには自信のない風矢はなんとも応えようがない。

華王も風矢の応えを期待していた訳ではなかったのだろう、

「とにかく、明日何とか彼女を捕まえてもう一度話そう」

きっぱりとした口調でこう言った。

「風矢にはまた我慢してもらうことになるが…」

「……はい、頑張ります」

 正直、彼女に身体を貸して、再び自分が気色悪い仕種をするのは嫌なのだが、仕方がない。

 これも、乗り越えなければいけない合宿課題の一つなのだろう。

 

 話はまとまった。

流星(りゅうせい)もそれでいいか?」

 黙りこくったままの流星に華王は確認する。

「……ああ」

 相変わらず不機嫌そうな表情のまま流星は応える。

「じゃあ、よろしく。唯一女性扱いの上手そうな流星君」

「…って、俺に話をさせる気か!!」

 しかし、華王の言葉に流星の表情がやっと崩れた。

「今回の件に関しては、それくらいしかお前にはやることがないだろう。それに俺は今日失敗しているしな」

「全く…損な役回りだぜ」

 やや調子を取り戻したらしき流星を見て、風矢はほっとする。

「場合によっては、今回の件は意外に簡単に片が付くかもしれない」

 華王が独り言のように呟いた。

 

風矢はふと、座っていた窓際から、帰邸する父と兄とを乗せているらしき馬車が、窓の下、屋敷の玄関に停まるのを見付けた。

「兄たちが帰って来たみたいです。ちょっと行って来ていいですか?すぐに兄を連れて戻ってきますので」

「ああ。遠慮は要らない。ゆっくりして来い」

「いえ、すぐ戻ってきます」

 華王の寛大な物言いにそう応えつつ、風矢はいそいそと部屋を出て行った。

 

 早く兄を華王たちに引き合わせたくて仕方ないらしい。

 そんな様子に笑みを零しながら、華王は流星を見遣る。

 その視線を受けて流星は、苦い表情で目の上に落ち掛かる金髪を掻き回すように掻き上げる。

「……喋り過ぎた」

 表情と同じ苦い声でそう言った流星に、華王は薄紅色の唇を今度は悪戯っぽい笑みの形に歪める。

「別に隠すことでもないだろうに」

 澄んだ声には軽いからかいの響きがある。

流星は華王を軽く睨む。

「…ああ、そうだな。お前が隠してることに比べたら、大したことじゃないんだろうよ」

 悔し紛れの流星の反撃に、華王の顔から一瞬笑みが消える。

 しかし、彼はすぐにまた微笑んだ。

 先程の笑みよりもやや寂しげで儚げな笑み。

「俺の隠していることもそれほど大したものじゃないんだ」

「じゃあ、話せよ」

「嫌だね」

 何時の間にか真剣になった流星の眼差しを、唇に笑みを湛えたまま、目を逸らさずに受け止め、華王は言葉を継ぐ。

「話せない、今は」

「ちぇっ、やっぱり駄目か。残念」

 正面切って断られた流星は、しかし、口で言うほど残念そうでもない。

 椅子の背に凭れながら、頭の後ろで手を組み、にやりとする。

「「今は」ね。いずれは話してくれる気はある訳だ。それじゃあ、もう少し辛抱強く待つとするかな」

「このままずっと話す気にはならないかもしれないぞ」

「あらら、つれないお言葉」

 会話が何時もの調子に戻った頃、風矢が兄の空羽(くうう)を連れて戻ってきた。

 

 書庫室は一層にぎやかとなった。

 

 弾むような声音で自慢の兄を華王等に紹介する風矢。

 そんな風矢をここぞとばかりにからかう流星。

 空羽に屈託なく話し掛けながら、たちまち始まる風矢と流星の言い合いに、ときにややずれた突っ込みを入れる華王。

 

 空羽はそんな三人の様子を最初はやや呆気にとられて眺めていたものの、次第に楽しそうに笑い声さえ立てるようになった。

 

 流星や華王があんなに親しみ易いひとだとは知らなかった。

 

 後で風矢は空羽にそう言われた。

 そう言った兄の様子が本当に楽しそうで、嬉しそうで、言われた風矢も嬉しくなった。

 同時に安堵が胸の内に広がって、まだほんの少しわだかまっていた不安が、ようやく消えたような気がしたのだった。



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