聖なる水の神の国にて〜涼夏〜


  夏の訪れ 3

 

風矢(ふうや)華王(かおう)は神殿から学院へと戻る学生の群れを避けるように神殿の裏手へと回った。

神殿の裏口の手前には、神殿をぐるりと囲む細い水路に架かる小さな橋がある。

その橋は手摺も無く、人一人がやっと渡ることのできる幅しかない。

神殿を囲む水路も浅く、跨ぐことのできる幅しかないのだから、普通に考えればそこにわざわざ橋を架ける必要はない。

しかし、水の神、聖水神(せいすいしん)を祀る神殿にとってこの橋は重要な意味を持つ。

この橋の下の水路には橋の両脇を挟むようにして噴水が設えられており、そこからやや斜め上空に向かって水が勢い良く噴きあがり、最も高い位置で互いに交差しながら、放物線を描いて橋の向こう側へと移動する。

橋を渡る者は、この水が造る門をくぐっていかなければならない。

神殿の正面入口にも、大きさはもう少しあるが、このような橋が設置されていて、神殿に入る者は、必ず一人ずつこの橋を渡ることになっている。

この水の門が設けられた橋は、「清めの門」と呼ばれている。

この清めの門をくぐるとき、僅かな水飛沫がくぐる者の身体に降り掛かる。

これが清めとなり、この門をくぐることによって初めて、外界の穢れを拭われたとされ、聖なる神殿へ足を踏み入れることが許されるのだ。

 

これは祭礼のときも同じで、祭礼に参加する者は、正面入口の清めの門に列を成して並び、一人ずつ門をくぐる。

神官のみならず神学を学ぶ全学院生も参加する今日のような祭礼では、神殿に入るだけでも多くの時間が費やされる。

それ故、参加者が清めの門をくぐる行為は、祭礼の初めの儀式として組み込まれている。

風矢も祭礼のとき、うんざりするほど長い時間を待ってこの清めの門をくぐった。

 

しかし、祭礼が終わった今、更に裏口にある清めの門の前には、風矢と華王以外誰もいない。

その清めの門を華王、風矢の順で潜る。

流星(りゅうせい)は中か?」

 独り言のように呟く華王の漆黒の髪を、水晶の粒を思わせる細かな水飛沫が飾っている。

 

 ああ、やっぱり綺麗だ。

 

 他に華王を称える言葉が見付からず、同じ言葉を内で繰り返す自分の語彙力の貧困さを少々情けなく風矢が思っていたとき、

「また、何時もの妄想癖か?それともまた、何かに取り憑かれてるのか?」

と、上から笑みを含んだ声が降ってきた。

 風矢と華王が傍らの木を見上げると同時に、枝葉を揺らして声の主が彼らの目前に飛び降りた。

 長い学生服の白くたっぷりとした裾が翻り、軽やかに空気を抱いて、地に降り立った青年の足元をゆっくりと覆う。

「流星」

 突如として目の前に現れた背の高い青年に驚きもせず、華王がその名を呼ぶ。

「やっぱり先に来ていたんだな」

「まあな、今回は」

本当はあまり気が進まなかったんだがな、と流星は言葉を続ける。

相変わらず白い詰襟の制服の襟元を着崩した姿で、風矢たちが今身に付けている祭礼用の額飾りも帽子もない。

華王が推測した通り、やはり流星は祭礼に参加しなかったのだろう。

彼は蒼い目を軽く動かし、華王の傍らに立つ風矢を見遣る。

 

 華王とは違って、風矢は突然の流星の出現に驚いたらしい。

まだその驚きから立ち戻れていない様子の風矢をからかうように流星は声を掛ける。

「よお、妄想癖のある風矢君。悪かったな、妄想の邪魔をして」

 その言葉に我に返り、風矢は少々赤くなりつつ、慌てて言葉を返す。

「妄想癖だなんて人聞きの悪いことを言わないで下さい」

「阿呆面下げて、ぼうっとしてたじゃないか。上から良く見えたぜ」

「ぼーっとしてたのは事実ですが、変なことは考えてません!」

「おや、向きになって。ますます怪しいな」

「考えてませんてば!!」

「そうだぞ、流星。妄想癖だなんていくらなんでも風矢に失礼だ」

 何時もなら風矢と流星の言い合いに口を挟むことのない華王が珍しく風矢に助け舟を出した。

「華王さん…」

 感動した風矢はしかし、華王の次の言葉にがっくりと肩を落とした。

「妄想癖ではなく、せめて空想癖と言ってやれ」

 

 助け舟になっていない…

つまり、華王も風矢がしばしば突入する空想を「癖」が付くほど頻繁なものだと理解していることが知れる。

 流星には食って掛かったものの、否定できないのは辛い……

 

 華王の素晴らしい発言と肩を落とす風矢の姿に、肩を震わせて笑っている流星を風矢は睨んで、反撃とばかりに問い掛ける。

「流星さんこそ、木の上で何をやっていたんですか?」

「お前らを待ってたんだよ」

 風矢の問いに流星はやっと笑いを治めて応える。

片手で解き放したままの薄い金色の髪を無造作に掻き上げる。

顔立ちが端整なだけに、そういった仕種が妙にはまる。

 流星の応えに風矢は首を傾げる。

「待つにしても、わざわざ木に登る必要はないでしょう?神殿の中で待てばいいじゃないですか」

「よしてくれ」

 風矢の言葉に流星が眉を顰める。

「教官に見付かって小言を聞かされるのは御免だ」

「祭礼、参加しなかったんですね」

「今更だろ」

 風矢の問い掛けに、流星はおどけたように軽く眉を上げて見せる。

「清めの門も通って来なかったんだな」

 流星の様子を眺めていた華王が再び口を挟む。

華王の言葉に流星はわざとらしく鼻を鳴らす。

「はっ、それこそ今更だ。あの門を通ったからといって穢れが拭われる筈もない。馬鹿馬鹿しい」

 言葉に明らかな棘が含まれている。

流星を包む空気も心なしか尖ってきた。

「ちょ、ちょっと流星さん…」

 神殿の敷地内での流星の物騒な発言に風矢は慌てる。

 しかし、話題を振った当人であるところの華王は少しも動じない。

大丈夫だというように風矢の肩を軽く叩き、流星に向かって言う。

「お前の言うことを否定はしない。だが、流星、お前はもう少し場所柄をわきまえた発言をした方がいい」

 流星は心外だと言わんばかりに眉を顰める。

「なんだよ、振ったのはお前らの方だろ」

「そうか?」

「ああ。お前らが余計なことを訊かなければ、俺も余計な発言をしないで済む」

「そうか。それは悪かった」

 では、今度からは神殿以外の場所で訊くことにする、と華王は応える。

「訊くことは止めない訳か」

「もちろん。嫌がらせの一環だからな」

「そう来たか…」

 二人は言い合いながら神殿の中へと入っていく。

肩を並べ、言い合う口元には笑みさえ浮かべて。

 

全くいつも通りの二人だ。

 慌てたのは風矢一人だけだったようだ。

 二人を追い掛けながら、風矢は一人溜息をつく。

 

風矢自身もそれほど信仰心が篤い方ではない。

しかし、信仰の現場である神殿内で堂々と不信を口にする流星には驚かされた。

また同時に、流星の発言を行き過ぎにさせることなく、いつも通りの他愛ない会話に治めた華王に感心する。

しかし、華王の言葉にも、神殿に対する信仰心は窺えなかった。

流星ほどあからさまではないだけだ。

先ほど彼自身が言ったとおり、場所柄をわきまえているのだろう。

そういえば、風矢は以前、神殿が崇める神について、華王に聞いたことがあった。



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