面影


   面影 32

 

「…あのひとは大丈夫なんだろうか?」

 しっかりと緑真(りょくしん)に支えられながら、去っていく翡翠(ひすい)の背中を見送りながら砂月(さづき)は、何気なく呟く。

「どうだろう…だが、これから彼女がどうするかは彼女自身が決めることだ。俺たちには…いや、少なくとも俺には、これ以上彼女の人生に関われる権利がない」

「…そうだね」

 何処か寂しげに言う桜花(おうか)に、砂月は淡く微笑んだ。

 

 桜花の言う通り、これ以上できることはないだろう。

 それは、彼女の子供である砂月も例外ではない。

 そして、恐らく唯一、彼女の人生に関わることのできるひとはもう、この世にいないのだ。

 

「そうだ、桜花。君の怪我の方は…」

気を取り直して、砂月はずっと気になっていたことを尋ねる。

「ああ…大丈夫だ。手当てはきちんとしたし」

 桜花は朗らかに応える。

しかし、翡翠たちの長い話に付き合ったためか、その顔は先程よりも白くなっている。

仕種も僅かに硬い。

ちょっと黙って、そんな彼の様子を眺めていた砂月は、ふいにその華奢な身体を抱き上げた。

「うわ…っと!」

「声だけは元気だけど…あれだけ出血したんだから、暫く横になって(やす)んだ方がいいよ。公爵、僕たちもこれで失礼しても?」

「構わぬ。足りない薬があれば用意させよう」

「お願いします」

「こら、砂月」

 自分を無視してさっさと話を纏める砂月に、桜花が不満の声を上げる。

「俺は大丈夫だと言っているだろう」

「そんな青白い顔色で言われたって信憑性がないよ」

「……」

「いつもより、体温も上がってるんじゃないかな?」

 とにかく寝んでもらうから、と鋼鉄の笑顔で言う砂月に、桜花は声だけではなく、顔にも不満の表情を滲ませる。

「…分かった。お前の言う通り一度寝む。だから、下ろしてくれ。だいたい、お前だって手を怪我しているだろう。そんな手で負担になるようなことはするな」

「それこそ、大丈夫だよ。桜花にしっかりと手当をしてもらったからね。それに君の身体は僕の手の負担になるような重さじゃない」

砂月の軽い揶揄に、桜花はますますむっとして言い返す。

「それにしたって、怪我をしたのは足じゃないんだ。部屋まで一人で歩いていける」

 桜花がそんな顔をすると、実際の年齢以上に幼い印象になる。

 それを可愛いと思うと同時に、改めて彼と自分は、ひとつしか年の差がないことに気付かされた。

 それなのに、出会ってからというもの、自分は彼に頼りっぱなしの状態になっている。

 更に、翡翠の件に関して、桜花が一人で行動したことも、砂月にとって不本意なことだった。

 恐らく自分を気遣ってくれたのだろうが、せめて一言なりとも相談して欲しかったというのが、正直なところだ。

 このままでは沽券に関わる。

「砂月」

 下ろしてくれ、ともう一度請う桜花に、軽い意趣返しの意味を含めて、砂月はにっこり笑う。

「却下」

「な…」

 反論の余地を許さずに、砂月は思った以上に軽い身体を抱えて、すたすたと歩き出した。

 

 そんな二人に全く表情を変えない公爵が、相変わらずの厳しい声音で告げる。

「明日、跡継ぎの正式決定を下す」

思わず立ち止まって振り向いた砂月たちに、公爵は言葉を継ぐ。

「この一週間の、私から見たお前たちの行動を元に、相応しい跡継ぎを決める。仲が良くて結構なことだが…今後もそれが続けられるとは限らないぞ」

「それはどうでしょう」

「余計なお世話だ」

 公爵の揶揄に、殆ど同時に応えた二人は、思わず、顔を見合わせ、また同時に笑う。

 軽く会釈をして、桜花を抱いたまま、去っていく砂月の背中に、最後の言葉が掛けられた。

「せいぜいゆっくりと名残を惜しむことだ」

 しかし、そう告げた公爵の顔に僅かな苦笑が刻まれていたことに、背を向けた二人は気付かなかった。

 

 

 寝台の上に、細い身体を横たわらせて間もなく、桜花は深い眠りに陥ってしまった。

 傷は熱を持ち、体温自体も上がっているのに、顔色だけは熱を失っているように白く、時折、苦しげに息をつく。

「…桜花。君って実は無理に無理を重ねる性質(たち)だろう?」

新雪の如く白い頬に降り掛かる青銀の髪を、指先で軽く払いつつ、砂月は苦笑混じりに呟く。

 年齢不相応なほどしっかりしている桜花。

しかし、こんな無茶をされれば、危なっかしくて目が離せないではないか。

 次第に桜花の寝息が穏やかになり、温かさを取り戻した頬が、僅かに染まってきたのを見て、砂月はやっと安堵の息をついた。

 

 明日、どちらが跡継ぎになるかが明らかになる。

 そして、どちらかが跡継ぎに選ばれれば、公爵が言ったように、このまま一緒にいることは難しくなるだろう。

 果たして、桜花は公爵の決定を、どのような表情で訊くことか。

 そして、自分は…どうするのだろう?

 

 そこで、ふと気付かされる。

 

 気付いたそれは、すぐにそうに違いないという確信に変わる。

 そうか。

それならば。

 自分に必要なのは決断だけだ。

 

 桜花を起こさぬようにそっと、砂月は部屋を出、自分の部屋へと戻る。

 机に備えてあった便箋と封筒を貰い、文字を綴る。

 ときに躊躇いながら言葉を選び…やっと、書き上がったときには、もう陽が傾き掛けていた。

 

 手紙に封をして、急いで荷物を纏める。

そうして、机の隅に置いてあった色付き眼鏡を見た。

今日の一件で、弾き飛ばされた眼鏡は割れてしまい、使い物にならなくなっていた。

壊れた眼鏡を取り上げ、ふと笑みを零す。

今日の騒ぎの所為もあって、砂月は結局一日中、眼鏡なしで過ごしていたのだ。

 

砂月は壊れた眼鏡を無造作に上着のポケットに入れ、鞄の中にある、予備の眼鏡を取り出すこともせず、部屋を後にした。

 客室が並ぶ廊下の出口で、一度振り返り、

「お先に」

桜花がいるだろう奥の部屋に向かって、届かない挨拶をした。

 

 

 正面玄関ではなく、庭園へと向かう廊下へと出たとき、偶然水差しと薬瓶を載せた盆を携えた緑真と出会った。

「緑真、ちょうど良かった」

 砂月はそれまでと変わりない調子で彼を呼び止める。

「これを出しておいてくれないか?」

「…はい。御実家へのお手紙でございますか?」

「ああ」

 封筒に書かれた住所を見て尋ねた彼に、砂月は頷く。

 緑真は旅支度を整えた砂月の姿を静かに、しかし何処か躊躇いがちに見詰める。

「…行かれるのですね」

「ああ」

「旦那様から跡継ぎの決定がなされますのは明日ですのに…」

「ああ。止めるかい?」

 悪びれず訊き返した砂月に、緑真はゆっくりと首を振る。

「私はもう、第二執事では御座いませんから。貴方様をお止めする資格は御座いません。私の今の役目は、翡翠様にこのお薬をお持ちすること。その間、私は誰にも会いませんでした……しかし、途中で拾った手紙をお出しすることくらいは出来るでしょう」

「有難う。そうだ、すまないけれど、これも捨てて貰えないかな?」

 軽く微笑んでから、砂月は上着のポケットから取り出した眼鏡を緑真に手渡す。

「これからは眼鏡なしで過ごされるのですか?」

「ああ。これからは出来る限り、硝子一枚隔てることなく、世界を見てみようと思う」

 

 自分のことも。

 

と、それだけは心のうちで呟いて、やや驚いたように目を丸くする緑真を、砂月は真っ直ぐ見詰め返す。

砂月の紅い右目を、緑真は僅かな恐れを滲ませて見詰める。

しかし、その恐れは、緑真自身に向けられた恐れだったのかもしれない。

やがて、緑真は目を伏せ、静かに腰を折る。

「砂月様に御迷惑をお掛けした私にこのようなことを言う資格はないのかもしれませんが…どうか、お元気で。出来得るなら、幸せにお過ごし下さいますよう…」

「…有難う」

彼の言葉に微笑んで、砂月は身を翻した。



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