面影
面影 7
塔の壁の上で蝋燭の灯りに照らされた二人の影が大きく揺れ、階段を歩む足音が遠く近く谺する。
石段を昇る途中に幾つかの扉があったが、緑真は立ち止まらず、ひたすら上を目指して進む。
この塔に辿り着いたときから湧き上がった嫌な予感が、塔内の薄闇と共に身体に纏い付いているような気がして、その不快さに思わず砂月は拳を握る。
塔を昇り切った所に扉があった。
先ほど途中で見た扉に比べて装飾性の高い立派なものだ。
しかし、その扉にも鍵は掛けられていて、緑真の取り出したもう一つの鍵によって開けられる。
先程より軽い音を立てて、扉が開く。
中は飾られた扉に似つかわしく、華麗に、品良く整えられた部屋だった。
その意外に広い部屋を飾る壁紙や絨緞の色模様、手前に置かれたテーブルと寝椅子のデザインは優美且つ繊細で、この部屋の主が女性であることを窺わせる。
その右手奥に厚いカーテンに飾られた窓。
その更に右奥に天蓋付きベッドの脚が見えていた。
緑真がそちらへと進み、帳の奥へと声を掛ける。
「翡翠様」
返事はない。
眠ってでもいるのだろうか。
「翡翠様、貴方様の息子様をお連れ致しました。砂月様です。砂月様、どうぞこちらへ」
相変わらず返事のないことを余所に、緑真は砂月を呼ぶ。
砂月が部屋の戸口からゆっくりとベッドへ歩み寄ると、緑真がベッドを覆う帳を除けて、中にいる人の姿を彼の前に露にした。
「砂月様、翡翠様です。貴方様と星砂様をお産みになった実のお母上です」
「…!」
実母だという人を目の前に、砂月は思わず息を呑む。
まるで、少女のような人だった。
緩やかに波打つ銀の髪が、華奢な肩や背に降り掛かっている。
その白く整った顔立ちは何処までも儚げで、幼げでさえある。
とても自分たちを産んだ母だとは思えなかった。
しかし、砂月を内心驚かせたのは、そんなことではなかった。
その人はベッドに身を横たえていたものの、眠ってはおらず、きちんと目を開いていた。
しかし、その翠色の瞳は虚ろに上空に向けられたままで、何処か夢見るようにここにはないものを見詰めていた。
その瞳には傍らにいる砂月たちも映っていない。
瞳だけではなく、彼女の心そのものさえもここにないことは明らかだった。
そういうことか。
砂月はこの人がここに閉じ込められている理由を悟る。
伝統と格式ある貴族、特に公爵家ともなれば、一族から精神的な病に冒された者を出すことは、醜聞に他ならない。
しかも、その病に冒されたのが、現公爵の娘となれば、この事実が明らかとなったとき、貴族社会に様々な憶測が飛び交うのは必至。
それがひいてはブランシエル家の名を貶めることにもなる。
そのようなことにならぬよう、家の名誉を守るために、彼女はここに隠されたのだ。
「彼女はいつからこのように?」
「…もう、十七年になります」
砂月は思わず目を見開いて、緑真を見る。
「それは…」
「……はい。翡翠様は砂月様方を身篭られたことが分かったときには、もう既にそのお心を手放されておりました…」
「…そうか。だから誰も父のことは全く知らないんだな」
母は父のことを十七年間、話さなかったのではない。
話せなかったのだ。
昨日、緑真が砂月の質問に言葉を濁した理由がやっと分かった。
ブランシエル家の誰も知らないという父。
母、翡翠は、自分達を身篭ったときには既にこのようになっていた。
しかし、彼女がこのような状態になっても、父は名乗り出ることはもちろん、姿さえ現さなかったようだ。
十七年もの間、ずっと。
それは、父が彼女のこの状態を知らないからなのか。
或いは、父は既にこの世にいないのか。
それとも……
嫌な憶測に思い至った砂月は、ほんの僅かに眉を顰める。
しかし、憶測は憶測だ。
無理に事実を知りたいとも思わない。
「どうかもっと近くで顔をお見せになって下さいませ」
胸に拡がる不快さを抑えつつ、砂月は緑真に促されるまま、翡翠の細い手を握る。
その手は冷たくて、彼女が心の病とはまた別の病に冒され、もう長くはないことを改めて感じさせた。
「…初めまして。砂月です」
…母とは呼べなかった。
砂月の言葉が聞こえたかのように、翡翠の色の薄い唇が僅かに綻ぶ。
だが、砂月の言葉に微笑んだのではないだろう。
彼女の瞳は依然として夢の世界を漂っているばかりだった。
砂月には目の前の人が母だという実感がまるで沸かなかった。
初めて会ったとき、緑真は自分を翡翠に似ていると言ったが、砂月自身はそれ程似ているとは思えない。
強いて言えば、髪の色が自分に、瞳の色と波打つ髪の様が、星砂に似ているだろうか。
彼女の繊細な造りの顔立ちは、充分に整っているのに、その美しさは胸にまで響かず、何処かくすんだ印象のみ残す。
それはやはり彼女が長く抱えていた心の病の所為なのだろう。
そんなことを考えながら、翡翠を見詰めていた砂月だったが……ふと、その顔立ちに既視感を憶えた。
しかし、何故、そのように感じたのか全く分からない。
「砂月様。申し訳ありませんが、翡翠様はお身体を弱くしていらっしゃいますので、面談はそろそろ…」
「分かった」
砂月は握っていた細い手をそっと上掛けの上へと戻し、立ち上がった。
何の名残も憶えなかった。
どうも、僕は冷た過ぎるようだ……
そうは思うものの、自分の感情に嘘をつくことは出来ない。
整った薄い唇に僅かな苦笑が浮かぶ。
それは傍にいる緑真に悟られることなく、一瞬で消えた。
緑真に導かれるまま、身を翻す。
しかし、部屋を出る寸前、背中に強い視線を感じて振り返る。
「砂月様?」
視線の気配には気付かなかったらしき緑真が、怪訝そうに問い掛ける。
砂月は帳の向こうにいる翡翠の様子を窺う。
明らかに自分を捕らえていた視線。
まるで背中に突き刺さるようだった。
砂月にはそれが翡翠のもののように思えたのだが、彼女は相変わらず、虚ろな瞳を白い空間へと漂わせているだけだった。
「……いや、何でもない」
砂月は内心の訝しさを隠したまま、緑真へと応える。
気のせいだと言うにはあまりに強い気配。
しかし、そのことについて砂月は敢えて考えることを放棄した。
面倒なことに巻き込まれるのは御免だ。
しかし、それがこれから起きる出来事全ての予兆となるものであったことを、このときの砂月は知る由もなかったのである。
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