面影
面影 8
午後の公爵との対面までにはまだ時間があった。
昼食後、砂月は残りの時間を散歩で過ごすこととする。
綺麗に芝や植木が整えられた庭をゆっくりと歩む。
胸を過ぎるのは、先程会った母だという人の虚ろな姿だ。
彼女の様子を思い出すと、何処となく憂鬱な気分になる。
それを振り切るようにして、知らず足元に向かっていた視線を上げると、正面に昨夜、不思議な少年と出会った森が見えた。
同時に、湖精のような少年の美しい姿が、脳裏に強く甦る。
少年は咲桜花と名乗った。
咲…
何処かで聞いた名前。
昨夜、彼と別れた直後は、何処で聞いたか思い出せなかったが、暫くしてすぐに思い出した。
すぐに思い付けなかったのは、その名に砂月が抱いていた印象と、少年の印象とがそぐわない所為だった。
気ままな散歩のつもりが、昨夜の森の方へと自然に足が向いてしまう。
あそこに彼がいると決まった訳ではないのに。
砂月は知らず、苦笑する。
どうもらしくないことをしている。
ふと、庭の植木の向こうに白いテーブルと椅子が置いてあるのに気付く。
そしてそこに座る華奢な人影も。
朝の爽やかな風に、銀の髪が煌きながら揺れる。
「…桜花?」
呟いた声に彼が振り向いた。
砂月の姿を、離れていてもそうと分かる、澄みきった瞳に捉え、一瞬怪訝そうな顔をする。
その表情に砂月も一瞬、人違いをしたかと危ぶんだ。
だが、昨夜出会った湖精と目の前の少年はあまりにも似過ぎていた。
砂月の逡巡を余所に少年は、すぐ思い出したように微笑んだ。
「…ああ、砂月か。眼鏡を掛けているから、一瞬分からなかった」
そんなことを言われたのは初めてだった。
今までの経験から自分の姿はかなり印象的なものではないかと思っていたのだ。
幾ら昨夜とは違って眼鏡を掛けているとはいえ……
何より、目の前の少年に「分からなかった」と言われたことに軽い衝撃を受ける。
「…そんなに僕は印象薄いかな」
自信を無くしつつ、思わず呟いた砂月の言葉を捉え、桜花は悪びれずに笑う。
「そういう訳じゃない。眼鏡を掛けているのが意外だっただけだ。お前、普段は眼鏡を掛けているんだな」
「……ああ、そうだね」
桜花はそれ以上のことを訊かなかった。
代わりに、砂月を手招く。
「立ち話もなんだから、こっち来て座れよ」
「お茶してたのかい?」
「ああ」
桜花は、近寄った砂月に、自分の座る反対側の椅子に座るよう示して、ちょうど庭に出てきた使用人に、茶とティーカップの追加を頼む。
「そっちは庭の散歩か?」
「ああ。君に会えればいいと思っていた」
「俺に?」
素直に気持ちを口にした砂月の言葉に、桜花は澄んだ瞳を丸くする。
その瞳は限りなく透明に近い水色だ。
昨夜とそれ程変わらないシンプルなシャツを纏った細い肩や背に流れる銀髪も、微かに青味を帯びている。
髪と共に透けるように白い肌が、光に輝く。
陽の光の下で見る彼は、やはり美しかった。
清らかで澄んだ印象は昨夜出会ったときそのままだ。
しかし、昨夜のような神秘的で人間離れした雰囲気はそれ程感じられない。
優美に整った顔立ちの中で、輝きを放つ瞳と仄かに紅く色付く頬と目尻が、彼の美貌を生き生きとした、人らしいものにしている。
これだけは昨夜と変わらない薄紅色のややふっくらとした唇が、言葉を紡ごうと開かれた。
「何か、用でもあったか?」
「昨夜、君は「また」と言ったじゃないか」
「まあ、そうだが」
彼の美貌に見惚れつつ、また、屈託ない口調を清々しく感じながら、砂月は思わず頬を緩める。
「君に興味があるんだ」
「興味?」
不思議そうに首を傾げる桜花を、砂月は見詰める。
「そう。だから、君の事をもっと知りたいと思って」
「俺はそんなに興味深い人間でもないぞ」
桜花の言葉には心底そう思っているような響きがある。
これほどの美貌を備えているだけでも充分興味の対象になり得るというのに。
やはり、この少年は変わっている。
面白く思いながら、砂月は言葉を続ける。
「ひとつ、君について思い出したことがあるよ」
「何だ?」
「昨夜、君に会ったときは思い出せなかったけど、朝になってやっと思い出した。咲桜花。咲…君は医術師の咲一族なんだろう?」
「へえ、よく知っているな」
「有名だよ、咲一族は」
普通の医師が行う薬や外科手術の他に、呪術的な治療行為をも行う医師を「医術師」という。
咲一族は、世界中を旅しながら得た最先端の医療技術を行いつつ、且つ不思議な能力で、単なる精神的効果に留まらない呪術的医療も行うことで有名である。
同時に流浪の一族である為か、神出鬼没でその実態が明らかにされないという点で、謎の多い一族でもある。
「噂通り、やっぱり僕たちの国、彩和国が咲一族の本拠地だったんだね」
「一応はな。今、国に構えている屋敷は殆ど空き家になっているが。咲一族はやはり旅医者の一族だから」
事実を確認した砂月は思わず息を吐く。
「咲一族の医術師が君みたいに若いとは思わなかった。だから、なかなか思い出せなかったんだ」
その言葉に桜花は肩を竦めて見せた。
「一族では十三になると成人扱いだ。医術師としてはそれほど若い方でもない。事実、俺は五年、この仕事をやっている」
謎だらけの一族であるだけに、訊きたいことは幾らでも出てくる。
しかし、何処まで訊いていいものか。
砂月は一瞬躊躇う。
そのとき、
「桜花様」
二人の前に緑真が現れた。
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