面影


   面影 33

 

「旦那様、跡継ぎの件のことについてですが…」

 仕事の書類を纏めた第一執事が控えめに問い掛ける。

「ああ…まだ、お前にも伝えていなかったか」

「はい。しかし、旦那様は何処か楽しそうにお見受け致します」

 秘書も務める彼の言う通り、重要な決定を下したであろう公爵の口元には、僅かな笑みがあった。

「伝える前に、お前にも一応意見を訊いておこう。砂月(さづき)桜花(おうか)。彼らのこの一週間の行動を見て、お前はどちらがこのブランシエルを継ぐに相応しいと思うか」

「私如きが意見を申し上げるのは差し出がましいことです。しかし…敢えて言わせて頂くなら、砂月様、桜花様とも大変優れたお方であるとお見受け致しました。旦那様がどちらの方を選ばれても、過不足なく公爵家を支えていくことが出来るでしょう。しかし…」

「そう。更にブランシエル一族を盛り立てていく為には、どちらにも足りない部分がある」

 砂月たちに関する資料を繰りながら、公爵は冷徹に言葉を紡ぐ。

「桜花の徹底的な利他的思考と行動の素早さは評価に値するが、その分他人に対して甘過ぎる。また、砂月の常の冷静さと理性的な思考は評価できる。しかし、ときに大きな感情には流されがちだ」

「はい」

「しかし、如何なる偶然か、それらの欠点は、互いの長所で補えるものばかりなのだ」

「旦那様。では…」

 公爵の言わんとすることを察した執事に、公爵は静かに頷き返す。

「これまでにない異例の跡継ぎ決定となる。砂月と桜花、どちらに付いた方が得か、密かに様子を窺っていた一族の顔が見物だな」

 

 一番の見物は当人たちの顔だが。

 

 最後に厳格な顔付きのまま、(らん)・ブランシエルは揶揄めいた文句を付け加えた。

 

 

 

 

 

 陽が森の木々を茜色に染めながら、丘の向こうに隠れていく。

 穏やかな風が白いレースのカーテンを緩く波打たせる窓辺で、翡翠(ひすい)は見るともなく夕暮れの景色を眺めていた。

 脳裏に先程初めてきちんと対面した砂月の姿が浮かぶ。

 息子なのだとは頭では理解していても、やはり実感がなかった。

 桜花と並ぶ姿は、厭わしいと同時に愛おしかった二人の姿そのままで。

 それは、砂月の桜花を見詰める瞳に、真珠(しんじゅ)を見ていたときのあのひとの瞳と似た輝きが宿っていたからかもしれなかった。

 しかし、よく見れば、何処か掴み所のないあのひとよりも、砂月の瞳の方が真摯で一途だ。

 彼の想いに桜花は全く気付いていないようだったが、いつかその想いが伝わればよいと思う。

 

 それでも。

気が付けば、砂月の姿に別の面影を探してしまう。

 …そのことが申し訳なかった。

 生まれたときから共に過ごし、その成長を目にしてきたなら、そのように感じることはなかったのだろうか。

 それは今更考えてみても、詮無いことだ。

 また、今なおこのように己のことで手一杯の自分が、まともな母親になれたかどうかも怪しい。

 彼らももう、このような母など必要としていない筈。

 

 翡翠はそっと手にした鏡を見る。

 ゆっくりと、裏に彫り込まれた花の形と埋め込まれた真珠を指で辿る。

 何度かそれを繰り返した後、裏を返す。

 綺麗に磨かれた鏡面に、顔が映る。

 線の細い、儚げな容貌。

「………真珠」

 言葉と共に零れた雫が、幾つも鏡面の上で弾けた。

 それらは鏡像の頬を滑り、鏡の縁に滲むようにして消えていく。

「……真珠」

 涙で声を詰まらせながら、翡翠は鏡に映る自分の姿に、姉の面影を重ねて呼び掛ける。

「…真珠、真珠……何故、教えてくれなかったの…?私たちは双子なのに……」

 

 何故、黙って逝ってしまったのか。

 この世の誰よりも深い繋がりを持つ自分たちであったのに。

 片方に何かがあれば、それは間違いなくもう片方にも伝わる筈だ。

 それなのに。

 十八年もの間、自分は半身を失ったことさえ気付いていなかった。

 身体を失った魂の姿でもいい。

なのに、何故、会いに来てくれなかったのか。

 

 ……チガウ。

 

 頭の隅から沸き上がった己の声に、身勝手な恨み言を連ねていた翡翠は、口を噤む。

 

 …違う。

 真珠はきっと会いに来てくれたのだ。

 

 何故なら、あのひとも言ったではないか。

 砂月たちの前では、あまり憶えていないと嘘を言ったが、あの二度目の訪れがあった夜に彼が口にした言葉を、彼女は現実を取り戻したと同時に、全て思い出していた。

 無我夢中で縋り付く彼女に、彼は静かな声で、だが少し驚いているような口調で言ったのだ。

 

 分からないのか、と。

 

 それはこのことだったのだ。

 自分が気付かなかっただけなのだ。

 自分が…現実から逃げていたから。

 醜い嫉妬に駆られて、真珠の愛情を信じていなかったから。

 彼女を知らないうちに失ったのは、他ならぬ自分の所為。

 

 そう思い知ると、また、新たな涙がとめどなく溢れる。

 今更嘆いても詮無いのだ。

 分かってはいても、後悔の涙は止め難かった。

 

 ふと、風に肩を撫でられて、顔を上げる。

 

『貴方の幸せを願ってる』

 

 最後に別れたときの真珠の言葉が甦った。

 

 

「私、ブランシエルを出るわ」

 晴れやかな笑顔で告げられた言葉を、翡翠は信じられない思いで聞いた。

「何を…何を言っているの、真珠!この家を出てどうするつもり?一体何の為に…」

「幸せになる為によ」

 動揺する翡翠に、迷いのない声音で彼女は言う。

「自分で言うのもなんだけど…この身体では私はきっと長く生きられない。だから、幸せになりたい。この短い時間を後悔のないよう生きたいの」

「ここにいたって幸せに過ごすことは出来る筈よ。それとも…真珠は私と一緒にいるのが嫌なの…?」

 両手で縋るように、手を握って訴える翡翠に向かって、真珠はゆっくりと首を振る。

「翡翠のことは好きよ。だって、たった二人きりのきょうだいですもの。一緒にいるのが嫌だなんてことはない。でも……いつまでもこの家に閉じ篭ったままでは、私は幸せになんてなれない。そう、気付いてしまった」

 

 気付いてしまったら、動かずにはいられない。

 自分には時間がないのだから。

 

 真珠は薄い灰色の瞳に、強い意思の光を煌かせる。

 

 いつも、逆だったら良かったのに、と周りにも言われ、自分でもそう思っていた。

 時折、自分でももどかしくなるほど、気の弱い自分とは対照的に、思わず見惚れてしまうほど、その美貌を輝かせる意思の強さを持つ真珠。

しかし、彼女はその強さに見合うだけの身体を持っていなかった。

 持つのは壊れ易い身体だけ。

 動き出したくても動けない彼女を、翡翠は哀れに思うと同時に、だからこそ、共にいられることに安堵していた。

 

 しかし、そんな彼女が敢えて動き出そうとしている。

 恐らく無茶を承知で。

 この籠から飛び立つのだという。

 自分を置いて。

 

 彼女の意思を翻すことは難しいと知りつつも、翡翠は彼女の手を握ったまま、引き止める言葉を捜そうとする。

「ブランシエルを出て…どうするつもりなの?」

「結婚するわ」

「何ですって?」

 思いもよらぬ応えに目を見開く翡翠に、彼女は微笑んでみせる。

「父ではなく、私が自分で選んだ人よ。彼となら、私はきっと幸せになれる」

「……」

「でも、彼はこの国の人間ではないの。外国の…少し特殊な職業に携わる家の人で……つまり、どう取り繕っても、父が認めることはないひとね。でも、人柄も、もちろん、外見も申し分ないひとよ。きっと彼以上の人はもう見付からない」

 だから、彼と一緒になる為に、この家を出て行くの、と。

 当たり前のように、真珠は言った。

 知らず、彼女の手を握った手に力が入る。

「…どう…して?…何故?」

「翡翠?」

「…何故なの!?あのひとは?真珠だってあのひとが好きなのでしょう?あのひとも…」

 必死に問い詰める翡翠に、真珠は微笑んだ。

 先程とは違う苦さと寂しさを孕んだ笑み。

「あのひとのことは今でも好きよ。でも…私は幸せになりたいの。あのひととと一緒にいても、私は幸せになれない。それに…あのひとは私のことなど好きではないわ。あのひとの好きなひとはもっと別の人…」

「嘘だわ」

 応える言葉が終わらぬうちに、即座に否定した翡翠を、真珠はそっと抱き締めた。

「ごめんなさい…本当に我儘で身勝手なことを私はしようとしている。分かってる。でも……」

「真珠…」

「もう、言い訳を重ねるのは止めにするわ。翡翠…貴方も良く考えて…」

 

 自分のこれからの幸せを。

 

 羽が触れるような柔らかさで、真珠は翡翠の耳元で囁き、そっと身を離した。

 引き止められず、立ち尽くす翡翠の耳に、彼女の最後の言葉だけが残る。

 

『例え離れていても、いつも貴方の幸せを願ってる』

 

 

「…真珠。私貴方が言ってくれたように、自分の幸せを考えることが出来なかったわ……」

 

 ずっと過去の幸せばかりに拘っていて。

 今になってやっと、真珠の言葉が理解できたのだ。

 あのひとが求めているのが真珠でも、もちろん翡翠でもなく、全く別の誰かであるという彼女の言葉が本当であったこと。

 あのひとと一緒にいては、幸せになれないと言ったことの意味。

 本当に遅過ぎたけれど…やっと、分かった。

 

「真珠。貴方は幸せになれたのかしら…?」

 彼女の子にも向けた問いをもう一度呟く。

 たった二年間。

 でも……

「…きっと、幸せだったのね」

 彼女が命懸けで生んだ子…桜花の姿を思い出し、淡く微笑む。

 彼女とそっくりな…真っ直ぐ育ったことが分かる、澄んだ眼差し。

 きっと、彼女の選んだひとは優しく、誠実な人だったのに違いない。

だから、きっと………

 

 窓外に目をやると、森の小道に入る手前の草地に、二つの人影が見える。

 草の上にゆったりと腰を下ろして、穏やかに微笑み合う二人。

 

 ……それが、幻だと分かってしまう今の自分が哀しい。

 

 行きたい。あの場所へ……

 

 部屋の扉を叩く音と、

「翡翠様、お薬をお持ちしました」

と言う、扉越しの緑真の声。

それを何処か遠くに聞く。

 

 そう…あれは幻だ。

 

 それでも、彼らに向かって腕を伸ばす自分がいる。

 

 行きたい。彼らの元へ……

 

「…翡翠様?お寝みでいらっしゃいますか?」

 

 腕を…伸ばす……

 

 ……伸ばす………

 

 

 ……だって、真珠が手招くのだ。

 …あのひとが……微笑むのだ………

 

 

 

 

「翡翠様?」

 

 扉を叩く音と、呼び掛ける声は繰り返される。

 

 

 窓辺ではただ、白いカーテンが蝶の儚い羽ばたきの如く、風に揺れた……



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