面影


  面影 5

 

重なり合う木々の葉の間から零れる月光を浴びながら、砂月(さづき)は細い森の小道を先程見た光に向かって歩む。

月が明るい所為なのか、森を包む薄闇も何故か恐ろしいとは思わなかった。

逆に淡い光に照らされ、仄かに輝く緑が幻想的で美しい。

梟の鳴き声も、向こうの木立で小さな獣が動く物音もこの幻想的な光景を更に際立たせる。

 

綺麗だな。

 

そう思う砂月の目の前に木々の切れ目が見えた。

先程垣間見た光も。

近付くにつれ、その光の正体が明らかとなる。

湖だ。

水面が月光を反射して煌々(きらきら)と輝いている。

そこで更に幻想的な光景を目にして、砂月は思わず目を見開く。

仄かに輝く湖の中、その光を纏わらせるように水浴びをしている者がいたのだ。

こちらに背を向けているので、男か女かは分からない。

月の光そのものを集めたかのように透ける銀の髪が、白く輝く肩や背中、細い腰まで優雅に纏わり付き、その先を水面上で遊ばせている。

その白い身体を形作る滑らかな線は、男にしては柔らかで、女にしては丸みに欠ける。

いや、その性別を考慮する前に、そもそも目の前にいる生き物は「ひと」なのだろうか。

「ひと」にしてはあまりにもこの幻想的な光景に馴染み過ぎる。

 

もしや、湖の精か何かか。

 

ふと頭に浮かんだ考えに、砂月は苦笑する。

彼はあまり空想的な性質ではない。

が、思わずそんな考えが浮かんでしまうほど、目の前の光景に幻惑されていたことを自覚する。

目を離すことが出来ない。

 

白い手に掬われた水が、細い腕や肩にゆっくりと掛けられていく。

その雫は煌きながら、艶やかな肌を彩る。

 どのくらいの間、見惚れていたのだろう、ふと、視線に気付いたように件の湖精がこちらに振り向いた。

「…っ、失礼!」

 振り向いた繊細な美貌に、やはり少女だったかと思った砂月は慌てて目を逸らし、後ろを向いた。

 すると、耳に心地良い澄んだ笑い声が響く。

 その容姿(すがた)に相応しい声。

「そんな気を遣わなくていい。俺は女じゃないしな」

 その明瞭な声に、先程までの幻想的な雰囲気が少しばかり拭われる。

 驚いて振り向くと、湖精が正面を向いていて、水の中を砂月の佇む岸の方へと歩いてくる。

 その白い胸元は滑らかではあったが、少女であるならば当然あるべき膨らみは見当たらない。

少女ではない。少年だ。

 華奢な肢体を隠すこともせず、彼は辿り着いた岸に手を付き、水から上がろうとする。

 そこでまた、砂月は彼の姿から思わず視線を逸らしてしまう。

 少女ではない。

 さりとて、少年のようにも見えなかったのだ。

 それほどに美しい少年だった。

「気は遣わなくていいと言っているのに」

 少年の笑みを含んだ声が聞こえる。

「いえ、初対面の方の裸を見るのは、やはり失礼だと思うので」

「そうか。そういう風に考える奴もいるんだな」

 意外なほど砕けた口調で言いながら、彼は岸に置いてあったらしき衣服を身に着け始めた。

その様子を砂月は目の端で捉える。

少年の後ろ姿はやはり、性別不詳のものだ。

「もう振り向いても大丈夫だぞ」

 少年の呼び掛けにやっと砂月は、振り向くことが出来た。

 シンプルなシャツとジーンズをその細身に纏った少年が、濡れた長髪を適当に手で拭いながらこちらへ近付いてくる。

 

 今までそれほど人の美醜には興味のなかった砂月だが、この少年の美しさは無視できないものがあった。

 幾つ位だろうか。

 自分と同い年…もしかしたら一つ二つ年下かもしれない。

 砂月の目の前までやって来た少年は、真っ直ぐに彼を見上げた。

 背は砂月の顎にやっと届くくらいの高さだ。

 この国の人間としては小柄の部類に入るだろうが、砂月の育った国ではほぼ平均の背丈だ。

「俺は(さき)桜花(おうか)。お前は?」

 その名前の響きは砂月の名と同じだ。

「…貴城(きじょう)砂月です」

 その応えに、少年、桜花はちょっと首を傾げるような仕種をする。

「もしかして、同郷人か?」

 ロゼリアルではなく、彩和国語で訊ねてくる。

「ええ、貴方も彩和国出身なんですね」

 同じく彩和国語で返した砂月に、桜花は微笑む。

「お互い外見ではそう見えないな」

その少し悪戯っぽい微笑が、初めて少年を「ひと」らしく見せた。

 

 生粋の彩和国人は、黒系の髪と瞳の色を持つ。

 砂月や桜花の持つ薄い色彩は、このロゼリア王国を含めた西域の民の特徴である。

 そんな西の色を持つ桜花は混血か、或いは砂月のように、彩和国人と雖も、その血自体は西のものなのだろう。

 

彼の色の薄い瞳は何処までも澄んでいる。

 ふと、その瞳に自分が映っているのが見えた。

 無防備にその両目を晒している自分の姿が。

 思わず忌まわしい右目を覆ってしまいそうになった手が、

「何故隠す?」

 桜花の一言でぴたりと止まった。

 彼は真っ直ぐに砂月の瞳を見詰めている。

 その瞳には砂月の紅い右目に対する恐れは微塵も見受けられない。

「少々珍しいが、綺麗な目だ」

 目の前の少年はそう言って、今度は可憐な花が開くような笑みを見せた。

 

 この右目を綺麗だと。

 

そんなことを言う人間は星砂(せいさ)以外にはいなかった。

何より、初対面でそんなことを言う相手に出会ったのは初めてだった。

砂月は思わず呆然とする。

桜花はそんな彼の様子に気付かないらしい。

先程の言葉は彼にとって本当に何気ないものだったのだろう。

無邪気に次の問いを重ねる。

「ブランシエル家のお客さん?」

「……ええ。貴方は?」

「お前と似たようなものだ」

 やっと応えた砂月に、桜花は屈託なく、笑う。

 ここに到ってやっと砂月は目前の少年が湖の精なのではなく、人間であることを実感した。

 それにしても、こんな真夜中に森の中の湖で水浴びとは、この少年は随分と変わっている。

 …自分には関係ないことだが。

 砂月が桜花を眺めている一方で桜花も砂月をしげしげと眺めていた。

「何でしょうか?」

 居心地が悪くなって問い掛けると、桜花は無邪気に応えた。

「いや、こんな閉鎖的な国で、同じ国出身の人間に会うなんて不思議なものだと思ってな」

「そういえば…そうですね」

「お前、幾つ?」

 唐突な質問に砂月は目を瞬く。

「十七ですが?」

「俺より一つ下なんだな。まあ、殆ど同い歳みたいなものだ。だから、丁寧語はよしてくれないか。居心地が悪くて仕方ないんだ」

「……そう」

 一つとはいえ、年上だったのか。

 年下かもしれないと思っていたことは告白せずに、砂月は素直に言葉遣いを直す。

 桜花は満足そうに頷くと、

「じゃあな、また」

自分、或いは砂月がここに何しにきたのか、一言も触れることなしに身を翻した。

 軽く手を振って、去っていく。

 砂月は何か話し足りない気がしていた。

 唯一の身内である双子の姉である星砂以外、誰に対してもさしたる執着を持たなかった砂月にとって、他人との、しかも今初めて会った人に対して、このようなことを感じるのは初めてだった。

 しかし、砂月は彼を呼び止める術を持たない。

 去り際に桜花は「また」と言った。

 それならば、明日会おうと思えば会えるだろうか。

 次第に森の木々に紛れていく細い背中を見送りながら、砂月は胸の中で彼の名前を反芻する。

 

 咲桜花。

 

「…咲?」

 何処かで聞いたことのある名だ。

 それは何処でだったのか。

 砂月は暫く記憶の中を探っていたが、結局思い出すことが出来なかった。



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