面影


   面影 4

 

 浴室から出た砂月(さづき)は明かりを付けぬまま、寝室へと入った。

 バルコニーへと出る大きな窓に掛かるカーテンは開け放したままにしてある。

 今夜は月が明るい。

 穏やかな月光に満たされた室内は、砂月にとって明かりを付けずとも充分明るかった。

 

 夕食のときに再び現れた緑真(りょくしん)から、明日の午後、ブランシエル公爵に会う手筈が整えられていることを告げられた。

 窓際に置かれたソファーの背に、クローゼットから出された真新しい仕立ての良いスーツが置かれている。

 対面の際にはこの服を着るように、との公爵御自らのお言葉らしい。

 公爵の前に出るに相応しい格好をしろということだろう。

この家の主人は砂月の今までの生活を貴族の生活に劣るものだと解釈しているとみえる。

 それはあながち間違いではない。

 砂月たちを引き取った貴城(きじょう)家は貴族ではないし、砂月は今までこれほど豪華な部屋に寝起きすることもなかった。

 しかし、養父が企業家だったこともあって暮らし向きは豊かだった。

 少なくともこのように着る服を与えられるほど、見苦しい服を纏っているつもりはないのだが。

これが貴族と平民の意識の違いというものなのだろうか。

 

まあ、今回はおとなしく指示に従っておこうかと思いつつ、砂月はベッドへと向かう。

ふと、正面の壁に取り付けられた大きな鏡に気が付く。

ゆっくりと近付いた。

 

映るのは濡れた銀髪を頬に僅かに張り付かせた丈高い青年の姿である。

昼間は常に瞳を覆っている色付き眼鏡が外され、瞳の色が隠れることなく露になっている。

青年は片手を鏡の上に付き、己の顔を、瞳を凝視する。

明るい月光は青年の美麗な顔立ちをはっきりと鏡の中に映し出している。

青年の瞳の色は変わっていた。

左目はこのロゼリア王国を覆う森を思わせる翠色。

しかし、右目の色は違う。

 

炎よりも血よりも濃い(あか)

暗闇の中でも夜の獣のように光を放つ右目の異様さは、端正な造りの顔の中にあっていっそう際立ち、見る者にある種の恐ろしさを感じさせる。

実際、彼の養父母を含めてこの瞳を見たことのある者は、この右目に見据えられることを明らかに恐れていた。

彼らの殆どは、あからさまに彼を避けるか、口にはしないまでも、彼とは距離を置いて接するかのどちらかの反応しか見せなかった。

彼の養父母は後者の方だった。

…しかし、養父母が本当に恐れていたのは、この瞳の色そのものではない。

この右目を、いや、自分の全てを何の恐れもなく見詰め返すのは双子の星砂(せいさ)だけだ。

己でさえ……この右目の紅とそこに潜むものを見据え続けることが出来ない。

だから彼は色付き眼鏡を掛けるようになった。

周りには視力が悪くなったと偽って。

 

自分の持つものの中で最もおぞましく、疎ましいもの。

 

砂月は鏡に置いた手をそっと動かし、鏡の中から自分を見据える右目を隠した。

その下にある形良い唇は、嘲笑の形に歪められていた。

 

次いで、視線を鏡からもぎ離した砂月は、窓の外へと眼を向ける。

月明かりに誘われるようにバルコニーへ出てみれば、丘の頂上に建つ屋敷を囲むように包む森が見渡せる。

奥の木立が切れた所にきらりと光るものがある。

あれは何だろう。

どうせ、今ベッドに入ったとしても、眠ることはできない。

 

砂月はベッドの中で無意味な時間を過ごすことよりも、今芽生えた好奇心を満たすことの方を選んだ。

素早く着替えを済ませ、足音を忍ばせながら部屋を出る。

ちょうど見回りの時間には重ならなかったらしく、砂月は誰にも会わずに屋敷の外に出ることが出来た。



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